新選組の斎藤一と歴史について

 やはり、幕末史を語る上で、新選組は欠かせません。ということで、そのつもりはなかったのですが、本屋に行ったら、「歴史人」2022年8月号増刊 新選組大全(ABCアーク)が売られていたので、思わず買ってしまいました。

 「大全」というぐらいですから、隊士の履歴や事件はもちろん、天然理心流、神道無念流など剣術の流派に至るまで、まあ新選組に関するあらゆることが百科事典のように網羅されています。新選組に関しては、子母澤寛の「新選組始末記」や司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」などを通して、よく知っているつもりでしたが、これだけ図解入りも含めてまとめられた本は初めてです。

 この本によると、新選組は約7年間の活動期間中、入れ替わりが激しかったものの総勢約400人の隊士がいたといいます。このうち、抗争や粛清などで殺害されたのは、筆頭局長だった芹沢鴨はじめ、伊東甲子太郎、藤堂平助ら15人。切腹を命じられたのは、脱走を図った山南敬助ら14人。その他、池田屋事件で死亡した奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門ら16人を含めて、計45人以上が隊士として亡くなっています。死亡率約11%ですから、結構高いです。

 これではまるで、鎌倉時代初期に比企能員、畠山重忠らが粛正された権力闘争か、マフィアの内部抗争みたいです。

 新選組と言えば、近藤勇、土方歳三、沖田総司の3人で、まずほとんどが語られてしまいます。通好みでしたら、池田屋事件でも活躍する永倉新八あたりが登場するでしょうが、私が注目したのは斎藤一(1844~1915)です。20歳そこそこで三番隊組長、その後、副長助勤も務めた溝口派一刀流の剣豪です。

 新選組から分離した伊東甲子太郎の御陵衛士に、近藤勇の命令で間者として潜り込み、油小路の変あたりから身を隠すために山口二郎の変名を使い、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いにも参戦し、その後、一瀬伝八と改名して最後まで会津に残って新政府軍と戦い、降伏。あの柴五郎の「ある明治人の記録」にも出てくるぺんぺん草も生えない極寒の斗南藩にまで移住させられます。維新後は藤田五郎を名乗って東京に出て会津藩士の娘と結婚し、明治10年の西南戦争では、警視庁の警部補となって従軍します。

 警視庁退職後は東京教育博物館(現東京科学博物館)などに勤務して大正時代まで生きます。行年71歳という波乱万丈の生涯でした。

 斎藤一は、江戸旗本の足軽の出身らしいですが、晩年の彼の写真を見ると、如何にも武士らしい剣術使いの面影が残っています。

 と、ここまで書いていたら、安倍晋三元首相が奈良で狙撃された大ニュースが飛び込んで来ました(その後、死亡、享年67)。まさか、21世紀になってこんなテロが起きるとは思ってもいませんでしたから、かなり衝撃的です。実行犯(41)の動機はまだ分かっていませんが、どうやら新興宗教団体に恨みがあり、政治的イデオロギーではないようです。となると、元海上自衛官で宅建とFPの資格を持つと言われる男のこの行動は一層不気味に感じます。と同時に、戦前の血盟団事件、5.15事件、2.26事件、昭和35年の浅沼稲次郎社会党委員長暗殺事件などと同じように歴史となり、後世語り継がれることでしょう。

 歴史とは、過ぎ去った取返しのつかない出来事ではありますが、我々はその歴史の延長線上に偶々生きていることを痛感しました。

 

🎬「燃えよ剣」は★★★

 いつの間にか、日経新聞金曜日夕刊の映画評で、★のマークが消えてしまいました。会員向けのネット記事には★があるようですが、読者というより、圧力団体、業界から相当な反感があったので取りやめたのではないかと想像してしまいます。

 私は日経の★の数で、観る映画を選んだりしていたのですが、単なる評論家の個人的感想で、その★の数ほど感動するかと言えば、必ずしもそうでもないので、新聞紙面でも洒落として続ければいいと思うんですけれど…。

 私にとって現実生活は重過ぎる面が少しあるので、映画はやっぱり気休めであり、気分転換でもあります。

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 「燃えよ剣」は、司馬遼太郎の原作を読んでいるので内容も知っているし、原作にはない、あっと驚く物語展開があるわけないと思われたので、最初は正直、気乗りしませんでしたが、この映画にはウチの会社も出資して協力しているようでしたので、観ることにしました。

 主役の土方歳三役の岡田准一は、ハンサムな土方と相通じるところもあり、最期はどうなるのか分かっていながら、やはり、少し映画の世界に引き込まれました。

 私も、歴史上の人物としての土方歳三のファンでしたから、函館の最期の地を訪れて、お参りしたこともあります。新選組局長近藤勇(鈴木亮平も顔が似ていてハマり役でした)が斬首された板橋宿も何回か行ったことがありますが、近藤と土方の最後の別れとなった、新選組の最後の本陣となった千葉県流山市にはまだ行ったことがありません。いつか行ってみたいと思っています。

