銀座を避けて新富町でランチ探訪

 昨今、値上げラッシュのせいで、東京・銀座は、土地が、じゃなかったランチが高騰、いや少し値上がってしまったので、ランチは、銀座と比べればやや庶民的な新富町を探訪することにしました。

 私の会社ビルは明治時代、日本で最初の西洋料理店「築地精養軒」(後に上野公園内に移転)があった場所に建ち、昭和になって銀座東急ホテルがあったので、銀座、日比谷、有楽町、新橋、築地、新富町、八丁堀は徒歩圏内です。すぐ近くに歌舞伎座と新橋演舞場があり、「吉兆」(今は再建中?)「松山」「金田中」「新喜楽」(旧大隈重信邸)など超高級料亭も軒を連ねています。恐らく、全国一、いや世界一、立地条件が良い会社だと思います(笑)。

東京・新富町・和食「ウオゼン」3種フライと刺身定食 900円

 新富町の話でした。まず、最初、6月1日(水)に行ったのが、和食の「ウオゼン」という名前の店です。魚が自慢の店なのでしょう。ランチは900~950円が中心で、安いのがいいですね。

 多分、あまりテレビやマスコミで紹介されていないと思います。散策好きの会社の同僚に教えてもらいました。

 結構、混雑していて、少し待たされましたが、直ぐカウンター席を空けてくれ、注文したのが、上の写真の3種フライと刺身定食。味も良し。900円の安さが気に入り、ここのランチは一通り食べたくなりました。

 ここは「穴場」の店です。

新富町・料亭「躍金楼」

 2日(木)に行ったのは、「割烹 躍金楼(てっきんろう)」という高級料亭です。何しろ、創業明治6年といいますから、格式があります。店構えを見て、「いつか絶対に行こう」と思っていたわけです。明治6年といえば、後に初代文部大臣となる森有礼(薩摩藩)の提唱で結成された啓蒙思想団体「明六社」がすぐ思い浮かびます。明六社には、福沢諭吉(中津藩)、中村正直(幕臣)、箕作秋坪、津田真道(津山藩)、西周(津和野藩)、加藤弘之(出石藩)ら当代一流の洋学者が参加しました。「明六雑誌」を発行しますが、新聞紙条例と讒謗律の言論弾圧で、わずか2年で廃刊に追い込まれました。

 お店のパンフレット等によると、明治5年の銀座の大火の影響で、銀座に隣接し、遊郭があった「新島原」と「大富町」も被害を受けます。その2町が合併して「新富町」として復興したばかりの明治6年に、この躍金楼ができたといいます(命名は山岡鉄舟)。近くに歌舞伎の「守田座」(明治8年に「新富座」に改名)もあり、花柳界とともに、歩んできたようです。

 だから、芝居小屋町と花街として発展した新富町のことを「奥銀座」とか「裏銀座」と言われると、プライドが高い地元の人は怒るそうなので気を付けてください(笑)。

 明治5年の銀座の大火では、銀座、築地一帯の木造建築が焼失してしまったため、これをきっかけに、明治政府は、銀座をレンガ造りの西洋風の建物や街路建設を進めたといいます。明治5年といえば、日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通した年(今年は鉄道開設150周年!)でもあります。銀座は、新橋の停車場から近く、銀座の洋風づくりは、横浜から列車に乗って東京に来る外国人のための欧化政策の一環だったという説もあります。

新富町・料亭「躍金楼」 天麩羅ランチ1320円

 さて、躍金楼では、お座敷(個室)もありますが、ここでのランチは予約制で3850円~6600円です。「一見さん」の私は、外で5分程並び、「すたんど」で、二番目に安い天ぷら膳(6点盛り)1320円を注文しました。

 天麩羅は、目の前で揚げてくれて、そのまま出してくれるので、大名になったような気分です。創業150年近い老舗のお店ですから、実に丁寧なお仕事をされています。

 今度は、夜に、芸者さんと一緒にお座敷で会席料理を食べたくなりました。(新富町には、お一人だけ芸者さんが残っていらっしゃるとか)

新富町「松し満」 週替わり定食ランチ(赤魚)1000円

 そして、3日(金)に行ったのが、かつて、歌舞伎の新富座があった京橋税務署の裏手にある「松し満」という日本料理店です。以前は高級料亭だったような感じ(表紙写真)ですが、ランチは1000円と安い。

