ハナミズキ Copyright par Keiryusai
今は昔、30年ほど昔、東京・渋谷の狭い路地の一角に「おつな寿司」という鮨屋さんがありました。残念ながら15年ほど前に閉店してしまいましたが、その鮨屋の2階で毎月1回、よく分からない烏合の衆が集まる会合が開催されました。八畳あるかないかの広さでしたので、30人も入れば超満杯。今で言う三密状態でした。
何しろ、皆、勝手に、何の断りもなく冷蔵庫からビールを取り出して来て飲み始め、議論風発すると、口角泡を飛ばして、取っ組み合いの喧嘩が始まりかねない場面もしょっちゅうありました。
主宰者は、当時「調布先生」と呼ばれた奇才なる才人で、人たらしというか、稀代のコーディネーター、もしくはプロデューサーでした。彼の知人友人を核に色んな人が集まりましたが、主に新聞・通信社、出版社、テレビ局等に勤務するマスコミ関係の人が多かったのでした。そういった烏合の衆の参加者が、色んな職種の友人知人をゲストとして呼んで質疑応答する会が毎月1回、土曜日の夕方に開催されたのでした。
ゲストは、刺青彫師、パチンコ釘師、学者、大学の学長さん、美術評論家、政治家秘書…と多士済々。表向きは「オフレコ発言」で、会計はその場で清算(余ったお金は二次会で使い果たす)。会則も名簿もなし。「来る者は拒まず、去る者は追わず」という主宰者の方針でしたから、累計500人以上は関わったのではないでしょうか。参加者の中には、「信長の棺」等で有名作家になった加藤廣氏(故人)や大手電鉄会社の社長さんになった方もおります。
参加者はマスコミ関係が多かったのですが、気象予報士という異色の存在の方が毎回のように参加していました。富沢勝氏です。彼は目立っていたのですぐ分かりました。何故かというと声がでかい(笑)。そのうち、彼は「割れ鐘」(釣鐘が割れてしまうほど声がバカでかいという意味)三羽烏の筆頭格となりました。三羽烏の残りの二人はテレビ局に勤めるS氏(今では釈正道老師として有名)とY氏でした。
富沢氏が得意とするところは、親父ギャグというか、ひどい駄洒落でした。あまりにもひどいので、周囲の顰蹙を買っておりましたが(笑)…。と、ここまで書いて、彼の放った駄洒落は今では、ほとんど覚えていないんですよね。印象的に覚えているのは、「今の若い奴らはモノを知らない。幕末上野戦争の彰義隊のことを将棋隊だと思っている」とか、「早見優(かつての女性アイドル)のこと、男だと思っていた」とか、その程度。駄目ですねえ。メモ書きでもして残しておかないと、人間、どんどん忘れてしまいます。彼のギャグがあまりにも下らなかったせいかもしれませんが(笑)。
その富沢氏が一昨日、急逝されたという話を聞いて吃驚仰天してしまいました。まだ72歳。心臓に痛みを訴え、入院して1週間ほどで旅立ったと聞きました。人一倍、声がでかい割れ鐘で、人一倍、元気が有り余ったように見えたので信じられません。何しろ、気象予報士の後、70歳までJRの「押し屋」をやったり、弁当屋さんで働いたりしていたといいます。晩年まで社会参加と社会貢献に熱心な方でした。それに、大変な勉強家で加藤廣氏の著作の中から、彼の専門の天候の描写を抜き書きして、「この描写は凄い。史実とピッタリ符合しますから」などと発言していました。富沢氏の「割れ鐘」がもう聞けないと思うと、大変悲しくなります。
富沢氏のご冥福をお祈り申し上げます。
回覧メールに、富沢氏のお通夜と葬儀は本日と明日に東京・町屋斎場で行われるとありましたので、これまた吃驚です。昨日、このブログで書いた会社の同僚のO君の義兄の葬儀も本日、この町屋斎場で行われるからです。あまりにもの偶然の一致に、目に見えない何かを感じました。