往相と還相という親鸞聖人の教え=「教行信証」を読んで

 会社の近くに築地本願寺があります。

 心がささくれだった時、心が疲れた時ー、そんな時、たまに昼休みを利用して訪れると、心が洗われる気持ちになれます。

 昔は、ということは、今より若かった頃は、信者ではありませんが、聖書をよく読んでいたので、たまにキリスト教会に一人で行ったものですが、織豊時代の宣教師が日本植民地化の先兵だったり、聖職者のはずの宣教師がルソン島へ日本人を送り込む奴隷船の仲介したりしていたという史実を知り、また現代では、神父による少年への性的虐待等を知り、少しキリスト教に失望してしまい、足が遠のいてしまいました。

 私自身は浄土真宗の信者でも、本願寺の門徒でもありませんが、寺院は出入りが自由なので分け隔てなく、迎え入れてくれます。それどころか、守衛さんにお伺いしたら、寺院内の撮影までお許し頂きました。

築地本願寺

 実は、ここ半年間、少しずつ、浄土真宗の宗祖親鸞の主著「教行信証」を読み進め、もうすぐ読破しそうなのです。

 読破など言っては、怒られそうですね。神聖な宗教書を冒涜するな、とー。はい、すみません、と謝るしかありません。その上、私のような凡夫では、到底理解できず、同じ個所を何度も何度も読み返して、それでもよく分からないことが多いのです。でも、私のような懐疑主義者は、果たしてどれだけの門徒の方が、実際にこの書を読み通しているのであろうか、という疑問を持ってしまったことです。現代人は、テレビにゲームにエンタメにアイドルにスポーツに、麻雀・競馬にと寸暇が惜しいほど忙しいのです。専門の僧侶の方でさえ、原書(漢文)で読んでいらっしゃるのかなあ、と疑ってしまいました。

 というのも、私が読んでいるのは、昭和58年7月20日初版発行の中公バックス「日本の名著」の「親鸞」で、現代語訳と補注を担当しているのが、石田瑞麿氏(当時東海大教授)なのですが、例えば、補注の中で、石田氏は「この箇所の親鸞の読み方には無理があり、…一つづきに読まなければ、意味が通らない」とか「『転じて休息とも呼んでいる』とあるが、実は『転ずるとは、休息することに名づける』と読むのが正しい。今は親鸞の読み方に従った」とか「…写し誤ったために生じた読み違いであろうか」といった注釈が何度も出てくるからです。ただし、漢籍の素養のない私自身は、真蹟本である坂東本と別本である西本願寺本の漢文の原著を読む能力もなく、現代語訳で読むしかなく、その違いもよく分かっていないのですが…。

 「教行信証」とは何か?-勿論、浄土真宗の聖典ではありますが、「浄土三部経」を中心に「華厳経」「菩薩処胎経」「大乗大方等日蔵経」など非常に多くの仏典から引用された仏教説話なども織り込まれていますが、どういう聖典なのか、私自身、一言で説明する能力はありません。

 ただ、恐らく、これが一番、親鸞聖人が言いたかったことではないか、といいますか、私自身が、全く知らなかったといいますか、誤解に近い形で理解していたことで、親鸞が明快に答えていたところがあり、その中で私自身が一番印象に残っていた1カ所だけを茲で記したと思います。

築地本願寺

 それは「信巻」に出てくる極楽浄土に往生することについてです。石田氏の現代語訳を引用させて頂きますとー。

 如来の回向には二種の姿がある。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。

 往相は、如来ご自身の功徳を全ての人に回らし施して、誓いを立てて、共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせられることである。

 還相とは、かの国に生まれてから、心の乱れを払った精神の統一と、正しい智慧を働かせた対象の観察と、さらに巧みな手立てを講ずる力とを完成させ、再び生死の迷いの密林に立ち戻って、全ての人を教え導かせ、共に悟りに向かわせられることである。

 往相にしても還相にしても、いずれも世の人を苦悩から解放して、生死の海を渡そうとするために与えられたものである、といっておられる。(262ページ、原文にない行替えし、一部漢字表記改め)

 なるほど、極楽浄土に一方的に行くだけでは駄目だったんですね。もう一度娑婆世界に戻って来て、衆生を救済する役目があったんですね。

 ですから、ここから4ページ先の266ページに、以下のことが書かれています。

 釈迦仏が王舎城で説かれた「無量寿経」について考えてみると、(中略)この最高至上の悟りを求める心はすなわち仏になろうと願う心であり、仏になろうと願う心は、すなわち世の人を救おうとする心であり、世の人を救おうとする心は、すなわち世の人を救い取って、仏のおいでになる国に生まれさせようとする心である。だから、かの安楽浄土に生まれたいと願う人は、最高至上の悟りを求める心を必ず起こすのである。もし、誰かが、この最高至上の悟りを求める心を起こさないで、ただかの国で受ける楽しみに間断がないと聞いて、その楽しみのために、生まれたいと願うとしても、また当然生まれるはずがない。

 そう断言している箇所に、私は目から鱗が落ちたといいますか、頭を後ろからガツーンと殴られたような感覚に陥りました。

 つまり、楽しみだけを求めて極楽浄土に往生したいと願っても、当然、行けるわけがない。そもそも往生を願うならば、また娑婆世界に戻って、今度は貴方が衆生を救済する役目を担おうとしなければ、最初から往生するわけありませんよ、と親鸞は言っているわけです。

 私自身は、これこそが親鸞聖人の深い教えの肝ではないかと愚考致しました。

 西念寺

 承元の法難(浄土宗では建永の法難)で越後国に配流された親鸞聖人(1173~1262年)は、その後、すぐ京都に戻ることなく、常陸国の「稲田草庵」と呼ばれた地に留まり、関東布教の拠点にします。

