長年、「ユダヤ問題」については関心を持っていましたが、不勉強でなかなかその核心については、よく分かっておりませんでした。
ユダヤ民族は、ローマ帝国や新バビロニア王国による支配と捕囚によって、世界中に離散してからは差別と迫害と虐殺(19世紀末のロシアにおけるポグロム=破壊とナチスによるホロコーストなど)の歴史が続き、第2次大戦後になって今度はシオニズムによってパレスチナに国家を建設して、核兵器を装備していることが公然の秘密の軍事大国となり、かつてそこに居た人々が難民になるという歴史的事実もあります。
それにしても、ユダヤ人は神に選ばれた「選民」として、作家、思想家、哲学者、物理学者、音楽家、演奏家、俳優、金融資本家…と何と多くの優秀な「人類」を輩出しているのかという疑問が長年あり、ますます関心が深まっていました。いわゆる「ユダヤの陰謀」めいた本も読みましたが、眉唾ものもあり、どこか本質をついていないと感じておりました。
そこで、出版されたばかりの市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」(岩波新書・2019年1月22日初版)を購入して読んでみました。
新書なので、入門書かと思っていたら、著者は東京大学の定年をあと2年後に控えた「ユダヤ学」のオーソリティーでした。最初の歴史的アプローチこそ、ついて行けたのですが、中盤からのユダヤの信仰や思想・哲学になると、初めて聞く専門用語ばかりで、読み進むのに難渋してしまいました。
まず最初に、一番驚いたのは、「ユダヤ教は『宗教』ではない。人々の精神と生活、そして人生を根本から支える神の教えに従った生き方だ」といった著者の記述です。えっ? ユダヤ教は宗教じゃなかったの?という素朴な疑問です。読み進めていくと、私がユダヤ教の司祭か牧師に当たるものと誤解していた「ラビ」とは、聖職者ではなく、神の教えに関して専門知識を持つ律法学者だというのです。
つまり、ユダヤ教とは、厳密な意味で宗教ではなく、戒律を重んじ、それを厳格に実践する精神と生活様式だったのです。6日目の安息日は、必ず休み、普段はシナゴーグでの礼拝や律法の朗読とタルムード(聖典)の学習など毎日決まりきった行動を厳格に実行しなければならないのです。とても骨の折れる信仰実践です。
戒律といえば、私自身は、「モーセの十戒」ぐらいしか知りませんでしたが、とにかく、色んな種類の独自の律法があるのです。その代表的なものが、「モーセの五書」(旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)とも呼ばれる文字によって伝えられた「成文トーラー」と、西暦200年頃に編纂された口伝律法集「ミシュナ」(ヘブライ語で「繰り返し語られた法規範」全6巻63篇)と呼ばれる「口伝トーラー」です。
口伝トーラーは、 ヘブライ語で「道」「歩み」を意味するユダヤ啓示法の法規範である「ハラハー」と、法規範以外の神学や倫理、人物伝や聖書註解を扱う「アガダー」に分類されます。ラビたちは、ヘブライ語を民族の言葉として選び、神の言葉の学習を中心に据えます。ラビ・ユダヤ教に従うユダヤ人は、主なる神である唯一神を信じ、神の教えに従った行動をすることが求められます。具体的に何をすべきかに関しては、ラビたちの教えに従うことが義務付けられます。従って、ナザレのイエスをメシアと信じて従うのは異端だといいます(65ページ)。
このほか、神秘主義のカバラー思想などもありますが、難しい話はこの辺にして、この本で、勉強になったことは、イスラム教が支配する中世になって、ユダヤ人の9割が、当時欧州などより先進国だったイスラム世界に住み、法学をはじめ、哲学、科学、医学、言語学、数学、天文学などを吸収し、旺盛な商業活動も行っていたということです。それが、1492年のいわゆるレコンキスタで、イスラム世界が欧州から駆逐されると、ユダヤ人も追放、放浪が始まったということです。中世ヘブライ語で、スペインを「スファラド」、その出身者を「スファラディ」と呼び、スペインで長くイスラム文化の影響を受けたスファラディ系ユダヤ人の社会では、哲学的合理主義と中庸の徳が推奨され、生き延びることを優先して、キリスト教への改宗も行われたといいます。(スペインからオランダに移住したスピノザ一族など)
もう一つ、ライン地方を中心とする中欧を「アシュケナズ」、その出身者を「アシュケナジ」と呼び、アシュケナジ系ユダヤ人社会では、敬虔さを重視する宗教思想が尊ばれ、迫害に対して、果敢に殉教する道が選ばれたといいます。
ユダヤ人というのは、ハラハーに基づき、「ユダヤ人の母親から生まれた子、もしくはユダヤ教への改宗者」と定義されていますが、内実は、複雑で、エチオピア系ユダヤ人などいろんな民族が含まれ、色んな考えの人がいて、イスラエルを国家と認めないユダヤ人や、厳格な原理主義のユダヤ教に反対するユダヤ人さえもいるというので、聊か驚きました。
ヴィルナ(現在のヴィリニュス)が「リトアニアのエルサレム」と呼ばれた街で、18世紀には正統派ユダヤ教の拠点だったことも初めて知りました。 とにかく、ユダヤ民族は教育と学習に熱心で「書物の民」と呼ばれ、成人の結婚が奨励されることから、歴史に残る多くの優秀な人材を輩出してきたことが分かりました。
この本の不満を言えば、ユダヤ教の思想・哲学を伝えた偉人は出てきましたが、一般の人でもよく知るユダヤ人として出てくるのは、スピノザとマルクスとハイネ、それに、フロイトとアインシュタインぐらいだったので、もっと多く登場してもよかったのではないかと思いました。そして、何故、あそこまでユダヤ人だけが差別され、迫害されてきたのか、ご存知だと思われるので、もう少し詳しく説明されてもよかったのではないかと思いました。でも、大変勉強になりました。