 食事所は2階に上がりますが、この日はお客さんがほとんどおらず、「貸し切り」状態でした。私が頼んだのは週替わりランチで、赤魚の塩焼きでした。ちょっと、塩辛いかなあという感じでしたので、次は海老フライ定食にでもしようかと思っています。

 あれほどカンカン照りだったのに、お店を出たら、激しい雷雨が降っていたので、驚きましたが、用意周到で折り畳み傘を持って来ていたので、大丈夫でした(笑)。

「新富町」散歩=「新富 煉瓦亭」から鉄砲洲稲荷神社まで

 テレビの影響力はおっとろしい(笑)。

 土曜日にテレビ東京系の番組「アド街ック天国」で「新富町」の特集をやっておりました。新富町は会社から近いので、「シメシメ、月曜日のランチはそこ、かしこにしよう」と心に決めて出掛けたところ、お目当ての寿司店は予想通り、長蛇の列(昼休みの時間に間に合わない!)。もう一軒、「こだわり」のフレンチ店に行ってみたら、いっぱいの人たちが食事をしているのが外から見えましたが、12時45分だというのに、もう「closed(営業終了)」の看板。「こりゃ駄目だあ」

鮨 ishijima 新富店

 仕方がないので、新富町ならよく行く「新富 煉瓦亭」で、Bランチ(ポークカツとクリームコロッケ)1150円を食しました。「仕方ない」なんて言っちゃ怒られますねえ(笑)。このお店も番組では、堂々の「第10位」にランクされていました。銀座の老舗店「煉瓦亭」から暖簾分けされた店だとは知っていましたが、やはり味は確かです。しかも、銀座店と比べると500円ぐらい安い。(ただし、銀座店の「元祖ポークカツレツ」は2000円也です。)

 カウンターの目の前にいるマスターがテレビに出ていたので、「テレビ、見ましたよ」と声を掛けましたが、「べらんめえ、こちとら江戸っ子だあ」とも言わず、無言で頷いただけでした。照れていたのかもしれません。

新富町・仏料理「ニコラ・シュヴロリエ」

 新富町は明治になって、守田勘弥が座頭を勤める歌舞伎の芝居小屋「新富座」が出来ました。関東大震災で焼失し、今は京橋税務署になっていて、署前には「新富座跡」の看板があります。ですから、もともとこの辺りは新富町と言っていたとばかり思っていたのですが、江戸時代は「大富町」と呼ばれ、武家地だったといいます。

 それが、明治になって築地の外国人居留者を目当てに新島原遊郭が置かれ、この新島原の「新」を取って、新富町になったといいます。

鉄砲洲稲荷神社(東京都中央区湊)

 いやいやそんなんで驚いていてはいけません。この辺りの鎮守様として鉄砲洲稲荷神社がありますが、創建は平安時代初期の841年にまで遡ることができるといいます。この辺りは埋め立てが進んだ土地であり、その度に社(やしろ)は移転され、室町時代は「八丁堀神社」と称されたことがあり、江戸時代あたりから「鉄砲洲稲荷神社」になったようです。

 歌川広重の浮世絵にも描かれています。名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。

 5月初めの「例大祭」では三年に一度、御神輿の渡御があり、東銀座の歌舞伎座辺りまでも回るようです。(歌舞伎座に分祠された鉄砲洲稲荷神社があるため)

入船「焼鳥 さくら家」

 新富町といえば、昼休みに、これまで新富座があった京橋税務署辺りまでしか足を延ばしたことがありませんでしたが、今回初めて、「入船」とか「湊」まで、奥深く足を踏み入れました。

 最近、新富町が雑誌などでも取り上げられ、ブームになっているようですが、その取り上げ方が「奥銀座」とか、「裏銀座」。番組に出てきた地元の人が「何?奥銀座だと?新富町は、新富町じゃねえか。誰が付けたんだ!冗談言っちゃいけねえ!」と吠えていました。

 どうやら、新富町を「奥銀座」と呼ぶのは避けた方がいいかもしれませんね(笑)。最近、個性のあるシャレたお店が結構増えてきましたし、かつての花街でしたから、高級料亭やミシュランの星付き寿司店も多いようです(地元の芸者さんがお一人だけ残っていらっしゃるとか)。

 番組では入船の「さくら家」(番組では第7位にランクイン)という老舗の焼き鳥屋さん(1917年創業)のことを「手頃な価格で美味しい」と紹介していましたので、行ってみましたが、ランチはなく、営業は夕方からでした。今晩も多分、テレビの影響で超満員になるのでしょうね。

 ほとぼりが醒めた頃に行きますかあ。