日蓮の旅、8月に身延山へ

 8月の夏休みは、日蓮宗の総本山身延山久遠寺に行くことにしました。昨夏、お参りする予定でしたが、コロナ禍の影響でキャンセルせざるを得なかったのでした。今年はそのリベンジで、義理と人情で同じ宿を予約しました。

 身延山は、あの水戸黄門さまも御宿泊されたという宿坊に泊まり、帰りは、海音寺潮五郎と高浜虚子が定宿にしていたという武田信玄の秘湯・下部温泉のホテルに一泊することにしました。

 最近、鎌倉時代の歴史を勉強したおかげで、大分、知識が増えました。私自身は、日本史の中で、鎌倉新仏教にはかなり興味がありましたので、その政治的、経済的、社会的背景が分かって大変参考になりました。つまり、鎌倉新仏教が生まれる土台や基盤が少し分かったということです。

 その鎌倉新仏教の代表とも言える浄土宗(法然)の知恩院、浄土真宗(親鸞)の東西本願寺、臨済宗(栄西)の建長寺、建仁寺など、曹洞宗(道元)の永平寺、時宗(一遍)の清浄光寺といった総本山、大本山にはかつてお参りしたことはありましたが、日蓮宗の総本山(祖山というらしいですが)だけはまだお参りしたことがなかったので、死ぬ前にいつか是非お参りしたいと思っておりました。

 しかも、日蓮は、私の亡父が、個人的に最も関心を寄せていた人物の一人であり宗教でした。とはいえ、特定の団体や組織に入会することは嫌って、独り書斎で関連書籍を収集して読んでいる程度でしたが…。私なんか読めない難解な専門書が多くありましたが、今回は私でも読める本を何冊か実家から借りてきました。そのうちの一冊が、この田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)です。田村氏は当時、東大教授。もう半世紀近い昔の本なので、表現が少し古い箇所がありますが、日蓮の膨大な遺文を第一次史料として、実証的に検討した評伝です。実証的というのは、後世に日蓮を神格化して書かれたものや、呪術的、奇跡的行為などは極力排除して、日蓮の真の実体に迫ろうとした意欲作という意味です。

 当時の書評は知りませんが、恐らく熱烈な信者や宗教界からは、日蓮が自称した「旃陀羅(せんだら)が子」という出自を始め、神懸りなカリスマ性がそれほど強調されていないということで批判されたかもしれません。私自身は、この本こそ、人間日蓮に真に迫っていると大変評価していますが…。

鎌倉・長勝寺

 昨夏、「身延山に行こう」と思い立ったのは、佐藤賢一の小説「日蓮」(新潮社)に感銘を受けたからでした。小説ですから、「講釈師見て来たような嘘を言う」部分もあるかもしれませんが、関連文献を相当渉猟していたようで、史実を忠実に再現し、しかも人物像が生き生きと浮かび上がって、大変面白い魅力ある読み物に仕上がっていました。

 今回は、かなり鎌倉幕府の知識が増えたので、この本を再読すればもっと面白く読めるかもしれません。例えば、日蓮の代表的主著と言われる「立正安国論」を幕府の最高権力者だった最明寺入道に提出しましたが、この最明寺殿とは第5代執権北条時頼のことで、時頼と聞けば、色んなことが思い浮かびます。出家しても、息子の時宗が執権になっても、「院政」に習って、最高権力者の地位に就いていたこと。南宋の僧蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建したこと。また、執権時代は、前将軍・藤原頼経の側近だった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して起こそうとした武力行動を鎮圧したこと(名越の乱)。そして、有力御家人であった三浦氏や千葉氏を滅ぼしたことなどが挙げられます。

 8代執権時宗の時代では、二度にわたる蒙古襲来(文永・弘安の役)に加え、六波羅探題の北条時輔による反乱など内憂外患に苛まれました。つまり、内乱と海外侵略です。

 この二つを「予言」したと言われるのが、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」ということになります。すなわち、日蓮は、正法が消えうせた時には、国土に様々な災難が起き、それは法華経に書かれている他国侵逼(しんぴつ=他国侵入)と自界叛逆(自国内乱)のことだと喝破したのでした。

 承久の乱の翌年(1222年)に安房の漁師の子として生まれた日蓮は、北条時頼、時宗と同時代人ですから、上に掲げた内乱や蒙古襲来によって、結果的に予言が的中し、経験したことになります。

鎌倉・龍口寺

 しかし、「立正安国論」等は時の為政者や宗教界では全く受け入れられず、逆に弾圧、挑発されて依怙地になった日蓮は、他宗派を攻撃し始めます。そのいい例が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言です。これで幕府や地頭からだけでなく、他宗派からも恨みと反感を買い、何度も訴えられて伊豆や佐渡島に流罪となります。特に、文永8年(1271年)、佐渡流罪を問う裁判に引き立てるために、鎌倉の日蓮の草庵を襲って逮捕したのが、平左衛門尉頼綱でした。佐藤賢一の「日蓮」を読んでいた昨年はあまりピンと来なかったのですが、今では平頼綱といえば、北条氏の伊豆時代から仕えた古い御内人(みうちにん)だということが分かります。8代執権時頼と9代執権貞時の執事として大きな権勢を振るった人です。ライバルの安達泰盛を霜月騒動で滅ぼしますが、逆に彼の恐怖政治を恐れた執権貞時によって誅殺されました(平禅門の乱)。

 一介の無名の僧に過ぎなかった(当時)日蓮は、北条時頼や平頼綱といった時の権力者の存在を知り、蒙古からの国書到来など一部の人しか知り得ない内外情勢の事情に通じていました。かなりの情報通です。そんな俗世間から離れた聖界の人が、何処から情報を得るのか不思議でしたが、田村芳朗氏の「日蓮 殉教の如来使」には、早い段階(1256年)で日蓮に帰信した人の中に、北条氏一門の名越光時(あの名越の乱で、伊豆に流された人)の重臣である四条金吾頼基や武蔵池上郷の地頭池上宗仲(後に屋敷に池上本門寺を建立)・宗長兄弟がいたことが書かれていました。恐らく、このような日蓮に帰依した武士たちが、日蓮に当時の政治情勢を伝えていたと思われます。(となると、内乱も他国侵入も「予言」ではなく、確かな情報に基づいた確信だったのではないかと思われます。)

 とにかく、この時代は大地震など天変地異が続発し、飢饉や疫病がはびこって、鎌倉の道端でも屍が累々といった状況で、巷では飢えた物乞いが群れをなし、まともな薬や医療もなく加持祈祷のみが頼りでした。

 数多の迫害や法難(龍の口など)に遭いながらも、最後まで自己の信念を貫き通した日蓮は、こうした国難と人心の不安といった惨状を間近に見て、黙っていられなかったと思われます。

【追記】

 私の父親が九州の片田舎から上京して、初めて住んだのが東京・蒲田(私は此処で生まれました)で、近くに池上本門寺があったことから、日蓮に興味を持ったようでした。

 何しろ、私の子供の時の家族旅行が千葉県の誕生寺(日蓮生誕地)だったぐらいですから(笑)。

 鎌倉への関心は、小学校5年の時の遠足が原点です。バスガイドさんが車内で「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の剣投せじ古戦場」と文部省唱歌「鎌倉」を歌ってくれました。お土産にカルタを買ったら、「日蓮の龍ノ口の法難」があって、急に稲光が起きて、日蓮を処刑しようとした武士たちが恐ろしくなって逃げたカードもありました。

 そんな記憶があるので、日蓮聖人からは逃れられません。