高知城、松山城、今治城=四国9名城巡り2日目(中)

松山城(現存12天守、重要文化財)広い、本当に広い

 11月24日付の「徳島城、高松城、丸亀城」編に続いて、四国9名城巡りの2日目です。執筆者の体力と知力の都合で、かつてとは違い、なかなか更新できておりませんが、単なる漫遊記なので、お気軽にお読みください。

高知城(現存12天守)

 城巡り第4弾の高知城(現存12天守、重要文化財)は、泊まった高知のホテルからバスでわずか3分でした。

高知城(現存12天守)

 前日は徳島城で「迷い人」になってしまいましたが、この日はホテルで朝食を取った後、部屋に戻ろうとするとカギがない!室内に置き忘れたことが分かり、慌ててフロントに降りて、係りの人にお手数を煩わせてしまいました。綾小路きみまろの世界は続きます(笑)。

高知城(現存12天守)山内一豊像

 高知城(現存12天守)は、既に南北朝時代に大高坂山城として築城され、戦国時代は長宗我部元親が拠点にしたという説もあります。が、やはり、何と言っても、山内一豊でしょう。信長、秀吉の家臣ながら、関ケ原の戦いでは徳川方について手柄を立て、一豊は遠江5万5000石の掛川城から、土佐一国9万8000石(後に24万2000石)を与えられ、築城します。

 山内一豊と言えば、困窮時代に糟糠の妻千代さんが、そっとヘソクリを出して、「これで馬をお買いになって出陣してください」と援助したお蔭で出世していったという逸話はあまりにも有名で、小説(司馬遼太郎「功名が辻」)やドラマ、映画などになっております。

高知城(現存12天守)算木積石垣

 高知城=土佐藩は、幕末に「薩長土肥」の一角として、多くの偉人を輩出しました。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)…そして最後の藩主山内容堂。彼は幕末の四賢侯の一人で、徳川慶喜に大政奉還を勧めた人でした。大酒飲みで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と、陰で揶揄されましたが、最近では再評価されているようです。

高知城(現存12天守)板垣退助像

 城内には板垣退助像もありました。明治の自由民権運動の旗手として有名で、銅像もその演説姿のようですが、実は土佐藩の家老クラスとも言える馬廻組(300石)の上士です。もともと板垣家は、武田信玄の重臣板垣信方を祖とする家柄で、武田家滅亡後、掛川時代の山内一豊の家臣になったわけです。土佐藩だけでなく、江戸時代は身分社会でしたから、武士の中でも階級があり、坂本龍馬らは郷士と呼ばれる下士で、板垣や後藤象二郎のような上士とは住む場所も違っていました。

 100円札にもなった板垣退助は、明治の言論人、政治家のイメージが強いですが、もともと上級武士ですから、幕末の戊辰戦争の際は、新政府側の迅衝隊(じんしょうたい)を率いて、近藤勇らの新選組とも戦っています(甲州勝沼の戦い)。

松山城(現存12天守)本丸6000坪

 次に向かったのは松山城(現存12天守)=第5弾=です。四国の南の高知からまた北上して愛媛県ですから、2時間ちょっと掛かりました。(高知高速道を通り、途中、石鎚山SAで休憩)

 松山と言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台であり、漱石の親友正岡子規の故郷で、今でも俳句が盛んです。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の秋山好古・真之兄弟の故郷でもあります。道後温泉と蜜柑の産地としても有名で、私も何度か松山を訪れたことがありますが、若い頃はあまりお城に興味がなかったので、松山城も、そして今回廻った四国9城全て、生まれて初めて訪れました。

松山城(現存天守12)20メートルの石垣 7階建物

 (この石垣は、「坂の上の雲」の秋山真之が、若き頃、スルスルとよじ登ったという逸話が残っているそうです。)

 松山城の高さは海抜132メートルで勝山の山頂にあります。。実はここまで来るのにロープウェイ(帰りはリフトでしたが)を使って来たのです。勿論、歩いて登って来る方もいますが、ツアー参加者には往復切符(ロープウェイとリフトの両方使える)が手渡されました。

松山城(現存12天守)

 松山城の創設者は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した加藤嘉明です。昔は、「かとう・よしあきら」という振り仮名だったのでそう覚えていたのですが、最近は「かとう・よしあき」が多いですね。