 あら探しをしたらキリがないので控えますが、国内ではもう江戸時代の情緒が残る景色はほとんど残っていないというのに、ロケハンさんたちの努力で、見応えのあるロケシーンが出てきたと思います。京都の池田屋はオープンセットで完全に再現したらしいですし、合戦シーンは3000人のエキストラを動員したといいますから、結構、製作費が掛かったことでしょう。

 あら探しを控えると言っておきながら、近藤勇と別れた土方歳三は、なおも転戦し、宇都宮城と北海道の松前城の二つも城を攻略して落としたというのに、映画では宇都宮城の話すら出てきませんでした。城好きの私としては残念でしたね。

 土方歳三は、単なる剣豪だったわけではなく、西洋軍法を知り、逸早く取り入れて近代戦で城を落とした指揮官として見直されるべきですが、映画では、フランス人の軍事顧問ジュール・ブリュネを登場させるなどしてその活躍ぶりを少し垣間見せてくれました。

 新選組はこれまで何度も映像化され、土方歳三役も渡哲也、長塚京三、山本耕史ら多くの俳優が演じてきましたが、この岡田准一さんが一番のハマり役のような気がしました。

 

渋沢栄一と土方歳三と彰義隊と日経と一橋大学と…

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」をやっと読了しました。Ⅰの「算盤篇」と合わせて、原稿用紙1700枚。長い。2巻通読するのに9日間かかりました。

 17年間にわたって雑誌に長期連載されたものを単行本にまとめたものらしいので、内容や引用に重複する部分が結構あり、もう少し短くできたのではないかと思いましたが、それだけ、渋沢栄一という人間が超人で巨人だった表れではないかとも思いました。

「Ⅱ 論語篇」は、明治になって渋沢が500以上の会社を設立したり、協力したりする奮闘記です。同時に、日清・日露戦争、第1次世界大戦という激動期でしたから、欧米との軋轢を解消するために、財界を中心に親善視察団を派遣したり、国内では教育施設の創立に尽力したりして、渋沢を通して、日本の近現代史が語られています。

 現在の米中貿易戦争にしろ、日米貿易摩擦にしろ、覇権争いという意味で世界は、渋沢の時代とほとんど変わっていないことが分かります。

 渋沢栄一(1840~1931、享年91)は、江戸時代の天保生まれで、幕末、明治、大正、昭和と生き抜きましたから、同時代の証言者にもなっています。幕末に一橋慶喜に仕えたため、京都では新撰組の近藤勇や土方歳三らと実際に会っていて、彼らの人物像を四男秀雄にも語っている辺りは非常に面白かったです。(渋沢が、薩摩に内通した幕府御書院番士大沢源次郎を捕縛した際、土方から「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気がある人は理論を無視しがちだか、君は若いのに両方いける」と褒められた逸話を語っています)

 渋沢栄一が徳川昭武の随行団の一員としてパリに滞在中、一緒に慶喜に仕官した栄一の従兄である渋沢喜作は日本に残りますが、新参としては異例の出世を遂げて、慶喜の奥祐筆に抜擢されます。鳥羽伏見の戦いでは、軍目付役として出陣し、慶喜が江戸に逃げ帰ってからは、江戸で再起を誓い、彰義隊を結成するのです。最後まで上野で官軍に抵抗した彰義隊をつくったのが、渋沢栄一の従兄だったとは!しかし、喜作は内部分裂の結果、彰義隊を飛び出して、新たに振武軍を結成します。それが、官軍に知られて追撃され、武州田無の本拠地から飯能に逃れ、結局、喜作は、榎本武揚らとともに箱館にまで転戦するのです。箱館は土方歳三が戦死した地でしたが、喜作は生還し、明治には実業家になりますが、山っ気のある人で、投機に失敗して、栄一がかなり尻拭いしたらしいですね。

 著者は「牛乳・リボンから帝国劇場・東京會舘に至るまで」と書いてますが、渋沢栄一は生涯に500以上の会社を立ち上げています。意外と知られていないのがマスコミで、今の日本経済新聞(中外物価新報)も毎日新聞(東京日日新聞)もNHK(日本放送協会)も、共同通信・時事通信(国際通信)も、渋沢が設立したり、協力したり、資本参加したりしているのです。

 教育面では、今の一橋大学(東京商法講習所)、二松学舎大学、国学院大学(皇典講究所)、東京女学館大学、日本女子大学、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に関わっています。

 同書では多くの参考文献が登場してましたが、この中で、最後の将軍徳川慶喜が晩年になってやっと回顧談に応じた歴史的資料でもある「昔夢会筆記」(平凡社の東洋文庫)や、渋沢栄一の多くの愛人関係を暴いて「萬朝報」に連載されていたものをまとめた「弊風一斑 畜妾の実例」(社会思想社の現代教養文庫)辺りは読んでみたいと思いました。