歴史上の人物は善悪二元論で断罪できない=「天皇と東大」第4巻「大日本帝国の死と再生」を読みついに全巻完読

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 立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)はついに全4巻完読できました。最後の第4巻「大日本帝国の死と再生」は、2日間で一気に読破してしまいました。

 巻末に参考文献が載っていましたが、ざっと1200冊以上。これだけ読むのに10年以上掛かりそうですが、著者は読んだだけでなく、こうして単行本2冊(文庫版で4冊)の大作にまとめてくれました。

 当時の文献からの引用が多いので、「曩(さき)に」とか、「抑々(そもそも)」「洵(まこと)に」「啻(ただ)に」「仮令(たとい)」「聊(いささ)かも」「赫々(かっかく)たる」といった接頭辞や、「辱(かたじけな)さ」「恐懼(もしくは欣快)に堪えず」「意思に悖(もと)る」「雖(いえど)も」「抛擲(ほうてき)」「芟除(さんじょ)」「万斛(ばんこく)の恨み」「宸襟(しんきん=天子の心)を安んじ」「拝呈 先ず以って御清福、奉賀候(がしたてまつりそうろう)」「護国の力尠(すく)なきを慚愧し」「上御一人(かみごいちにん)の世界」といった現代では使われなくなった言い回しが、最初は読みにくかったのに、慣れると心地良くなってきました(笑)。こういう言い回しで、極右国家主義者勢から「朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)」だの「国体(天皇絶対中心主義)破壊を企む不逞の輩を殲滅する」などと言われれば、言葉の魔術に罹ったかのように思考停止してしまいそうです。

 昭和初期には多くの思想弾圧事件(美濃部達吉の天皇機関説事件森戸事件京大・滝川事件河合栄治郎事件人民戦線事件のほか、日本共産党を壊滅させた三・一五事件四・一六事件など)があり、主に弾圧された側(ということは左翼)から語られる(つまり、教科書や書籍で)ことが多かったので、戦後民主主義教育を受けた者は、ほんの少ししか右翼側の動向について学んだことはありませんでした。ですから、血盟団の井上日召や四元義隆や五・一五事件の海軍青年将校らに多大な影響を与えた権藤成卿や、むやみな「言あげ」はしない「神ながらの道」を唱えた筧(かけい)克彦や、皇国史観をつくった平泉澄(きよし)といった国粋主義者に関する話は本当に勉強になりました。

 第4巻の「大日本帝国の死と再生」では、昭和初期の東京帝大経済学部の三つ巴の内紛が嫌になるくらい詳細に描かれています。三つ巴というのは、大内兵衛有沢広巳といったマルクス主義の「大内グループ」と土方成美本位田(ほんいでん)祥男ら国家主義の「土方グループ」と河合栄治郎、大河内一男ら自由主義(反マルクス主義で欧州の社会民主主義に近い)の「河合グループ」のことです。この3者が、教授会で多数派になるために、くっついたり離反したり、手を結んだり、裏切ったりするわけです。

 マルクス主義の大内グループは最初にパージされて消えますが、戦後復活して、日本経済の復興を支えるので、大内兵衛や有沢広巳なら誰でも知っています。河合栄治郎は、多くの経済書を執筆(多くは日本評論から出版し、担当編集者は石堂清倫だった)し、戦時中、ただ一人、軍部と戦った教授として名を残しています。(同じく筆禍事件を起こして東大を追放された矢内原忠雄=戦後復帰し、東大学長。私自身はこの人ではなく、その息子で哲学者の矢内原伊作の方が著作を通して馴染みがありました=と河合との関係には驚きましたが…)

 私自身は、むしろ、土方グループの土方成美については何も知らず、この本で初めて知りました。彼ら国家主義者は「革新派」と呼ばれていました。戦後民主主義教育を受けた者にとって、何で右翼なのに革新派なのか理解できませんが、当時は、土方のような戦争経済協力派を革新派と呼んでいました。国家主義者の岸信介が商工省の若手官僚の頃、「革新官僚」と呼ばれたのと一緒です。今でこそ、国家主義や国粋主義、それにファシズムと言えば、悪の権化のように思う人が多いのですが、戦前の当時は、それほどネガティブな意味がなかったといいます。(そう言えば、作家の直木三十五も「ファシスト宣言」したりしていました)