 親鸞聖人と家族はこの地に20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住み留まり、親鸞はここで「教行信証」を執筆したと言われます。現在の茨城県笠間市の稲田禅房西念寺です。浄土真宗別格本山です。私も今年6月に、この寺院を参拝し、その頃から「教行信証」を読み始めたのでした。

茨城県笠間市の稲田禅房西念寺=親鸞聖人をたずねて

 コロナ感染者が一向に減らないのに、19日から県境封鎖の関所も全面解除され、全国で行動の自由を得ることができましたので、好きな城郭と寺社仏閣巡りを再開することにしました。

 色々と行きたい所があるのですが、差し迫って優先したかったのが、親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺でした。このかつて「稲田草庵」と呼ばれた地に、親鸞聖人と家族は20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住んでいたそうです。浄土真宗別格本山です。はい、実は今、「教行信証」を読んでいるのです。

西念寺 この写真が一番有名でしょう

 私は無鉄砲ですから、あまり事前に計画を立てるのが苦手です。笠間市と言えば、笠間焼で有名ですから、ついでに色々と見て回ろうかと、スマホで時刻表などを調べたら、何と自宅から電車と歩きで往復5時間も掛かることが分かり、笠間焼巡りは諦めて、「西念寺」一本に絞ることにしました。

西念寺

 電車はかなり空いていました。乗り換え駅では、「全面解除されましたが、慎重に行動してください」とのアナウンスもあり、まだ多くの人は警戒しているようでした。

 栃木県の小山駅から水戸線に乗り換えて、最寄り駅の「稲田」に到着。駅長さん1人しかしない小さな駅で、下車したのは私一人でした。駅前に商店街のない簡素な町で、心寂しくなりました。観光案内では駅から歩いて15分でしたが、狭い住宅地に紛れ込んでしまい、境内に着くのに25分ほど掛かってしまいました。

 参拝者は数人おりましたが、間もなく帰り、しばらくは、私一人が境内を散策しました。親鸞聖人の聖地ですから、もっと門徒衆が押しかけているのかと思っていたので、拍子抜けしてしまいました。

 上の写真は、修験者弁円が、親鸞聖人の命を狙おうと襲いますが、逆に、回心して親鸞の弟子明法房になったと言い伝えられる場所です。

西念寺の本堂

 上の写真は本堂ですが、中に入れました。薄暗い中、誰もおりませんでしたが、記帳してきました。例えは、間違っていると思いますが、どこかカトリック教会の祭壇のようなきらびやかな金色に輝く仏壇で、まぶしいほどでした。御本尊様は阿弥陀仏だと思われますが、中に隠れている感じで分かりませんでした。

 本堂内の写真撮影は控えました。

 案内掲示板はなかったのですが、恐らくは親鸞聖人のお姿かと思われます。ここに滞在していたのは40歳代から60歳代初めですから、年齢的に合った像に見えます。

 本堂を向かって右側が山道になっていて、親鸞聖人にとっては若い頃に20年間も修行した比叡山を彷彿とさせたようです。

 この看板がその説明文。

 越後に流罪となった親鸞聖人の関東布教の拠点として、健保2年(1214年)、この稲田草庵の地を提供したのが、常陸国稲田の領主だった宇都宮(稲田九郎)頼重で、彼も親鸞に師事して、頼重房教養という法名を称したという墓標記です。この教養は、親鸞の消息「末燈鈔」第九通の「教名」(けうやう)という説もあります。

 上の看板の説明にあるように、天正・慶長年間に庇護者の宇都宮氏が断絶し、西念寺は荒廃してしまいます。

 その荒廃ぶりを嘆き、聖地を復興したのが、笠間城主松平康重の家老石川信昌だったことが書かれています。知りませんでした。

太子堂
親鸞聖人御頂骨堂

 親鸞聖人は京都で入滅されますが、ここの稲田禅房二世救念の願いにより、聖人の御頂骨を分与され、この地に分骨したお堂を建てたことが書かれています。

 もちろん、お堂の敷地内には入れません。

 西念寺を辞すると、ほど近くに林照寺があります。これは、浄土真宗の単立寺院で鎌倉時代に誠信房によって開基されたといいます。

 親鸞による関東布教で、多くの弟子が育ち、下野、常陸、下総にはかなり多くの真宗系の寺があります。いつか、寺巡りをしたいと思ってます。

 JR水戸線稲田駅近くに戻り、ランチをしたお蕎麦屋さん「のざわ」です。実は、食事ができるお店は、近辺にこの1軒しか見当たらず、当然のことながら、昼時は満員。20分ぐらい外で待ちました。

 天ざると地酒「稲里」1合で1936円也。昼間からお酒とは!煩悩具足の凡夫、悪人です。

稲田神社

 電車は1時間に1本しか通っておらず、55分も待ち時間ができたので、また国道50号沿いに、西念寺の方角に戻り、途中で見かけた稲田神社をお参りすることにしました。

 創建は1200余年といい、式内大社ですから由緒ある神社でした。

 御祭神は、スサノオの妻である奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。稲田という地名は稲田姫から取られたのでしょうか?

 かなり急勾配の階段でした。

 またして、誰もいない本殿で、コロナの早期収束をお祈り致しました。

 神社の横は結構広い、あまり整備されてはいない運動広場のようなものがあり、その前に、この「忠魂碑」がありました。弾丸の形から、日清・日露戦争の戦没者の慰霊のように見えますが、詳細は分かりません。

 以上、久しぶりの小旅行でした。ほんの少しだけ親鸞聖人を身近に感じることができました。「教行信証」を読むに当たり、西念寺を思い出すことにします。