 そう言えば、高知城の山内一豊も、昔は「やまのうち・かずとよ」と呼ばれていましたが、最近は「やまうち・かつとよ」と読む説が有力なんだそうです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する三代将軍源実朝を暗殺した公暁は、昔は「くぎょう」と習ったのに、ドラマでは最新学説を取っているらしく、「こうぎょう」になっています。何という日本語の曖昧さ! どないなっとるねん!? でも、この曖昧さが、長い歴史を持つ日本人の心因性を形作っているような気がします。テキトー(適当)というか、清濁併せ吞む、というか、自分の名前さえどう呼ばれようと気にしないという大らかさと言うべきか、それとも逆に、大胆不敵と言うべきか…。

松山城(現存12天守)

 加藤嘉明も、1600年の関ヶ原の戦いでは、山内一豊と同じように、徳川家康方についてその戦功を認められ、伊予20万石の大名となります。道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築く許可を得ますが、着工から25年の寛永4年(1627年)、松山城完成を目前にして義明は、会津へ転封となってしまいます。(もっとも、42万石に加増されたので栄転ではありますが)

松山城(現存12天守)安土城の影響か、天守と御殿が一体

 その後、あの蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年(1634年)8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

松山城(現存12天守)天守

 蒲生家断絶の翌年の寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主松平(久松)定行が松山藩主15万石に封じられ、それ以来14代世襲して明治維新に至りました。久松家(菅原道真を祖とする)の戦国武将俊勝が、徳川家康の生母於大の方(伝通院、水野忠政の娘)の再婚相手となったことから、代々、久松家は松平姓を名乗ることを許されたのでした。

 松山藩は親藩ですから幕末は当然のことながら、幕府方についたため、朝敵として追討され、財政難の中、15万両も朝廷に献上し、藩主、重臣の蟄居、更迭などで赦免されました。

 それにしても、これだけの立派で広大な曲輪を持つ城が、一部復元再建されたにせよ、21世紀までよく残ったものです。大袈裟ですが、世界に誇っていいお城です。(松山城ばかり贔屓にしてはいけませんが)

松山市「鯛めしスタンド」天然鯛めし定食1850円。養殖ものは1300円でしたが、やはり、せっかくですから天然鯛を選びました。

 松山城も昼食時間を含めて2時間半ぐらい自由時間があったので、ゆっくり見物できました。と思ったら、リフトで麓に降りて、近くのロープウェイ街にあった「鯛めしスタンド」でランチしていたら、そこに無料のマップが置いてありました。

 それを見たら、近くに「坂の上の雲ミュージアム」や「秋山兄弟生誕地」があるので行ってみることにしました。

松山市 秋山兄弟生誕地

 そしたら、「秋山兄弟生誕地」は月曜日で休館日。「坂の上の雲ミュージアム」もやっと見つけましたが、中に入って見学していたら、とてもバスの集合時間には間に合わないことが分かり、泣く泣く退散しました

今治城(海城)と藤堂高虎像

 松山城を北上して、2日目最後の目的地、今治城=第6弾=にはバスで1時間ほどで到着しました。松山も今治も同じ愛媛県で、現在は松山市(人口約52万人)が県庁の所在地として栄えていますが、今治市(人口約16万人)は古代の伊予国の国府が置かれた所だったといいます。つまり、古代は今治の方が栄えていたのでしょう。

 高松城と同じ海城である今治城を、6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に築城したのが、関ヶ原で戦功をたて、伊予半国20万石を領した藤堂高虎です。彼の銅像も建っています。

今治城(海城)の天守

 藤堂高虎は、「築城の名人」と言われ、今治城の前の文禄4年(1595年)に、同じ伊予(愛媛県)に、大洲城と宇和島城(現存12天守)をつくり、今治城の後の慶長13年(1608年)には、伊勢22万石に移封され、伊賀上野城、そして(安濃)津城を大改修しています。

 藤堂高虎は190センチを超える大男だったと言われますが、主君を8回とも10回とも言われるぐらい(仕方なく)変えて、足軽クラスの身分から大大名にまで出世した逸話は事欠かないのですが、茲では省略しておきます。

今治城(海城)天守から見えるしまなみ海道、手前右下に藤堂高虎像が見えます。

 天守からは、今治市と広島県尾道市を結ぶ全長60キロのしまなみ海道が見えました。バスガイドさんの説明では、瀬戸内海には725もの島々があるそうで、第1位は淡路島、第2位は小豆島、第3位は周防大島の順。