 国粋主義(絶対的天皇中心主義)「原理日本」の蓑田胸喜や菊池武夫らが、東京帝大から共産主義思想の教授追放を目的とした「帝大粛清期成同盟」を結成すると、意外にも野口雨情や萩原朔太郎、片岡鉄平ら童謡詩人や作家までもが賛同していたのです。戦前の皇民教育や軍国少年教育を受けた者にとっては、国威発揚や愛国心は至極当然の話で、臣民の税金で国家の官僚を養成する帝大の教授が反国家的で、コミンテルン支配の共産主義思想を研究したり、学生に教えたりするのはとんでもない話だったのでしょう。

 著者の立花氏は、文庫版のあとがきで「なぜ日本人は、あのバカげたとしかいいようがない戦争を行ったのか。国家のすべてを賭けてあの戦争を行い、国家のすべてを失うほどの大敗北を喫することなったのか。…私がこの本を書いた最大の理由は、子供のときから持っていたこの疑問に答えるためだった。7年間かけてこの本を書くことで、やっとその答えが見えてきたと思った」と書いています。

 私も、通読させて頂いて、今まで知っていた知識と知識がつながって、線状から面体として浮かび上がり、この異様に複雑な日本の近現代史が少し分かった気がしました。

 マルクス主義一つをとっても、戦前の弾圧から、戦後直ぐは、「救世主」のように日本復興のよすがになるかに見えながら、強制収容所の恐怖政治のスターリズムやハンガリー動乱、そしてソ連邦崩壊が決定的となり、威力も魅力も失いました。その一方、東京帝大の「平賀粛学」で、土方グループ追放に成功し辞任した田中耕太郎・経済学部長は、戦後は最高裁判所長官や国際司法裁判所判事などを歴任。この本に書かれていませんでしたが、クロポトキンを紹介するなど進歩的言動で東京帝大を追放された森戸辰男助教授(森戸事件)も戦後は、宗旨替えしたのか、文部大臣や中教審会長を務めるなどすっかり体制派側の反動的な政治家になったりしています。人間的な、あまりにも人間的なです。

 戦後は、国家主義や国粋主義についてはアレルギーが出来てしまったので、今さら極右の超国家主義が日本で復活し、再び戦争を始めようとすることはないでしょうが、戦前は、多くの一般市民も皇民教育を受けていたせいか、戦争協力し支援していたことを忘れてはいけないでしょう。このブログで何度も書いていますが、世の中は左翼と右翼で出来ているわけではなく、左翼が善で右翼が悪で、そのまた逆で、左翼が悪で右翼が善だという単純な二元論で分けたり区別できるようなものではありません。自由主義だって胡散臭いところがあるし、タブー視される国粋主義だって、掛け替えのない価値観があると考えてもいいのです。

 ですから、この本を読んで、蓑田胸喜や平泉澄といった狂信的な超国家主義者のお蔭で、日本は道を誤り、戦争を起こして惨敗したなどと単純な答えを導くのは間違いでしょう。彼らのような怪物(と呼んでしまいますが)を生み出す内外情勢と教育こそが元凶で、教育如何でどんな人間でもできてしまうことを胸に刻むべきではないでしょうか。その意味でも、私自身は、歴史を勉強し、歴史から学ばなければならないと思っています。これはあくまでも個人的な意見なので、多くの人にはこの本を読んで頂き、色々考えてほしいと思っています。

【本文に書けなかったこの他のキーパースン】

一木喜徳郎(内大臣から宮内大臣で昭和天皇の信頼が篤かった)・湯浅倉平(内務省警保局長から宮内大臣、内大臣。反平泉派)・富田健治(近衛内閣の書記官長、平泉の門下生)・畑中健二少佐(宮中事件で、森赳近衛師団長を射殺、「日本のいちばん長い日」)・大西瀧治郎(特攻隊の生みの親、終戦後自刃)・高野岩三郎(東京帝大経済学部創設⇒大原社会科学研究所へ)・大森義太郎、脇村義太郎、山田盛太郎、舞出長五郎(大内グループ)・橋爪明男(東京帝大経済学部助教授で内務省警保局嘱託。大内グループの動静を密告するスパイだった!)

本土決戦は弥生時代の戦だったのでは?=「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」

Washington DC Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日は、道端で怪しげなマスクを3300円(50枚入り)で買ったことを書きました(しかも2箱。1箱は村民4号にあげました)が、ネットではどれくらいで売っているのか今朝、調べたら、何と、「大幅値下げ」と称して1339円(51枚入り)で売っていたのです。つい、先日までネットでは4000円とか5000円とかしたのに、ナンタルチーヤです。良心的な中国政府の「マスク外交」が功を奏したのでしょうか、なんて喜んでいる場合じゃありませんよね。商売は、需要と供給の世界ですから、生産ラインが復活した中国製品のマスクが余剰になれば、当然、価格は暴落していくことでしょう。もう、道端で3300円で買う馬鹿いませんよ。あ、ワイのことやないけ!

