浄土宗西山派を巡る京都の旅(下)=京の中心(へそ)六角堂、石田梅岩

四条高倉 京寿司「いづ源」

8月18日(日)、京都の旅、最終日です。

特に予定はありませんでしたが、京洛先生の携帯電話のことで四条烏丸のショップに行き、その足で、北政所の命令により、香(こう)の老舗「松栄堂」の白川と、寛政元年創業の「田中長奈良漬」を買い求めに行くぐらいでした。

 携帯ショップでの用を無事終えた後、京洛先生は「これから何処に行きましょうか。ああたは、京都のへそに行ったことはありますか?」と仰るではありませんか。

 「京都のへそ?何ですか、それ?」と私。

 「六角堂と呼ばれる聖徳太子が開基したと言われる寺のことです。ここが、京都のへそ、つまり、京都の中心地に当たるということですが、本堂北の本坊は、池坊と呼ばれ、生け花の発祥地といわれてます」

えーっ!凄い所じゃないですか。是非、是非にということで、ショップから20分ぐらいのところまで歩いて行きました。

 六角堂の来歴については、上の写真の高札をお読みください。紫雲山頂法寺が正式名称でした。

 親鸞聖人がここで参籠し、後に浄土真宗を開宗する根源となった、とも書いてあります。

 「京都のへそ」というのは、噂でもフェイクニュースでもなく、実際に「へそ石」がありました。

 京都市の中心のそのまた中心といった意味なのでしょう。

 六角堂の周辺は全て池坊の敷地となっており、この近くにいけばなの池坊の本部があったり、読売新聞の京都総局があったりしました。何で、池坊に読売が?

 それは、読売新聞二代目社主の正力亨氏の妻峰子さんの妹が、池坊専永夫人の保子さんだったからです。その御縁なのでしょう。これも、物識りの京洛先生からの受けおりですが(笑)。

 この後、向かったのが、香(こう)の老舗「松栄堂」です。

 京洛先生は「まあ、すぐそこです」と仰ってましたが、住所は、烏丸通り二条となってましたから、結構歩いたことになります。猛暑の炎天下でしたから、余計、距離を感じました(笑)。

 松栄堂は創業が宝永2年(1706年)といいますから、もう300年以上の老舗です。私も長く生きていますが、これほどの種類と品数が揃ったお香(こう)の店舗は初めてです。

 店舗の隣りには「薫習館」と名付けられた展示館が併設され、いろんな香りを楽しむことができました。仏事用の香だけでなく、ヒーリングや、アロマテラピー用の香などもありました。

京洛先生 御生誕の地

「松栄堂」の近くに、京洛先生が生まれた自宅があった所がある、というので行ってみました。昔は病院ではなく、自宅に産婆さんを呼んで出産したものでした。何しろ、京洛先生の祖父は江戸時代生まれということですから、相当昔の話ですが(笑)。

 現在は、「尾張屋」という蕎麦屋さんになっていて、京洛先生のかつての自宅は、今は尾張屋の家族が住む自宅になっているようでした。

 まあ、東京で言えば、銀座か日本橋といった都心の繁華街の裏通りといった感じです。実際、京洛先生の子どもの頃の遊び場が、新撰組の「誠」の制服を作った近くの大丸百貨店だったというんですからね。

この「京洛先生 御生誕の地」の近くにあるのが、「心学」の石田梅岩が開いた塾の跡地で、「石門心学発祥之地」「此付近石田梅岩講舎跡」の石碑が立っておりました。

京洛先生は「今時、経済評論家でさえ、石田梅岩も心学も知りません。困ったもんですよ」と嘆いておりました。

この看板には、石田梅岩は、聴講料を一切取らず、「正直・倹約・勤勉」などの道徳を説き、とりわけ商人の間に広まった、などと書かれています。

石門心学についても、上の写真の看板で説明されていますので、お読みください。

 京洛先生は「石田梅岩は今の京都府亀岡市出身ですが、亀岡は色んな人を輩出していますね。大本教の出口王仁三郎もそうですし、絵師の円山応挙もそうでしたね」と一人で感心しておられました。

 昼時になったので、 京洛先生ご贔屓の高倉通り綾小路下る 「いづ源」に入りました。

 私も2年ぶりぐらいです。確か、 鯖寿司で有名な京寿司の老舗「いづう」(天明元年=1781年創業)から暖簾分けした店です。このほか、以前、よく連れて行ってもらった八坂神社近くの「いづ重」も、同じ「いづう」からの暖簾分けでしたから、ここはその兄弟店みたいなもんです。

