古代史が面白い

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

最近の古代史研究は、発掘された考古資料から、木の年輪や放射性炭素を用いた科学的手法で飛躍的進歩を遂げ、大幅に歴史が書き換えらています。

 と、断定的に書きたいところですが、その科学的手法を使っても年代測定に誤差が生じ、何と言っても、いまだに邪馬台国が九州か大和かの論戦に決着がついていないといいます。(大和説の方が有力な遺跡発掘が出てきたようですが)

 騎馬民族征服王朝説も、否定されたかと思ったら、いまだに根強く残っていて、まだ分からないことだらけです。が、私の世代のように40年も50年も前に学校で習った古代史研究と比べれば、飛躍的進歩を遂げていることは確かで、もしかして、古代史が今、一番面白いかもしれないとさえ思えてきます。

 恐らく、日本列島に長らく住んでいた縄文人(アイヌ、蝦夷、隼人、熊襲など)は、稲作の技術を持った弥生人(という言い方はしませんが)から征服、という言葉が強すぎれば、制圧されたか、同化されたか、していったことでしょう。時代は前後しますが、それら渡来人は、北方の鮮卑やツグース系や、大陸の江南(揚子江の南)や半島の朝鮮系、はたまた遥かインドネシア、それにミクロネシアなどの南方から渡ってきたことでしょう。

 そんな予備知識を持って、街を歩いて、日本人の顔を見るとはなしに見てみると、確かに色んな顔があることが分かります。欧米人には区別つかないでしょうが、モンゴル系もいれば、朝鮮系のような顔の人がいます。ジャワ系の人もいますね。日本人は単一民族ではないことが分かります。

 先ほど読了した武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書)から、色んなことを教えてもらいました。2011年7月15日初版ということで、「最新情報」とまでは言い難いので、また何かいい本があったら教えてください。少し列挙します。

・2009年8月に島根県出雲市の砂原遺跡から、12万年前から7万年前といわれる旧石器が出土した。現在のところ、これが日本列島最古の人類の生活の跡だということになる。

・現在のところ、青森県外ヶ浜大平(おおだいら)山元Ⅰ遺跡から出土した縄文土器が日本最古というのが有力。それは、約1万6500年前から1万6000年前のもの。

・水稲耕作の技術は朝鮮半島南端から伝わったと考えられる。江南の水稲耕作が朝鮮半島の中部・南部に広まったのは紀元前1100年から同1000年頃で、その技術は早い時期に日本に伝えられた。

・近年になって、水田跡とともに縄文土器が出土する遺跡がいくつも報告された。(弥生時代初期の福岡・板付遺跡など)→並存しているということは、弥生人が縄文人を征服したわけではないかも。

中略

・5世紀末に朝鮮半島南部の伽耶から移住してきた有力豪族が秦(はた)氏と東漢(やまとのあや)氏。6世紀に新たに来た豪族を今来漢人(いまきのあや)と呼ぶ。

・これまで「大王」と呼ばれた王族の頂を初めて「天皇」と名乗ったは、天武天皇。北極星を神格化した道教の「天皇大帝」にちなむ。中国皇帝と同格の地位を宣言し、これまでの「倭国」の国号を廃して「日本」の名称を対外的に用いた。

・奈良時代の人口は約450万人で、そのうち平城京の人口は10万人。このうち1万人が下級官僚だった。五位以上の貴族の人数は150人程度。家族を含めると800人ほどだった。平城京と周辺には1万人の僧侶もいた。

・古代の朝廷の政務は、太政官を中心に運営され、天皇は、太政官の決定を追認する形だった。太政官には、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議がおり、総称して「公卿」と呼ばれ10数人。すべて、公卿による合議で決められた。→天皇は祭祀の長という性格を持ち、独裁者ではなかった。これは明らかに古代中国やローマ帝国とは違っていた。

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。

つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。

となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。

ところが、おっとどっこい。

女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。

一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居

著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。

そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。

著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」

確かにその通り。

驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。

同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。

草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。

そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。

「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮

著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。

まさに、胤より腹が大事です。

実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)

「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。

著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。

この本については、また次回書きます(笑)。