非生産的活動の象徴ピラミッドこそ後世に利益を齎したのでは?=スミス「国富論」とハラリ「サピエンス全史」

 読みかけのアダム・スミスの「国富論」を中断して、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(河出書房新社)を読んでおりますが、下巻の134ページ辺りから、このアダム・スミスの「国富論」が出てきて、「おー」と思ってしまいました(笑)。

 何と言っても、解説が分かりやすい! 「国富論」は超難解で、どちらかと言えば、つまらない本だと思っていたのですが(失礼!)、それは我々現代人が、当たり前(アプリオリ)だと思っていることが、実は、スミスの時代では非常に画期的で革命的思想だということをハラリ氏が解説してくれて、目から鱗が落ちたのです。

 スミスが「国富論」の中で主張した最も画期的なものは、「自分の利益を増やしたいという人間の利己的衝動が(国家)全体の豊かさの基本になる」といったものです。これは、資本主義社会の思想にまみれた現代人にとっては至極当たり前の話です。しかし、スミスの時代の近世以前の古代の王も中世の貴族もそんな考え方をしたことがなかった、と言うのです。

 まず、中世まで「経済成長」という思想が信じられなかった。古代の王も中世の貴族も、明日も、将来も行方知らずで、全体のパイは限られているので、他国に攻め入って分捕ることしか考えられない。そして、戦利品や余剰収穫物で得た利益をどうするかというと、ピラミッドを建築したり、豪勢な晩餐会を開いたり、大聖堂や大邸宅を建てたり、馬上試合を行ったりして、「非生産的活動」ばかりに従事していた。つまり、領地の生産性を高めたり、小麦の収穫を高める品種を改良したり、新しい市場を開拓したりして、利益を再投資しようとする人はほとんどいなかったというのです。

 それが、大航海時代や植民地獲得時代を経たスミスの近世の時代になると、利益を再投資して、全体のパイを広げて裕福になろうという思想が生まれる。(そう、アダム・スミスによって!)しかも、借金をして将来に返還する「信用」(クレジット)という思想も広く伝播したおかげで、起業や事業拡大ができるようになり、中世では考えられないような「経済成長」が近世に起きた。

 現代のような資本主義が度を過ぎて発展した時代ともなると、現代の王侯貴族に相当する今の資本家たちは、絶えず、株価や原油の先物価格等に目を配って、利益を再投資することしか考えない。非生産的活動に費やす割合は極めて低い、というわけです。

 そうですね。確かに、現代のCEOは絶えず、株主の顔色を伺いながら、M&A(合併・買収)など常に再投資に勤しんでいかなければなりません。非生産的活動といえば、50億円支払って宇宙ロケットに乗って宇宙旅行することしか思いつかない…。(しかも、それは個人の愉しみで終わり、後世に何も残らない。)

 勿論、ハラリ氏はそこまで書いてはいませんが、確かにそうだなあ、と頷けることばかりです。「サピエンス全史」は、人類学書であり、歴史書であり、科学の本であり、経済学書としても読めます。しかも、分かりやすく書かれているので、大変良い本に巡り合ったことを感謝したくなります。

築地「蜂の子」Cランチ(オムライス)1050円

 ただ、私自身はただでは転ばない(笑)ので、ハラリ氏の論考を全面的に盲信しながらこの本を読んでいるわけではありません。これは著者の意図ではないと思いますが、古代の王や中世の貴族らが非生産的活動しか従事してこなかったことについて、著者の書き方が少し批判的に感じたのです。

 しかし、彼らの非生産的活動の象徴であるエジプトのピラミッドやパリやミラノやケルンやバルセロナなどの大聖堂は、現代では「観光資源」となり、世界中の観光客(異教徒でも!)を呼び寄せて、後世の人に莫大な利益を齎しているではありませんか。

 とはいえ、もうアダム・スミスの「国富論」はつまらない、なんて言えません(苦笑)。それどころか、ニュートンの「プリンキピア」やダーウィンの「種の起源」も読まなくてはいけませんね。

アダム・スミスと欲望の資本主義

 新しい年が明けて、何となくですが、今年は良い年になりそうな気がしています。自分でも、本当に数年か数十年ぶりに運気が向上している感じがしています(笑)。

 とにかく、高齢者になってもまだまだ色々と勉強することが出てきて、読まなければならない本が次々と現れてくるのです。こんなに真面目に勉強している老人は、世の中にいないんじゃないか、と通勤電車に乗るたび実感します。ざっと見回して、読書している人が私以外一人もいないからです。

