大久保さん、ごめんなさい=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」を読了

 11月11日付渓流斎ブログ「明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著『大久保利通 《知》を結ぶ指導者』」の続きです。やっと読了できました。同書は、「出典・註釈」を入れて520ページ以上の大作でしたので、所用にも追われ、読むのに結構時間が掛かりました。とはいえ、難解な書物ではありません。不勉強な私は「大久保利通とはそんな人物だったのか!誤解していた」と何度も何度も感心しながら読みました。

 よく知られている大久保利通(1830~78年、47歳没)という歴史上の人物の評伝だとはいえ、読後感は胸が詰まる思いです。暗殺現場は凄惨そのものです。茲では書くのは憚れますが、暗殺された大久保の遺体の致命傷が事細かく記述されています。うーん、やはり、とても書くことが出来ません。それでも、暗殺者の島田一郎(元加賀藩士、事件後、大逆罪で斬首)ら6人の不平士族は、当時でさえ英雄視されていたのです。暗殺されたのは明治11年5月14日、麹町紀尾井町です。私も訪れたことがありますが、現在の清水谷公園に「大久保利通哀悼碑」があります。その前年に、西南戦争が終結し、大久保の盟友西郷隆盛は自決しています。これで、不平武士たちは、内乱を起こすのではなく、「悪政を糺す」ことを金科玉条として「要人暗殺」に方針を切り替えます。

 当の大久保は、暗殺される当日、早朝(何と6時!)に、麹町の自宅(現ベルギー大使館)で、福島県令(今の知事)の山吉盛典と会談しています。当時の大久保は、自ら率先してつくった内務省の大臣に当たる内務卿で、山吉とは福島県安積疏水事業に関する打ち合わせなどをしていたのです。この事業とは、明治になって職を失った士族や華族らのための公共事業で、いわゆる雇用対策事業です。不平武士らは、これら雇用創出の公共事業のことを知らず、大久保のことを誤解していたことになります。

歌舞伎座(東銀座)※本文とは関係ありません

 内務省と言えば、後世の人間にとって、戦時中の内務省警保局の特高のイメージが強過ぎます。特高は、作家小林多喜二を築地警察署内でリンチ撲殺した身の毛がよだつ恐ろしいイメージです。その恐ろしいイメージが、内務省をつくった「独裁者」大久保利通に重なってしまった弊害がありました。しかし、実は、大久保が内務省を創設した第一の目的が、治安維持ではなく、「殖産興業」だったことが本書を読んで初めて知りました。大久保は、「岩倉使節団」として欧米列強を視察して来ましたから、欧米列強の植民地にならないためにも、国内産業を奨励して国力を高めることを痛感していたのです。一言で言えば、「富国」ですが、意外なことに、大久保にとって、その後の「強兵」の思想は二の次です。何しろ、大久保は、明治4年に起きた台湾に漂着した宮古島島民54人もが殺害された事件が起きた時も、台湾出兵には消極的でした。またまた意外にも大久保は、平和主義者で外交で問題を解決しようという立場で、実際、自ら北京に渡って交渉しているのです。

 大久保は、明治10年に第1回内国勧業博覧会を先頭に立って開催しますが、あくまでも国内の産業の振興と発展と奨励が目的で、海外からの出品を拒否したほどなのです。また、大久保は、これまた意外にも農本主義者でもありました。

 何で当時の人も、そうして後世の人間も、大久保利通とは所詮、盟友を排除してのし上がった権謀術策に長けた冷酷非情な独裁者だというイメージが定着してしまったのでしょうか? 同時代人の岩倉具視でさえ、大久保のことを「才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」と評したことから、大久保利通には思想も学才もない印象が持たれた要因になったようです。こんなんでは、大久保は二度も殺されたようなものです。

歌舞伎座(東銀座)

 しかし、大久保には岸田首相よりも「聞く耳」を持ち、知識を吸収し、著者の言葉を借りれば、「知と知を結び付け、人と人を結び付ける」才能があり、それらはとてもつもなく非凡な才能だったと言えます。「志半ば」で倒れた大久保利通ですが、維新の英傑の中で最重要人物だったということを本書で認識しました。また、この本では触れられていませんでしたが、大久保は公共事業に私費を投じるなど、多額の借金を残して亡くなったと言われます。大久保の後継者となった次の世代の、汚職事件にまみれた井上馨や、「椿山荘」「無鄰菴」など豪壮な別荘を構えた山縣有朋らと比べるとえらい違いです。

 泉下の大久保利通さんには「ごめんなさい。誤解していました」と謝りたいほどです。いつか、東京・青山霊園に墓参したいと思いました。

明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」

  このブログでも何度か取り上げました「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、1430円)を読んでいたら、もっと幕末史や明治の新制度のことを勉強したくなりました。そしたら、ちょうどお手頃の本が見つかりました。瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書、2022年7月25日初版、2420円)です。

