戦国武将 最強は誰か?=意外にも信長公は第6位

 「歴史人」4月号の特集「発表! 戦国武将 最強ランキング」はなかなか読み応えがありました。全合戦の勝率から導き出された最強の武将は誰なのか決定したもので、意外にも第1位は毛利元就。49勝9敗2分で勝率8割1分7厘という戦績でした。

 第2位は、四国の王者・長宗我部元親で47勝12敗2分けの勝率7割7分。第3位は豊臣秀吉で106勝22敗15分の勝率7割4分1厘でした。これまた、意外にも、織田信長は59勝15敗8分(勝率7割2分)で6位にしか入っていないんですね。徳川家康も52勝10敗12分(同7割3厘)の8位ですが。

 ところで、関東の雄・北条氏康は34勝8敗8分、勝率6割8分で第9位に食い込んでいて、全50合戦の勝敗表が掲載されていますが、読んでいて矛盾した箇所が出てきます。1556年3月10日の鎌倉合戦で里見義堯(さとみ・よしたか)に勝利を収めたことになっていますが(32ページ)、15勝9敗5分(勝率5割1分7厘)で第20位に入った里見義堯は「安房の小大名ながら北条氏康に勝利した戦術家」として紹介されています(37ページ)。

 それによると、里見義堯は天文24年には北条氏康軍に大勝し、武名を挙げたことになっています。天文24年は西暦1554年で、この年は、武田信玄と今川義元と北条氏康が「三国同盟」を結んだ年です。その後、第1次久留里城=千葉県君津市=の戦いがあり、里見氏が北条氏の攻撃を退けています。北条氏康の項で、里見義堯に勝ったとされる1556年を調べると、この年の「三浦三崎の戦い」で里見水軍が相模に進軍して北条水軍に辛勝したとあります。となると、いずれにせよ、北条氏康は敗れたことになり、34勝8敗8分ではなく、33勝9敗8分にならなければおかしいし、里見義堯の項で、北条氏康軍に「大勝した」のではなく、「辛勝した」にしなければおかしい。こう考えると、他にも間違いがあるのかもしれません。

 例によって、自分が知らなかったことなど特に銘記しておきたいことをメモ書きします。

・戦国大名(武将)が勝利を重ねるのに最も重要な存在は、軍師。天下を取った豊臣秀吉には実弟の豊臣秀長黒田官兵衛(如水)、竹中半兵衛らがいたことが大きい。他に、今川義元の太原雪斎(たいげん・せっさい=今川氏親の重臣庵原左衛門尉の子)、大友宗麟の立花道雪角隈石宗(つのくま・せきそう)、龍造寺隆信の鍋島直茂、伊達政宗の片倉小十郎景綱、武田信玄の真田幸隆山本勘助ら、毛利輝元の安国寺恵瓊(えけい=安芸守護大名武田信重の子)、徳川家康の本多正信、石田三成の島左近(筒井順慶、蒲生氏郷らに仕えた後、関ケ原の戦いの前に主君三成の半分の俸禄で迎えれた)らがいる。

・子だくさんの第1位は、本願寺の中興の祖、蓮如で男子13人、女子14人。84歳で亡くなった時、5番目の妻で34歳の蓮能尼は生後2カ月の息子を抱いていた。2位は織田信秀で男女ともに12人、その子息の織田信長も男子10~12人、女子10人を側室に産ませた(異説あり)。

・応仁の乱の後、「剣術三大源流」の流派が始まる。愛洲移香斎(あいすい・こうさい)による「陰流」、中条長秀の「中条流」、飯篠長威斎(いいざさ・ちょういさい)の「神道流」の三派だ。陰流の愛洲移は常陸国の鹿島の人、神道流の飯篠は香取神宮の神意を受けて創始。飯篠の弟子で「鹿島神流」を創始した松本備前守尚勝は鹿島神宮の神職。同じく飯篠の神道流の門派から出て「新当流」を創始した塚原卜伝は鹿島神宮の神官の次男と、どうも剣客には鹿島神宮と香取神宮に関係している。

・剣豪ランキングで、第1位の宮本武蔵に次ぎ第2位を獲得したのが、上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)。上野国大胡(群馬県前橋市)の上泉城主の子で、青年時代に鎌倉で念阿弥慈恩を流祖とする「念流」を学び、下総国香取で松本備前守尚勝の「鹿島神流」や塚原卜伝の「新当流」を習得し、常陸国鹿島で「陰流」の愛洲移香斎に師事して「新陰流」を創始。上泉信綱の弟子として、「柳生新陰流」を創始した柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさい・むねよし)、「疋田陰流」の疋田文五郎、「タイ捨流」の丸目蔵人佐(まるめ・くらんどのすけ)ら多くの剣豪を輩出した。