 さて、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第3巻「特攻と玉砕」をやっと読了しました。単行本化は2005年12月、文庫本化は2013年1月ですが、初出の雑誌連載は、2002年10月号から2004年3月号となってます。ですから、18年近くも昔に発表された作品を何で今さら取り上げるのか、と糾弾されそうですが、読んでなかったから仕方ありません。その理由については、この本を最初に取り上げた時に書きましたので、茲では繰り返しません。それでも、今読んでも古びていないし、未来永劫、この本だけは読み継がれていってほしいと思っています。必読書です。

 第3巻の前半の主役は狂信的な国粋主義者の蓑田胸喜でしたが、後半は、「皇国史観」を広め、特攻と玉砕を煽動した東京帝大国史科教授の平泉澄(きよし)でした。この方は、正直言ってよく知らなかったのですが、とてつもない人でした。教科書に特筆大書して、生徒に教えなきゃ駄目ですよ。平泉教授は、帝国陸海軍の幹部将校らにも絶大なる影響を与えた学者で、2・26事件などのクーデタに関与せずとも決行する理論的支柱となり(平泉は、昭和天皇の弟君である秩父宮の御進講係を務めて親しかったため、事件の黒幕と目されていた)、また、楠木正成や吉田松蔭に代表される忠君愛国の精神主義を戦場の兵士たちに感化した人(元寇を持ち出すくらいのアナクロニズム!)で、さらには近衛文麿首相らの演説原稿を書いた人でもありました。著者の立花氏は「何よりも私が不思議に思うのは、平泉があれほど特攻と玉砕を煽りに煽って、多くの若者を死に追いやったというのに、本人はそのことに何の責任も感じていなかったらしいことである」とまで書いています。

 終戦直後の昭和20年8月17日の教授会で、平泉は辞表を提出して東大を去り、福井県の実家に引き籠ります。この態度に潔さやあっぱれさを感じる人もいましたが、実は、その福井の実家とは、一般には平泉寺(神仏習合のため)と呼ばれている白山神社(伊弉冉尊を祀り、本地が十一面観音)で、これはかつては「大社」と呼ばれていたほど格式が高く、歴史と由緒がある桁違いに壮大な神社で、平泉家は代々そこの神職を務めていたのです。

 開社は、養老元年(717年)といいますから奈良時代。中世期、朝倉氏から寺領9万石を拝領され、境内には48社、36堂があり、僧兵だけでも7000人も抱えていたといいます。明治維新以降は廃仏毀釈で寺領は没収されたりしましたが、それでも、終戦後の農地改革等でさらなる没収を経ても4万5000坪もの広大な敷地があるといいます。平泉澄はそこの神主ですから、生活は裕福であり、なおも執筆活動を続け、最後まで思想信条と言動は変わらず、昭和59年に89歳の生涯を終えました。つい最近の現代人だったんですよ。

 他にまだまだ書きたいことが沢山あるのですが、あと一つだけ書きます。太平洋戦争末期の昭和20年6月10日、義勇兵役法案が貴衆両院で通過し、日本国民全員(男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで)が義勇兵役に服して、本土決戦の際には武器を取ることになりました。法案を通過させたときの内閣の首相は鈴木貫太郎、書記官長(今の官房長官)は迫水久常でした。この迫水が戦後に書いた「機関銃下の首相官邸」(恒文社)の中で、国民義勇兵隊の問題を話し合った閣議の後、陸軍の係官から、「国民義勇兵が使用する兵器を別室で展示しているからみてほしい」ということで、鈴木首相を先頭に閣僚が見に行ったことを明かしています。

 そしたら、そこに並べてあったのは、手榴弾はよしとして、銃は単発で、まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押し込んで、その上に弾丸を押し込んで射撃するものだったといいます。正規の軍隊の兵士でさえ、「三八式歩兵銃」といって、明治38年の日露戦争で使われた銃を第2次世界大戦で使っていた話を聞いたことがありますが、それ以上の驚きです。私なんか、思わず「火縄銃か!」と突っ込みたくなりました。種子島に伝来した火縄銃とほとんど変わらない武器で、明治の三八式より遥かに古い「室町時代か!」とまた突っ込みたくなりました。ここまでは、大笑いでしたが、迫水ら閣僚が見たこのほかの義勇兵の兵器として、弓矢があったといいます。相手の米兵は装甲車や戦車に乗って、マシンガンやら火焔銃やらバズーカ砲やらでやって来るんですよ。それを弓矢で立ち向かうとは、これでは弥生時代じゃありませんか!大笑いして突っ込もうとしたら、逆に涙が出てきて、泣き笑いになりました。