 歴史上の人物としての大久保利通は、個人的に、どちらかと言えば、あまり好きになれない人物でした。いや、大嫌いな人物でした。主君の島津久光を裏切るやら、何と言っても、大親友であった盟友西郷隆盛を結果的に追い詰めて死に至らしめた張本人です。変節漢、裏切り者、冷徹、冷酷無比、独裁者といった言葉は、常に彼に付きまとっていた修辞でした。

 しかし、そういった定説を根本的に覆したのが、本書だったのです。この本のキャッチコピー曰く、「独裁と排除の仮面の裏には、人の才を見出し、それを繋ぎ、地方からの国づくりを目指した素顔があった」です。私も新聞各紙が取り上げた書評を読むうちに、「あれっ?自分の考え方は間違っていたのかもしれない」と思い直し、正直、ちょっと高い本だな、と思いつつ、いわば罪滅ぼしのつもりで購入したのでした。

 それで、どうだったのか、と言いますと、すっかり見直しました(笑)。「大久保利通とは、こんな人だったのかあ」と自分の不勉強を恥じました。勿論、この本は、大久保利通を主人公にした物語なので、彼が敵対した徳川慶喜や幕臣たちに対する評価が異様に低く、少しは割り引いて読まなければなりません。でも、著者は、残された大久保日記や書簡などを丁寧に渉猟し、なるべく、ほんの少しですが、距離を置いて客観的に人物像を造形した努力の跡が見られます。

 そんなお堅い話は抜きにしても、幕末明治に関心がある人なら誰でも、十分、面白く拝読できます。薩長土肥の雄藩が如何にして明治維新という大業を成し遂げることができたのか。新政府は、どうやって、征韓論や佐賀の乱、西南の役などの国難を乗り切って、如何にして政治制度を築き上げていったのかー。全てこの本に書かれています。まだ、3分の1近く残っていますが、その途中で、この本が、「第76回毎日出版文化賞」を(11月3日に)受賞したことを知りました。確かに賞に値する良書なので、選考委員の皆さんの千里眼には感心しました。

東銀座

 私が不勉強を恥じた一番大きな点は、てっきり、大久保利通は唯我独尊の独裁者かと思っていたことです。実は、彼は気配り、心配りがある人で、事前の根回しをし、うまくいかないと心を痛めたり、(手紙の中で)落涙したり、辞表を提出したりする人間的側面があったことです。勿論、根回しというのは、政治的駆け引きであり、目的のためには手段を選ばない冷徹さがありますが、それは合理主義でもあり、嫌らしい権謀家の大久保らしいと言えば、大久保らしいのです。

 根回しのカウンターパートナーは、主に、同郷の薩摩藩なら島津久光と西郷隆盛、長州藩なら木戸孝允、そして、宮中工作なら岩倉具視といった具合です。それに大久保は、分け隔てなく、優秀な人材なら、福沢諭吉、西周といった幕臣まで重職に採用しようとしたりしました。

 その政治の目的とは何だったのか? と聞かれると、即座に単純にお答えすることはできませんが、少なくとも大久保を代表する明治の為政者にとっては、私利私欲を廃して公に尽くすことが第一義だったようです。それは、五箇条の御誓文の最初の「広ク会議ヲ興シ,万機公論ニ決スヘシ。」にも表れています。

 明治政府首脳たちは、王政復古の大号令を経て、天皇中心の君主国家をつくろうとしたことは間違いないのですが、特に大久保は、「君民共治」(後にいう立憲君主制)の政体を目指していたことです。独裁的な天皇君主制ではなかったのです。明治4年に参議に就任するに当たり、有名な「定大目的」(政権の大目的)を提出しますが、この中ではっきりと、天皇親政と言えども、決して独裁とならず、御誓文にあるように公論に則ったものでなければならない、と主張しているのです。しかも、華族や士族といった差別なき世を創りだす、とまで宣言しているのです。大久保がこんな革新的な人だったとは。。。

 私にとって、意外だったことは、あの岩倉具視でさえもが、幕末の慶応元年(1865年)6月に執筆した政治意見書「叢裡鳴虫」の中で、「国政の大綱は、天皇一人が決してよいものではない。幕府が専断してよいものではない。君臣が相共に討議して、その結果を天皇が裁決すべきものなのである」と力説していたことです。公家でありながら、天皇独裁を暗に否定しているのです。大久保も影響を受けていたのでしょう。

東銀座

 また、維新三傑の一人、長州藩の木戸孝允も同年、旧知の対馬藩士への書簡の中で、自分は長州の人でも日本の人でもない。(そういったものから離れて、)日本という国の現状を天の高みから見てみようと語っているのです。この話は、維新後の木戸が、版籍奉還と廃藩置県という新政府最大の「一大難事業」を一刻も早く断行するべきだという急進派で、時間を掛けてゆっくりと改革するべきたと主張する大久保としばしば対立したという話につながるわけです。

 私は大久保の方がもっと急進的な過激派だったと誤解していました。

 いずれにせよ、国家の根本となる政治制度を構築するには、理想だけでは済まされず、明治の元勲たちは確固とした思想があり、中でも特別に、大久保利通には広い視野を持った、他人の意見には耳を傾ける(西郷隆盛以上に)「知」の人だったことが、この本を読んで初めて知りました。

(つづく)