壬申の乱と戊辰戦争ぐらいか…=十干十二支の暦について

 昨日は、四柱推命のことを書きました。と、同時に、四柱推命の基礎になっている陰陽五行説についても少し触れました。

 四柱推命も風水もそうですが、易占いをするに際して、基本になっているのが、十干十二支(じっかんじゅうにし)です。これは、中国の古代から行われた暦法の用語です。十干というのは、甲(こう)、乙(おつ・いつ、とも)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)で、一旬 (10日) を表わしています。

 十干を、陰陽五行説の「木、火、土、金、水」と組み合わせると、甲乙が木に分類され、が木の兄(きのえ)、が木の弟(きのと)になります。同様に、丙丁は火で、は火の兄(ひのえ)、は火の弟(ひのと)。戊己は土で、は土の兄(つちのえ)、は土の弟(つちのと)。庚辛は金で、は金の兄(かのえ)、は金の弟(かのと)。壬癸は水で、は水の兄(みずのえ)、は水の弟(みずのと)となります。

 十二支は、子(鼠)、丑(牛)、寅(虎)、卯(兎)、辰(竜)、巳(蛇)、午(馬)、未(羊)、申(猿)、酉(鶏)、戌(犬)、亥(猪)のことです。今でもその年の干支(えと)として使われているので日本人にも大変馴染みがあります。中国では、すでに紀元前17世紀頃に成立した殷代に干支の組合せで暦日を表わしていたそうです。前4世紀頃には、十干が五行「木、火、土、金、水」 と組み合わされて、漢代の前2世紀頃から年月日に、十二支は時刻や方位(辰巳は巽とか)などに使われるようになったといいます。

 これらが日本に伝えられ、年号を甲子(きのえ ね)、乙丑(きのと うし)、丙寅(ひのえ とら)などと使われるようになりました。十二支は、日本語で音読みすると、子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)、辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)、申(しん)、酉(ゆう)、戌(じゅつ)、亥(がい)となります。ですから、甲子(きのえ ね)は「こうし」、乙丑(きのと うし)は「いっちゅう」、丙寅(ひのえ とら)は「へいいん」と読みます。(日本語は音読みと訓読み、漢字も漢音、呉音などがあり、世界一難しいのでは? とにかく面倒臭い!)

 十干十二支の組み合わせは、全部で60通りあり(10干✖6干支=60。だから、「甲子」はあっても、「甲丑」はありません)、それを過ぎると、また1番目に戻るので還暦になるわけです。昔は日本には西暦なんかありませんから、古代から近代、明治までずっとこの暦を使ってきたわけです。ですから、歴史上の事件でかなり使われているのかと思いましたら、意外にも少ないのです。

 まずは、西暦645年の「乙巳(いっし)の変」です。中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺したクーデター事件です。乙巳は「きのと み」の年ですね。次は672年の壬申(じんしん)の乱です。天智天皇亡き後の後継者争いで、大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子を討った事件です。壬申は「みずのえ さる」の年です。

 そして幕末の「戊辰(ぼしん)戦争」なら誰でも知っています。戊辰は「つちのえ たつ」で1868年の年です。それぐらいなのです。えっ!?です。中国では「辛亥(しんがい)革命」が有名です。革命が起きた1911年が辛亥(かのと いのしし)の年に当たるからです。

銀座

 この他、十干十二支で知られているのは、高校野球と阪神タイガースの本拠地として有名な甲子(こうし)園球場(開場した1924年が甲子=きのえ ね=の年)と丙午(ひのえ うま=へいご)生まれの女性は気性が激しく夫を早死にさせる、という迷信ぐらいです。日本人は迷信深いので、丙午の年に生まれる赤ちゃんが異様に少ないのです。

 もう一つ、私が通った大学の近くに「庚申塚」という地名がありました。神道では、道教の影響を受けて、庚申(かのえ さる)の日や年に信仰行事が営まれていましたが、信者(庚申講員)が建てた碑塔や建てられた場所のことを庚申塚といったそうです。