 若い頃は、1カ月30冊ぐらい読めたのですが、さすがに高齢になった今はそうもいきません。限られた人生ですから、残された時間で読める本も限られているので、せめて「人類の遺産である古典だけでも」ということで読み始めたのが、アダム・スミスの「国富論」(国民の富の性質と原因に関する研究)です。今は、高哲男氏による新訳の講談社学術文庫の上巻の半分ほど読み進みました。最初はサッパリ理解できなかったのですが、段々とスミス節にも慣れてきて、読むのがワクワクするほど楽しみになってきました。

 人間には2種類の人間しかいない。アダム・スミス「国富論」を読んだ人と読んでいない人の2種類だ。

 と嘯いておきましょう。

 アダム・スミス(1723~90年)は、近代経済学を確立した最初の学者と言われますが、経済は人類の生活に欠かせない行為なので、その前に経済的なことを研究する学者や探検家や司祭らが何人もいて、スミスも彼らの論文を引用しています。例えば、ラディマン氏やレナール氏はこうこう言っているが、今の時代は事情が違ってこうなっている、といった記述に遭遇すると、とても人間臭くて、アダム・スミスを身近に感じてしまいます。

2022年正月の銀座・並木通り

 この本には色んなことが書かれているので、私の力ではとてもまとめきれないのですが、初版が書かれた1776年をアダム・スミスは「現代の最先端」として扱っているので、私はその時代に降りて、決して古臭いとは思わず、なるべく彼と同時代人の目と同じように接して読むように努めています。

 例えば、第一編「労働の生産力が改善される原因と自然に分配される秩序」の第二節「ヨーロッパ政策によって引き起こされた不平等」の中で、「欧州の大部分の同業組合化された職業で確立した徒弟修業期間は7年間ではあるが、ありふれた機械工の職業であれば、数日間のレッスンでも十分に用が足りる」といった趣旨のことを書く一方で、「ありふれた職業よりもずっと高度な技術、例えば、置時計や携帯用の時計製作といった技術が、長期の研修教育を必要とすることは疑問の余地がない」とも書いています。

 普通の人なら、通り過ぎる箇所ですが、私は、はっはあー、携帯用の時計は、今のスマホに匹敵する当時の最先端のハイテク産業だったろうなあ、と考えます。そして、私も以前、東京・銀座で高級腕時計店巡りをしたことがあり、今でも世界三大高級腕時計の一つとして知られるスイスの「ヴァシュロン・コンスタンタン」が、「国富論」出版の19年前の1755年に創業されていたことを思い出し、この事実を照らし合わせただけでも愉快になってしまいます。

 このほか、ローマ時代、カエサルを暗殺した一人で「ブルータス、お前もか」で知られ、高潔だったと言われていたブルートゥス(BC85~BC42)がキプロス総督時代に48%の高利で貨幣を貸し付けていたことをこの本で知りました。

銀座「華味鳥」博多御膳1800円

 「国富論」はキリがないので、この辺にしますが、アダム・スミスは、確かに現代の経済学者や財政家らにも多大な影響を与えていることを知りました。年末年始のテレビ番組の中で抜群に面白かったのが、1月1日にNHKーBSで放送された「欲望の資本主義2022  成長と分配のジレンマを越えて」でしたので、その話をします。(1月10日に再放送があるようなので、見逃した方はどうぞ)

 この中で、一番面白かったのが、ギリシャの財務相も務めたことがある経済学者のヤニス・バルファキス氏の発言でした。あまりメモが取ることができなかったので、私の補遺も入ってしまうことをお許し願いますが、彼はいきなり、世界で20億人以上の利用者がいるFacebookのザッカーバーグを批判します。「彼は、メタバースという仮想現実空間の中に自分を反映したアバターを作らせ、恐らく、数百万以上の人間がその中で、デジタル取引などを活発に行うことだろう。私はご免だね。情報の奴隷や農奴になってザッカーバーグなんかに支配されたくないよ」と痛烈に言い放ったのです。これは痛快でしたね。

 そして、バルファキス氏はアダム・スミスを持ち出します。

 「アダム・スミスは、市場が持つ自由の力と効率の高さを激賞したが、株式を公開している会社に対して匿名の株主が所有することを猛反対した。資本主義の守護聖人として名高い人物が資本主義に真っ向から反対していたことは興味深いでしょう。というのも、株式が匿名で取引されると流動的な通貨となり、いずれ集中することとなる。今や、ニューヨーク株式市場に上場する全企業の9割が、ブラックロックとステート・ストリートとバンガードのたった3社の投資会社に所有されている事態になっているんだ。これでは、独占資本主義だよ。アダム・スミスが思い描いた『共同体市場』が生まれるには、金融市場と労働市場を、すなわち資本主義そのものを既存の体制から取り除くしかない」