 軍部は、「平泉史観」の影響で、「1億総玉砕」を真剣に考えていたことでしょう(あわよくば自分たちだけは生き残って)。近代戦なのに、国民全員を強制的に徴兵して、弓矢で戦えとは、あまりにも不条理で、時代錯誤が甚だしく、無計画で、無責任過ぎます。国民に死ねと言っているようなものです。そもそも、陸士、海兵のエリートと政権中枢の特権階級らは、米国との国力の莫大な違いを知っていたわけですから、最初から負け戦になることは分かっていたはず。それなのに、何万人の兵士を犠牲にしておきながら、少しも反省することなく、責任を部下に押し付けて、戦後ものうのうと生き残り、天寿を全うした将軍もいました。

 泣き笑いから、今度は怒りに変わってきました。

狂信的な極右国粋主義者の信条と心情はその時代の空気を吸わないと分からない気がしました=立花隆著「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」から

※アブチロン(「草花図鑑」に載っていなかったので、このブログで公開質問させて頂いたら、御親切な読者の方から御教授頂きました。有難う御座いました)

 さて、いまだに、我が家には「アベノマスク」も「10万円給付」も届いていません。マスクは、既に、御宅に届いていらっしゃる方もいて、SNSにその写真をアップしている方もかなりおられました。でも、最初に配っているのは、東京の世田谷区とか港区とか、高級住宅街にお住まいの皆様方だったんですね。私の住む所は、全国でもベスト5に入るぐらい感染者が多い地域なんですけど…。仕方がないので、道端で売っていた怪しげな中国製のマスクを買ってしまいましたよ。50枚入り3300円。昨年は、60枚入りで500円ぐらいで売っていましたからえらい違いです。都心に出勤するので、仕方ないかあ、てな感じです。

 ところで、いまだに、立花隆著「天皇と東大」を読んでいます。第3巻の「特攻と玉砕」に入り3日目ですが、まだ半分近く残っています。533ページの本ですが、昔なら2~3日あれば軽く読めたのですが、さすがに衰えました。読む速度が遅くなったのは、昭和初期の話になり、関連本が自宅書斎に結構あるので、引っ張り出して参照しながら読んでいるせいかもしません。

 この本(全4巻)は、このブログに以前も書きましたが、国際金融ジャーナリストの矢元君から借りて読んでいます。「えっ? 君は蓑田胸喜も知らないのか?」という私の諫言にいきり立った彼が、ネットで定価の2倍ぐらいのお金を奮発して買った古本で、それを私に貸してくれたのです。(この本は今では手に入りにくくなっていることは以前書いた通り。文春社長、増刷してくれたら定価で買いますよ!)

 矢元君は、経済関係にはやたらと詳しいのですが、近現代史関係の知識には疎かったのです。昭和史関連の書籍を少しでも齧った人間なら、蓑田胸喜を知らない人はあり得ないのですが、彼は知らなかったのです。

 この第3巻の「特攻と玉砕」の前半は、ほとんどこの蓑田胸喜(1894~1946)を軸として当時の世相と社会事件が描かれています。「みのだ・むねき」と読みますが、文字って、「蓑田狂気」と呼ばれたほど、狂信的な右翼の思想家でした。東京帝大時代から上杉慎吉に私淑して上杉のつくった「木曜会」「興国同志会」「七生会」に全て参加し、卒業後は雑誌「原理日本」を発行し、慶應義塾予科の教授も務めながら、国粋主義を信奉し、国体に反するあらゆる学者らを糾弾する煽動活動を行った人でした。何しろ、民本主義の吉野作造攻撃から、京大の滝川事件、美濃部達吉の天皇機関説事件、津田左右吉事件、大内兵衛、有沢広巳らの人民戦線事件、河合栄治郎事件など昭和思想史上全ての思想事件の黒幕になった人でした。(実際、内務省に働きかけて、アカ学者の著書を発禁処分にするよう圧力をかけました)

 蓑田は戦後まもなく郷里熊本で自死します。主宰した「原理日本」の大袈裟な強調点の多い活字組や、目の敵にする無政府共産主義者に対しては「不徹底無原理無信念無気力思想」などいう魔術師的造語でレッテルを貼ったりするのを見ると、かなり常軌を逸した人のように見えます。著者の立花氏はそのことをもっとストレートに書いたため、雑誌に連載時に蓑田胸喜の遺族から抗議を受けます。文庫に所収された文章でも「この人は〇〇〇〇〇なのではあるまいか」とし、なぜ、伏字のままにしているのか、266ページの「一部訂正と釈明」で説明しています。