美人の女将さんが大変な話好きで、我々が浄土宗西山(せいざん)派の寺巡りをした話をすると、「そうどすね。西山さんやったら、永観堂(浄土宗西山禅林寺派総本山)はんと誓願寺(浄土宗西山深草寺派総本山)はんは欠かせまへんにゃわぁ~」と仰るではありませんか。女将さんは、毎日色んな賓客をお相手していますから、「耳学問」は確かです。実際、信心深く、お寺参りもされているようでした。

 私は心の中で、「ああ、今日帰っちゃうので、行けずに残念」と思いました。また次ぎの機会にお参りしたいと思いました。浄土宗西山派は現在、大きく分けて三つの流派があり、我々が足を運んだ光明寺は、西山浄土宗の総本山でした。

浄土真宗本願寺派

 京洛先生と別れて、新幹線の時間まで少しあったので、京都駅近くの西本願寺に行ってみることにしました。

 京都駅から歩いて15分ほどなんでしょうが、午後2時、炎天下の京都は死ぬほどの暑さです。途中で倒れてしまうのではないかと思うほどでした。本当です。

西本願寺「御影堂」

なぜ、西本願寺を選んだかといいますと、前日、島原に行った際、その近くに西本願寺があり、ガイド役の京洛先生が「西本願寺は、龍谷山本願寺が正式で、自分たちのことを『西』なんて言わないんですよ。 『浄土真宗本願寺派』と言っているのです。権力が膨大になることを恐れた江戸幕府が、浄土真宗を『東』(真宗大谷派)と『西』に分割しただけなので、西本願寺は、自分たちを『本願寺派』と名乗るように、我こそが本派だと思っているんです」と解説してくれた話を耳にしたからでした。

 西本願寺、いや龍谷山本願寺の国宝の飛雲閣と阿弥陀堂が目下、修復工事中で見られなかったのが残念でしたが、足を運んで良かったでした。

 それにしても、京都は本当に暑かった。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(中)=島原から長岡京の光明寺、そして百万遍へ

島原の御門

京都の旅2日目の17日(土)。

 前夜、「明日は何処に行きましょうかねえ。世界遺産になった仁徳天皇陵に行きますか」と京洛先生は仰るので吃驚してしまいました。ここ数年、毎年のように欠かさず京都旅行をして、京洛先生のお世話になっておりますが、昨年は神戸、一昨年は大津…と、御本人は京都を飽きてしまっているのか、京都以外を巡ることが多かったのでした。

 でも、何となく気乗りがしませんでした。「安養寺の村上住職が仰っていた熊谷直実が創建したという光明寺に行ってみたいのですが…」と提案したところ、京洛先生は「そうですか。では、今回は浄土宗西山派の旅としますか」ということで、予定を変更してくださいました。

 その前に「腹ごしらえ」ということで連れて行ってくれた所が島原です。

 江戸時代に遊郭や料亭が軒を連ね、幕末の志士や新選組らが入り乱れた歓楽街です。司馬遼太郎の小説などによく登場していましたね。

島原の遊郭「角屋」

残念ながら、今ではすっかり寂れてしまい、歴史的保存建造物などになってしまいました。

ちょっと歩けば「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」などの石碑があります。

 角屋については、上の写真の説明文をお読みになってください。

島原住吉神社

 何で、島原に来たかといいますと、ここには特別に安くて旨くて量もある和食を食べさせてくれる「魚河岸 宮武」があるからでした。以前から、京洛先生から「今度、京都にお見えになったらお連れしますよ」と聞かされていた店で、私はすっかり忘れていましたが(笑)。

 ガイドブックには載っていないような、知る人ぞ知る店で、口コミでやって来たお客さんが、大勢やって来ます。 ランチは、朝の10時半開店で、午後1時半で完売状態になります。

10時半に着いたのですが、既に満杯で、30分ほど戸外の暑い炎天下で待たされることになり、近くの島原住吉神社などをお参りして時間をつぶしました。

宮武 日替わり定食800円(税別)

 午前11時、待望の入場です。

 上の写真をご覧になればお分かりの通り、大層豪勢な料理だというのに、日替わり定食が800円(税抜き)という飛び切りの安さです。味は勿論天下一品です。近くに別のこじんまりとして和食屋さんがありましたが、同じような品数の料理で1500円の価格でした。まあ、何と、半額近い値段!これなら人が押し寄せるはずです。

 この「宮武」の近くに魚市場があり、東京でいえば、築地か豊洲といった感じでしょうが、新鮮な魚がすぐ手に入る地の利を生かして、随分良心的な商売をしているものだと感心してしまいました。この店に連れて行ってくださった京洛先生には感謝、感謝です。

