銀座、ちょっと気になるスポット(9)=「名古屋名物 みそかつ 矢場とん」の看板

 日曜日に深酒泥酔、前後不覚になった話を書きましたが、3日経っても回復しません。老人力が付いたということなのでしょう。

 皆さんもくれぐれもお気をつけください。深酒すると、正気を失い、翌日も翌々日も響きますから、何もできません。今流行り言葉でいえば、タイムパフォーマンス=タイパが悪い、ということになります。別に、タイパなんて言わなくても、「時間効率が悪い」とか「時間の無駄」で十分通用するんですけどねえ。「回復力」についても、インテリの皆さんは最近、「レジリエントな社会」なんて、やたらとカタカナ語を使いたがりますけど、格好良いつもりなんでしょうか。

 さて、私は職業病で、ブログを書き続けていますが、題材に関してはかなり不自由しております。ので、いつものマンネリでお許しください。

銀座「みそかつ 矢場とん」

 銀座のど真ん中に、上の写真の看板が目立っていますが、これまで一度も入ったことはありませんでした。理由は簡単です。敷居が高いからです(笑)。

銀座「みそかつ 矢場とん」

 御覧の通り、「ひれとんかつ御膳」ともなりますと、6000円ですからね。そう毎日通えるようなお店ではありません。(それなのに、店内、お昼時は、ひっきりなしにお客さんが入って来ました。不景気なんて言いながら、日本人ってお金持ちなんですねえ)

 「矢場とん」は勿論、本店は名古屋にあり、「みそかつ」も名古屋名物であることは熟知しております。今年、5月に名古屋の友人に会いに行きましたが、一泊した夜は、日曜日だったせいもあり、名物店は軒並み休業で、「海老フリャア」も「みそかつ」も、とうとう現地で「名古屋名産」を食すことなく帰宅してしまいました。

 その敵討ちですかね?(笑) いえいえ、もう一回、「名古屋」の雰囲気を味わいたくなったのです。

銀座「みそかつ 矢場とん」 わらじとんかつ定食2000円

 いつも思うんですが、もし、江戸・東京が日本の首都ではなく、名古屋だったら、今頃どうなっていたんだろう?と、空想したりします。那古屋城を本拠地にした織田信長が暗殺されていなかったら…、名古屋の中村生まれの豊臣秀吉が大坂ではなく、名古屋を本拠地にしていたら…全くゼロではない可能性があります。今では、名古屋には日本を代表する世界的企業トヨタがありますし、メガバンクの名古屋支店長は出世コースでしょう。中日新聞(東京新聞)も部数で毎日新聞を抜き、全国紙並みです。

 もし名古屋が首都になっていたら、日本人は標準語として「ミャー、ミャー」語を喋っていたのかと思うと、名古屋関係者の皆様にはすみませんが、笑えてきます。

 名古屋は伊勢湾がそばにありますから、伊勢海老などの海産物も美味しければ、名古屋コーチンも有名で、隠れた食の名産がたくさんあります。

 「矢場とん」では、迷った末に「わらじとんかつ」定食2000円也を注文しましたが、みそかつと普通のとんかつの二種類セットも選べたので、つまり二人分みたいなものでした。値段並みのボリュームがありました。みそも思ったほど辛くなく、キャベツの量もちょうどよかったのですが、もう少し御飯が欲しかったなあ。(おかわり出来たかもしれませんけど)

 深酒で不調でしたが、名古屋から元気をもらいました。

旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

名古屋といえば尾上菊五郎丈を思い出す

 お断りするまでもなく、《渓流斎日乗》は、「双方向性メディア」を謳っておりますが、個人的な身辺雑記です。最近は「読書感想文」が多いのですが、日々感じた由無し事(よしなしごと)を気儘に書き連ねています。

 ということは、その時「知り得た情報」と「時代背景」での感想ですので、その後、「転向」して考え方も変わっていることもあります。むしろ、そういう場合が多いでしょう。いずれにせよ、本日、このブログの総閲覧数が、2017年9月15日に独立(2005年開始から2017年までは、gooブログでお世話になっておりました)して以来、61万アクセスを超えましたので、読者の皆様には感謝申し上げます。本当に有難い限りです。

奉供養庚申之塔・宝永□□□九月吉祥日 宝永年間(1704~11年)綱吉、家宣の時代、300年以上昔の碑か?