 確かに、立花氏は、当時の時代の空気を吸っていない後世の安全地帯にいる人間が、高見から蓑田胸喜らをコテンパンにやっつけ過ぎている嫌いもありますが、戦後民主主義を受けた者の大半はその痛快さに拍手喝采することでしょう。(ただし、立花氏は、89ページで、「電通社(立花注・日本電報通信社。後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社)」とだけ書いてますが、明らかに間違い。「後の同盟通信社すなわち現在の共同通信社、時事通信社、電通」が正しいのです。光永星郎や長谷川才次らが怒りますよ。これで、初めて立花氏の限界を感じ、彼が書いた全てを盲目的に信じるのではなく、もっと冷静に客観的に読まなければいけないことを悟りました)

 難癖つけましたが、この本の価値を貶めるつもりは毛頭なく、日本人の必読書で、私自身が生涯に読んだベスト10に入ると確信しています。

 明治以来の日本の右翼の潮流として、玄洋社を率いた頭山満や黒龍会の内田良平らの九州閥の流れと、上杉慎吉と蓑田胸喜の東京帝大の流れがあり、これだけ知っていたら十分かと思っていましたら、この本ではまだまだ沢山、重要人物が登場します。その代表が「神(かん)ながらの道」を唱えた東京帝大行政法の筧(かけい)克彦と、東大帝大国史科の平泉澄(きよし)の両教授です。

 「神ながらの道」は何なのか、具体的には説明できないといいます。何故なら、「神ながら」の対極にある概念が「言あげ」で、本質的に言語による説明を拒むからだといいます。これは、あまりにも日本語的で、英語や仏語、独語などではあり得ないことですね。だからこそ、神ながらの道は、あまりにも日本的な実践学で、天皇を現人神とした神格化の権威付けと先導する役目を果たしました。


もう一人の平泉澄は、いわゆる「皇国史観」をつくり、広めた人でした。「大日本は神国なり」と書き出す北畠親房の「神皇正統記」を日本最高の史書と崇め、全国に忠君・楠木正成の像を造らしめた国史学者でした。彼に一番心酔したのが、陸軍士官学校の幹事だった東条英機少将で、「平泉史観」は軍部に熱狂的に受け入れられて浸透し、ついには現人神である天皇陛下のためには自己犠牲を厭わない人間魚雷などの特攻の精神的裏付けや理論付けとしてもてはやされるのです。(多くの若者たちが特攻で亡くなった戦後も、平泉は生き抜き、何と昭和48年になっても、またしても少しも懲りることもなく、「楠公 その忠烈と余香」を出版します。外交官から経済企画庁長官などを歴任した平泉の三男渉=わたる=が鹿島守之助の三女を妻とした人だったため、鹿島出版社から刊行されました) 

この本の前半で、多く記述されている「天皇機関説事件」とは、右翼が主張する「絶対君主制」(天皇親政)を採るか、美濃部達吉、そして明治憲法をつくった伊藤博文らが主張する「立憲君主制」を採るか、の違いでした。天皇親政となると、軍隊の統帥権から外国との条約締結、財政政策に至るまで、すべて天皇の思うがままにできますが、その代わり、全ての責任を持つことになります。一方の立憲君主制となると、重臣たちが輔弼し、天皇が裁可する形になるので、天皇の思い通りにならないことが多くありますが、責任は、重臣たちに及ぶことになります。昭和天皇はその立憲君主制である「天皇機関説で良い」と認めていました。そして、何と、スパイのゾルゲまでが、その情報を、当時の人はほとんど誰も知らなかったのに、政権中枢にいた西園寺公一や犬養健らの情報を尾崎秀実を通して入手し、見事な分析記事「日本の軍部」(1935年「地政学雑誌」8号)の中で書いているのです。一部の重臣しか知らない超機密情報を入手したゾルゲ博士の手腕には驚くほかありませんが、それなのに、2・26事件を起こした陸軍の青年将校らは、天皇の真意を全く知らず、そして理論的支柱の北一輝までもが「天皇機関説」支持者だったことも理解せず、天皇親政のクーデタを起こして重臣を殺戮し、昭和天皇の怒りを買い、「逆賊」として処刑されます。この辺りの複雑な構造を、かなり詳しく、そして易しくかみ砕いて描いてくれるので、感謝したいほど分かりやすかったです。

 ということで、今日はこの辺で。

 実は、あまりブログを書くのも考えものだな、と最近思うようになりました。正直、「露悪趣味」に思えてきたからです。この辺りの心境の変化はそのうち、おいおい書いていきます(笑)。