 いずれにせよ、かつて日本人は、元号のほかに、庚申とか甲子といった年号を使っていたことを現代人はすっかり忘れています。

「歴史は繰り返す」のか、「霊が霊を呼ぶ」のか?=倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」

 倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」(SB新書、2021年8月15日初版)なる本が、小生の書斎で、どういうわけか見放されて積読状態になっていたのを発見し、読んでおります(もうすぐ読了します)。

 これが、実に、実に面白い。どうして、積読で忘れ去られていたのかしら? 思い起こせば、この本は、確か、月刊誌「歴史人」読者プレゼントの当選品だったのです! 駄目ですねえ。身銭を切って買った本を優先して読んでいたら後回しになってしまいました。

 この本、繰り返しますが、本当に面白いです。かつての定説を覆してくれるからです。一つだけ、例を挙げますと、長南政義氏が執筆した「新説 日露戦争」です。日露戦争史といえば、これまで、谷寿夫著「機密 日露戦史」という史料を用いた研究が主でした。この本は、第三軍司令官乃木希典に批判的だった長岡外史の史料を使って書かれたので、当然、乃木将軍に関しては批判的です。しかし、その後、第三軍関係者の日記などが発見され、研究が進み、乃木希典に対する評価も(良い方向に)変化したというのです。

 有名な司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」も、谷寿夫の「機密 日露戦史」を基づいて書かれたので、乃木大将に対しては批判的です。旅順攻囲戦でも、「馬鹿の一つ覚えのような戦法で」無謀な肉弾戦を何度も繰り返した、と描かれ、「坂の上の雲」を読んだ私も、乃木将軍に対しては「無能」のレッテルを貼ってしまったほどです。

 しかし、そうではなく、近年の研究では、第三軍は、攻撃失敗の度にその失敗の教訓を適切に学び、戦略を変えて、次の攻撃方法を改良していったことが明らかになったというのです。また、第三軍が第一回総攻撃を東北正面からにしたのは、決して無謀ではなく、「極めて妥当だった」と、この「新説 日露戦争」の執筆者・長南政義氏は評価しているのです。

 また、勝負の分かれ目となった二〇三高地を、大本営と海軍の要請によって、攻撃目標に変更したのは、「司馬遼太郎の小説「殉死」の影響で、児玉源太郎が下したという印象が強いかもしれませんが、実際に決断したのは乃木希典でした。」と長南政義氏は、やんわりと「司馬史観」を否定しています。他にも司馬批判めいた箇所があり、あくまでも、小説は物語であり、フィクションであり、お話に過ぎず、実際の歴史とは違いますよ、といった達観した大人の態度でした。「講釈師、見て来たよう嘘を言う」との格言がある通り、所詮、小説と歴史は同じ舞台では闘えませんからね。

 でも、神格化された司馬先生もこの本では形無しでした。

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 ところで、日本史上、もし、たった一つだけ、代表的な合戦を選ぶとしたら、1600年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」が一番多いのではないかと思います。それでは、日本史上最大の事件を選ぶとすれば、殆どの人は悩みますが、少なくともベストスリー以内に「本能寺の変」が入ると私は勝手に思っています。本能寺の変の後、明智光秀は、中国大返しの羽柴秀吉による速攻で、「山崎の戦い」(1582年)で敗れ、いわゆる「三日天下」で滅亡します。

 関ケ原の戦いが行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、古代から関所が設けられた要所で、ここを境に東を関東、西を関西と称するようになりました。古代では不破道(ふわのみち)と呼ばれていました。そして、山崎の戦いが行われたのは、天王山の麓で、現在の京都府乙訓郡大山崎町です。古代は山前(やまさき)と呼ばれていました。

 この関ケ原と山崎、古代では不破道と山前ー何が言いたいのかといいますと、倉本一宏氏が執筆した「新説 壬申の乱」を読むと、吃驚です。この不破道と山前が壬申の乱(672年)の重要な舞台になった所だったのです。不破道は、大海人皇子(後の天武天皇)が封鎖を命じて、壬申の乱の戦いを優位に進める端緒となりました。そして、山前は、壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した場所だったのです。

 何で同じような場所で合戦やら事件が起きるのか?ー「歴史は繰り返す」と言うべきなのか、怖い話、「霊が霊を呼ぶ」のか、何とも言えない因縁を感じましたね。