アフガニスタンに取り残された残留邦人のことを思う

 ここ1カ月近く、タリバン政権が復活し、自爆テロなど「大混乱」という報道が相次いでいたアフガニスタンから、米軍が8月末に完全撤収しました。

 1975年4月のベトナム戦争終結の際、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)の米大使館から慌てふためいてヘリコプターで「逃走」する大使館員らの映像が思い起こされます。(今や、1975年生まれの大学教授の皆様が第一線で活躍されている時代ですから、このシーンを脳裏に刻んでいる方は少ないと思いますが…。)

 このベトナムとアフガニスタンに共通することは、あの世界の超大国である米国が負けたという事実です。日本のメディアで、はっきりと「敗北」と、かっこ付きながら見出しに掲げて書いたのは、日本経済新聞だけでした。他の新聞を読んでも、「撤収した」だの「撤退した」だの「幕引き」だのと書かれているだけで、さっぱり意味が分かりません。

 経済紙である日経は、ベトナム戦争とアフガン戦争を比較して表にしてくれています。ベトナム(1965~75年)では、10年間で約100兆円の戦費を投じ、米兵だけで約5万8000人の戦死者。この他、軍民合わせて約335万人の犠牲者。アフガン(2001~21年)は、20年間で250兆円の戦費で、米兵の死者数は2500人。この他、約16万5000人と多大な犠牲者を生みました。

長期間、オリパラのボランティアを務めた実兄が、抽選でこのスイス製の腕時計が当選したとか。10年後に「何でも鑑定団」に出したら、幾らになるかなあ~(笑)。

 私は知らなかったのですが、アフガニスタンは「帝国の墓場」と呼ばれているそうですね。まず、大英帝国が19世紀から20世紀初めにかけて、3次にわたるアフガン戦争を仕掛けて、逆に敗北(と書く歴史家は少ないようですが)。名探偵シャーロック・ホームズが初対面のワトソン医師に対して、アフガン戦争の帰還者だね、と見抜く場面がありましたが、原作者のコナン・ドイル(1859~1930年)が、敏感にジャーナリスティックな題材を取り入れていたわけです。

 1979年にはソ連によるアフガニスタン侵攻(~1989年)がありました。お蔭で、翌80年のモスクワ五輪は、日本を含む西側諸国によるボイコットがありました。結局、泥沼化して、ソ連の戦死者は1万5000人を出して撤退しました。(撤退ではなく、敗北?)

 そして、今回の米国というわけで、欧米列強の3連敗ということになりますか。

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 それにしても、アフガニスタンからの退避を希望している日本人や協力者のアフガン人を救出するために、日本政府は8月26日になってやっと、自衛隊の輸送機を派遣しましたが、27日に救出できたのが、わずか日本人1人(共同通信の通信員)だけだったというのは、どうも解せませんね。

 首都カブールが大混乱し、帰国したくても、空港にまでたどり着けない人が多かったようです。特に、アフガン人はタリバン政権によって足止めされましたが、日本人の場合、8月15日に早々とカブールの在アフガニスタン日本大使館が閉鎖されたことが致命傷になりました。外務省はHPで「トルコのイスタンブールに臨時事務所を設置して当座の業務を継続しています」と誇らしげに宣言していますが、現地でビザを獲得できなかった多くの残留邦人も多かったことでしょう。(空港で日本の大使館員が待機していたという未確認情報もありますが)英国やフランスの大使が自国民の最後の一人のビザを発給するまで、カブールに居残っていたのとはえらい違いです。

 日本の伝統なのか悪弊なのか、どうも、先の大戦での満洲や朝鮮半島などでの「棄民」を思い起こさせます。