 扨て、また、個人的な話ですが、来月、名古屋に行くことにしました。旧い友人に会うためですが、半ば冗談で「大先生(私のこと=笑)がお出ましになるので、粗相のないように」とメールしたら、彼は、3日も寝ずに考えたような旅程表を作ってくれました。

 私自身は、旨い酒の肴を出す飲み屋さんと、名所旧跡は秀吉、清正所縁の地を希望していたのですが、彼は熱田神宮を旅程に組み込んでくれました。熱田神宮といえば、名古屋から離れたずっと遠い所かと錯覚していたのですが、結構近いんですね。名古屋市内でした(笑)。私は40年近い昔、名古屋にはプロ野球の取材等で何十回訪れたのか分からないほどですが、ほとんどホテルと球場と飲み屋さんの往復ぐらいで、名古屋城さえ行ったことはありませんでした。駄目ですね(苦笑)。

 そう言えば、思い出したのですが、これまた30年ぐらい昔の話ですが、歌舞伎の尾上菊五郎丈主演の舞台が名古屋の御園座で行われるということで、演劇記者の招待会がありました。どういう経緯(いきさつ)だったのか忘れましたが、記者会見と懇親会が終わった後、どういうわけか、私一人だけが音羽屋さんに気に入られてしまい、二次会に誘われました。

 音羽屋さんとは、勿論、当代七代目菊五郎丈のことです。そこで私は生涯忘れない数奇な経験をするのです(笑)。

 音羽屋さんは「芸人の鑑」みたいな方で、名古屋一の繫華街「栄」に馴染みの店がたくさんあるようでした。しかも、行く所は、東京・銀座の高級クラブのような、綺麗どころさんを何人も揃えて「座ってナンボ」みたいな店です。恐らく、座っただけでも3万円ぐらい取られそうな超高級クラブばかりです。

 1軒目は、水割りを1、2杯呑み、「俳名(はいみょう)」など真面目な話をして、「髙田さん、次、行きましょうか」と仰るのです。30分も座っていなかったと思います。2軒目は、ちょっとお化粧がケバイ、ちょっと董(とう)が立ったマダムで、「あらあ、ヒーさん。ちょっと、何処で浮気してたのよー」と、映画か漫画でしか見たことがないようなセリフをしゃべり、菊五郎丈も「俺も忙しいんだよ」とか何とか言いつつ、高級ブランデーを舐めて、この店も20分ほどで切り上げ、「河岸(かし)を変えましょう」と3軒目へ。ここは、かなり若いキャピキャピの女の子がいっぱい。ワイワイ、キャアキャア言いながらも、客が、あの天下の七代目菊五郎だということがまるで分っていない様子。

 ここも20分ほどで切り上げて4軒目へ。今度は照明を落とした薄暗いバーで、菊五郎丈は、ママに「よっ!」と声を掛けて、水割りをほんの少し口に含んで、次の店へ。もう、その頃は、私も酔いが回り、右も左も分からず、ただ「はい、はい」とついていくばかりです。5軒目は、またキャバレー風の明るい店で、熟練の女性が3人付き、菊五郎丈は「俺を誰だか知ってるかあ?暴れん坊将軍とは俺のことだあー」とすっかり興に乗ってしまい、「おーい、次、行くぞー、髙田~」と豹変。あれ?最初は「さん」付けしてくれたのになあ?と思いつつ、御主人様に只管付いていくのみです。6軒目、7軒目ぐらいまでは覚えているのですが、あとは記憶が消えました。ただ覚えているのは、本当に「座っただけ」で何も頼まず、「次~」の掛け声で新たな店に移っていたことでした。

 こんな体験したのは、世間広しといえども、歴史上、私ぐらいでしょう(笑)。勿論、お店は「顔パス」で、払いはツケでしたから、後で高額の請求書は勧進元の松竹に回って来ました。松竹の広報の人からは「髙田さん、派手に引き回してくださいましたねえ」と嫌味を言われてしまいました。勿論、「えっ!?逆でしょう!!」と言い返しました。もう音羽屋さんは覚えていないかもしれませんが(笑)、私は一生忘れない想い出です。

 あ、そうそう熱田神宮の話でした。ここは三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を御霊代(みたましろ)とした格式の高い神社として有名ですが、この剣は、源平合戦の壇ノ浦の戦いで、三種の神器を携えた安徳天皇とともに海に沈んだはずです。と思ったら、私の手元にある「一生に一度は行きたい日本の神社100選」(宝島社)には、関門海峡に沈んだとされる草薙神剣は形代(かたしろ=本物になぞらえたもの)で、本物は今でも熱田神宮にまつられている、と書いてありました。

 勿論、草薙神剣は非公開でしょうが、熱田神宮のお参りが楽しみになりました。

【追記】2022.4.18

 今思い出しても、音羽屋さんとの名古屋での「はしご酒」は奇跡のような体験でした。考えてみれば、当時の菊五郎丈は50歳代で今の私より若い!ズバリ、竹を割ったような裏のないさっぱりとした性格で、男気のある方でした。

 私の世代は、音羽屋さんが菊之助時代に出演したNHK大河ドラマ「源義経」(1966年、音楽は武満徹!)の印象が強いので、その話をしたら、「俺はもうテレビ(のドラマ)には出ねえよ。歌舞伎役者だから舞台に懸けているだ」と話してくださったことがとても印象的でした。

 「源義経」で静御前役だった藤純子さんと後に結婚されたので、ドラマの共演がきっかけだったと思いましたが、その話ははぐらかされました。とても真面目な人でした。