 バルファキス氏はこのような趣旨の発言をしていたので、嗚呼、「国富論」を読んでいて良かったなあ、と改めて思った次第です。

予想外にも超難解な書=アダム・スミス「国富論」

 今、大変難儀な本に取り組んでおります。

 人生残り少なくなってきたので、せめて、死ぬ前に人類として読むべき古典は読破しなければいけない、という至極真面目な動機から、まずは、アダム・スミスAdam Smith(1723~90)の「国富論」に挑戦しております。

 正式なタイトルは「国民の富の性質と原因に関する研究」An Inquiry into the nature and causes of the wealth of nationsというらしいのですが、初版は1776年。ちょうどアメリカ独立宣言の年と同じです。日本は安永5年。十代将軍徳川家治、老中田沼意次の時代で、平賀源内がエレキテルを復元し、南画の池大雅が亡くなった年です。

 格闘している本は、「読みやすい」という評判の高哲男・九州大名誉教授による新訳で、講談社学芸文庫の上巻(2020年4月8日初版、2321円)と下巻(同年5月14日初版、2409円)の2巻本です。いずれも(索引も入れて)700ページ以上あります。大袈裟ではなく、百科事典並みの厚さです。それなのに、1日10ページ読めるかどうか…。

 正直、書いている内容がよく分からないのです。例えば、こういった調子です。

 人間に対する需要は、あらゆる他の商品に対する需要と同様に、必然的にこのような仕方で人間を規制するのであって、その進行があまりにも遅すぎる場合には速め、あまりにも急速な時には停止するわけである。…云々(136ページから)

 「停止するわけである」と言われてもねえ…何度も何度も読み返して、何となく意味が分かる程度です。

銀座「笑笑庵」海老天巻きセット1200円

 250年ぐらい昔の「名著」と呼ばれる超有名な古典ですから、さぞかし多くの人類が読んできたことでしょうが、果たして最後まで読破出来た人は何人いるのか? ー3億人、いや1億人もいますかねえ(笑)。日本人も専門家にとっては必読書なんでしょうけど、我々のような素人ともなると、300万人もいますかねえ?思ったほど難解なので、途中で挫折する人が多いと思われます。

   そもそも、アダム・スミスAdam Smith(1723~90)がどんな人物なのかよく分かっていませんでした。「経済学の父」と呼ばれるくらいですから、その分野の開拓者で、それ以前は学問研究として経済学なるものはなかったことでしょう。スミス自身は、英国人というより今でも独立心旺盛なスコットランド人で、グラスゴー大学の倫理、道徳哲学などの教授を務めた人でした。

 18世紀の英国は、産業革命が進展し、徐々に政治の民主化も行われ、「啓蒙主義」の時代と言われるように、同時代人として、フランスのヴォルテール(1715~71)、テュルゴー(1727~81)らフランス啓蒙主義者もおります。スミスもスコットランド貴族の家庭教師として2年間、フランスに滞在した際、彼らと交際したようです。スミスが亡くなる1年前の1789年は、フランス革命の年ですから、ロベスピエールらも同時代人ということになります。

 親子ほどの年の差がありますが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91年)も同時代人ですから、もし、貴族のサロンか何処かでモーツァルトの演奏を耳にしていたとしたら親近感を覚えます。(下巻の訳者解説によると、スミスはエディンバラ音楽協会の会員として、毎週金曜日に開催される演奏会でヘンデルやコレッリらの室内楽や協奏曲を聴くのを楽しみにしていたといいます。)

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 後世の学者が「国富論」のキーワードとして挙げているのは、まずは「見えざる手」であり、「分業」でしょう。スミスは、重商主義を批判し、富の源泉は人間の労働であるという「労働価値説」を唱え、市場機能に基づく自由放任主義を主張しました。

  よく誤解されて引用される「神の見えざる手」(invisible hand of God)という言葉は、「国富論」には一度も出て来ることはなく、「見えざる手」という言葉さえ、実は1回しか出て来ないといいます。これは、私はまだ読破していないので、私が見つけたことではなく、先行研究からの引用です(笑)。

 でも、「労働価値説」「自由放任主義」「分業」「見えざる手」でもうお腹いっぱいで、「国富論」を全て理解したような、分かったような気になってしまいます(笑)。これから1400ページ以上も読み切れるかどうか…その間、ブログ執筆も止まってしまいそうです。

【追記】

 アダム・スミスのもう一つの主要著書「道徳感情論」では、「利他心」や「他人への思いやり」の体系、「国富論」は「自己愛」や「利己心」の体系であるという伝統的な解釈は完全な誤りではないが、前者は倫理学、後者は経済学に属しており、この二つの領域がどのように関連付けられ、統一的な思想・理論体系を形作っているのかという点になると、まだ説得力のある説明は提供されていない、と訳者の高哲男氏は「解説」で書いておりました。