 お腹が整ったところで、目指したのは浄土宗西山派の総本山光明寺です。

 京都市街から少し離れた長岡京にあり、バスと阪急電車を乗り継いで、1時間ぐらい掛かったでしょうか。阪急「長岡天神前」からバスに乗りましたが、1時間に2本ぐらいしかなく、行きも帰りも30分ぐらい待たされました。

 でも、足を運んで良かったでした。境内のあまりにもの広さに圧倒されました。

 不勉強で何も知らなかったので、前日に安養寺の村上住職から光明寺の話を聞かなかったら、お参りすることすら頭にありませんでしたからね。

 光明寺とはどんな寺なのか、私が説明するよりも、上の写真を読んでくだされば、十分です。

 光明寺の創建に尽力したのは、「平家物語」や謡曲「敦盛」などに登場する武将熊谷直実です。

 熊谷直実は、今の埼玉県の熊谷市出身かと思ったら、安養寺の村上住職によると、もともとは京都の出身で、平氏だったらしいですね。それが、坂東に下って源氏の武将になったらしいのです。

 武将の宿命とはいえ、多くの人を殺める罪の深さにおののいた熊谷直実は、出家して法然上人の弟子となります。物語は、文楽と歌舞伎「熊谷陣屋」などにも取り上げられ、人口に膾炙しています。

 熊谷蓮生法師となり、念仏一筋に暮らした「念仏三昧院」が、今の光明寺に発展したと言われています。

上の写真は、御影堂(みえどう)で宝暦3年(1753年)に再建された光明寺の中心となるお堂だそうです。御本尊は法然上人御自作の「張り子の御影」。堂内に座っておられた僧侶の方と少し話を伺ったところ、浄土宗西山派の光明寺別院が東京都町田市にもあるということでした。

かなり立派なお堂です。

ほとんど参拝者がおらず、ゆっくりと参拝することができました。

円光大師火葬跡

ここは、法然上人の死後15年経過した頃、専修念仏の広まりに危機感を持った天台宗の僧兵たちが知恩院の御廟を襲撃するという話(嘉禄の法難)を聞いた弟子たちが、密かに上人の遺体を掘り起こして、この地に運んで荼毘に付したと言われます。(遺骨は各地に分骨されたそうです)

 この話を安養寺の村上住職から伺って、是非とも光明寺をお参りしたいと思ったのでした。

 光明寺の隣りには、村上春樹さんの御尊父も通った浄土宗西山派の僧侶を養成する「西山専門学校」(現京都西山短期大学)もありました。「ここだったのかあ」と感激しました。

 炎天下だったので隈なく歩いたわけではありませんが、大学の近くには商店どころか、喫茶店すら見当たらず、これでは修行三昧するしかないかな、と思いました。

 光明寺を辞して、また京都市内に戻り、向かったところは「百万遍」。「今回は浄土宗巡りにしませう」という京洛先生の提案でした。

 百万遍知恩寺は、浄土宗八総本山の一つということで、お参りは欠かせません。

 上の説明文にある通り、百万遍というのは、文字通り、疫病退散のために百万遍も念仏を唱えたところから、付けられたんですね。

百万遍知恩寺 本堂

百万遍の辺りは、京都大学のキャンパスがあちこちにありました。そのうち、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の記念館にも足を運んでみました。

京都帝国大学は、村上春樹さんの御尊父も学ばれた大学なので、いつのまにか、彼の手記「猫を捨てる」を辿る旅になりました。

村上春樹氏は、この「猫を棄てる」という父親について初めて書いた手記の中で、「こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、僕にはわからない」と疑っておりましたが、こうして、私のような一人の一般読者が、安養寺~西山専門学校~京都帝大と足を運んだわけですから、相当な影響力があったということです。ご安心ください(笑)。

 猛暑の旅を終えて、北野天満宮近くの京洛先生の邸宅に戻り、すっかりお馴染みになった近くの銭湯「西京極湯」で一風呂浴びました。

 この「西京極湯」の近くにあるのが、浄福寺です。幕末に薩摩藩の屯所となった寺です。司馬遼太郎の小説にもあります。

浄福寺と薩摩藩との御縁は、天正20年(1592年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に反対して自害させられた島津歳久の首が葬られたことから始まったと言われています。

 浄福寺は延暦年間に天台宗の寺として創建されましたが、火災などで色々と移転があったりして、室町時代末から浄土宗となりました。

 うーん、すごい。ここも浄土宗ですか。偶然にも浄土宗巡りとなりました。

一風呂浴びてからの楽しみは、やはり、きゅっと一杯。

 風呂上りによく立ち寄っていたお好み焼き屋さん「西出」がお盆休みだったので、千本通の串カツ屋さん「半左笑門」に初めて入ってみました。

 いけてました。