 今回のツアー参加者は16人だったと初日に書きましたが、失礼ながら、私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだと思いました。何故なら、バスガイドさんの話はバスの中で身動きが取れないので聞かざるを得ません。一方、各お城に、結構年配の地元ボランティアガイドさんがいて、熱心に説明してくれますが、今治城では、グループの人たちは一切無視して、話も聞かずに自分勝手に見て回っていたのです。

 あまりにも気の毒だったので、私一人だけが、一生懸命に70代半ばと思われる男性ボランティアガイドさんの側にくっついて話を聞いてあげましたよ。

今治国際ホテルの超豪華ディナー

 今回のツアーでは、夕食は1回しかつかなかったのですが、今治で泊まったホテルの夕食は豪華絢爛で大変美味でした。2泊3日分の夕食でした(笑)。

今治城(海城)夜景 あ、失敗!
今治城(海城)夜景 大成功

 夕食後、バスガイドKさんのお薦めで、ライトアップされた今治城の写真を撮りに行きました。

 一応、今治市の中心街なのでしょうが、街中は薄暗いので驚いてしまいました。後で分かったのですが、街灯があまりなかったのです。でも、東京などの都心は真夜中でもライトが煌々とついていて昼間のようですから、考えてみれば、東京の方が異常だということになります。

 それにしても、今治城の夜景は素晴らしかった。海城ですから、海水の内堀に映る天守が見事です。「来て良かった~」と思いました。正直、2日目の高知城も松山城も今治城も甲乙つけ難いほど、どれも素晴らしかったでした。

つづく

高野山に眠る著名大名 信玄・謙信・信長・光秀・三成…

雨飾山(百名山)

仕事の取材とプライベートの旅行で、既に30歳代で、北海道から沖縄まで全国47都道府県の全てを踏破しましたが、まだまだ行っていない所、行ってみたい所は数知れず。日本は結構広いです(笑)。

これまで行ったことがなくて、是非行きたい所の中に、空海が開いた高野山(和歌山県)があります。でも、諸般の事情で今年も行けそうにありません。そしたら、NHKの人気番組「ブラタモリ」で3週連続で特集をやってくれているので、食い入るように見ています。

いやあ、知らなかったことだらけですね。

特に、空海の「御廟」がある奥の院につながる道筋に実に30万基もの墓と供養塔があり、多くの有名人や大名が眠っているという事実には驚かされました。

戦国武将武田信玄と上杉謙信の墓が目と鼻の先にあるかと思えば、織田信長と明智光秀の墓まで側にあるのです。このほか、小田原の北条、仙台の伊達、薩摩の島津、加賀の前田、柳川の立花などの大名家もありました。意外にも関ケ原で敗れた石田三成までここで眠っていたのですね。

かつて、高野山は「追放」や「亡命先」のような側面がありました。有名な史実は、関白豊臣秀次でしょう。秀吉の世継ぎとして一旦は指名されながら、淀君(浅井長政と信長の妹お市との間に生まれた茶々)に実子秀頼が生まれたことから、秀吉に疎まれて、高野山に幽閉され、結局は自腹を切らされます。

この事件がきっかけで、秀吉の信望が厚かった山内一豊(掛川)や田中吉昌(岡崎)ら秀次の御家中衆や仙台の伊達政宗らが秀吉から離れ、彼らが関ケ原では家康側についてしまう原因となってしまいます。

関ケ原後、信州で秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)  親子も高野山に幽閉されましたね。このように、高野山は政治的裏舞台でもあったのです。

で、何で、これだけ多くの墓や供養塔があるのかと言いますと、番組によりますと、お釈迦様が入滅した56億7000万年後、弥勒菩薩の姿で復活され、空海もいわば「通訳」としてこの世に復活するというのです。同時に空海の側に控えている人たちも復活するということで、奥の院にこれだけ多くの墓や供養塔があるというのです。

復活というと、まるで耶蘇教の教えのようですが、戦国大名らは信じたのでしょう。彼らだけでなく、現代でもパナソニックやクボタなどの大企業がお墓か供養塔をつくってましたから、信仰の深さは変わらないということなんでしょう。

有名人のお墓の中には、俳優の鶴田浩二がおりましたが、番組のアシスタントの若い優秀な近江アナウンサーは、鶴田浩二のことを「知らない」と言うのでカルチャーショックを受けましたね。あんな一時代を築いた大物俳優でさえ、忘れ去られてしまうとは!

「街のサンドイッチマン」も知らないことでしょう。

嗚呼、諸行無常