 もう一つ、話は全く違いますが、また訳者解説の中で「アダム・スミスは1723年、スコットランド東部の港町カーコーディーKirkcaldyで税関吏の子どもとして生まれた」とあり、吃驚しました。なぜなら、最近、ビートルズの「ホワイトアルバム」に収録されている「クライ・ベイビー・クライ」という曲をコピーしながら聴いていたのですが、歌詞が非常に難解で、3番にこんなフレーズが出てきます。

 The Duchess of Kirkcaldy always smiling and arriving late for tea.

カーコーディーの公爵夫人はいつも笑みを絶やさず、お茶会には遅れてやって来る(試訳)。

 この曲は恐らくメインボーカルのジョン・レノンが作詞作曲したものと思われますが、何で急にカーコーディーが出てくるのかさっぱり分かりませんでした。でも、英国人ならカーコーディーとはアダム・スミスの生誕地であることは常識なのかもしれません。となると、読書家のジョン・レノンは「国富論」も読んでいたのかもしれません。

丹羽宇一郎著「死ぬほど読書」を読む

 丹羽宇一郎著「死ぬほど読書」(幻冬舎新書・2017・7・30初版)を読みました。著者は、大手商社伊藤忠の社長、会長を務め、民間ながら中国大使まで務めた有名財界人ですが、意地の悪い私は、実際にお会いしたことがないので、何故彼がこれほど人望が厚い方なのか分かりませんでした。

 でも、この本を読んで少しだけ分かったような気がしました。「文は人となり」かもしれません。まずは、財界人とはいえ、文章がうまい。読ませる力を持っています。文章家と言ってもいいでしょう。それは、実家が本屋さんだったため、子どもの頃から、身近に本があったため、学校の図書館の本をあらかた読んでしまうほどの読書家だったことで裏付けられているかもしれません。

バルセロナ

 仕事で必要な経済書だけでなく、直接仕事に役立たない日本や世界の文学全集まで読破しているのですから、教養だけでなく、人間観察の面で役立ったのではないかと思われます。

 彼が何故これほどまで人望があるのかという一つに、いつまでも庶民目線で、社長になっても黒塗りハイヤーを断って、電車通勤を続けていたことなどが周囲で共感されたのではないでしょうか。

 著者は別に読書を強制しているわけではありません。最初に「何で本なんか読まなくて問題視されなければいけないのか」という大学生による新聞の投書に対して、「別に読まなくても構いません。でも、こんな人生の楽しみをみすみす逃すのはもったいない」と謙虚に意見を述べています。

 この本で、失礼ながら一番面白かった箇所は、丹羽氏の米国駐在時代の失敗談でした。大豆を担当していた若き丹羽氏は、穀物相場の読みを外して、500万ドル(当時のレートで約15億円)の大損失を出してしまったという話です。大失敗の原因は、ニューヨークタイムズの一面に載っていた「今年は深刻な干ばつになる」という予測記事を鵜呑みにしてしまったからでした。干ばつなら大豆の収穫が減り、相場は高騰する。それなら、今のうちにどんどん買えということで、買い付けていたら、日照り続きだったのが、慈雨に恵まれ、今度は一転して農務省が「今年は大豊作になるでしょう」と発表。おかげで、大豆相場は暴落して、大損害を蒙ってしまったというのです。

 この大失敗で、丹羽氏は教訓を得ます。どんなに権威のある新聞でもその情報が正しいとは限らない。何よりも新聞を通した二次情報ではなく、できる限り一次情報を得るべきだということでした。そこで、民間の天気予報会社と契約したり、自分でレンタカーを借りて穀物地帯を視察したりしたそうです。おかげで、翌年、またNYタイムズが「小麦地帯が干ばつなる」という予測記事が出たときに、「今度は騙されないぞ」と意気込んで、カンザス州に向かい、干ばつになる気配がないことをつかんで、買わずに損失を免れたというのです。著者は「情報のクオリティを見抜け」と言います。

バルセロナ

 私はこのブログで何度も告白している通り、これまで社会科学の勉強を疎かにして、古典的名著と言われる有名な経済書などはほとんど読んでいませんでした。この本を読んで、今さらながら、アダム・スミス「国富論」、マックス・ウェーバー「 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 、マルクス「資本論」、高橋亀吉「昭和金融恐慌史」などは必読書だという認識を新たにしました。

 いい刺激になり、この本を読んでよかったと思いました。