浄土宗西山派を巡る京都の旅(上)=安養寺の村上住職を訪ねて

 ほんの少しの御無沙汰でしたが、京都に行っておりました。8月16日(金)~18日(日)の2泊3日という短い期間でしたが、内容は4泊6日といった感じでした。

 すっかり京都の「常宿」となってしまった京洛先生の御邸宅に御厄介になりながらの旅でした。

 この時期、Overtourism(観光公害)を覚悟していたのですが、割と空いていました。台風一過のせいで国際線の本数が減ったせいなのかもしれません。京洛先生は「台風ですから、蒙古襲来みたいなものですよ」と仰るので大笑いしてしまいました。   

京都は、京洛先生のショバですから、全てお任せです。

今回は、左京区にある青龍山安養寺の村上純一御住職と面談することが本義でした。あ、慣れない仏教用語を使ってしまいました(笑)。

このブログで、何回か触れさせて頂きましたが、村上純一御住職は、ノーベル文学賞に最も近い作家村上春樹さんの従兄弟に当たる人で、春樹さんが今年5月発売の「月刊 文藝春秋」6月号に初めて御尊父の思い出の手記(「猫を棄てる」)を書かれたのを読み、その御紹介ついでにこのブログで取り上げたのでした。

その際、間違って、同姓同名の京都市の安養寺ながら、東山区にある慈円山安養寺の方だと思い込んで紹介してしまい、このブログを目にされた村上純一御住職、御本人から誤りを指摘されたのでした。

で、今回は、大袈裟ですが、その訂正謝罪行脚でもあったわけです。

「小宝」のオムライス、手前が(中)で1000円

繰り返しになりますが、京都に着けば、全て京洛先生お任せです。「取り敢えずランチにでも行きませう」ということで、京都駅から市バスに乗って、場所も分からぬまま、降りて炎天下を歩いた所が、岡崎の高級別荘地区でした。京都市動物園の近くにある洋食屋「小宝」に向かいました。

昼1時過ぎでしたが、長い行列。日陰のない炎天下、立ったまま30分も待ちましたが、待った甲斐がありました。

何しろ、修学旅行の生徒がタクシーで乗り付けるほどの人気店で、その量が半端じゃない。上の写真のオムライスをご覧になれば、お分かりの通り、(中)で(小)の2倍。(大)はまず一人で食べ切れないでしょう。

物識りの京洛先生によると、「小宝」は、京都の老舗洋食店「宝船」(今はない)から暖簾分けした店で大層昔から繁盛していた店だそうです。

後でお会いした安養寺の村上純一御住職も子どもの時から行っていたそうで、昔から混んでいたそうです。

山縣有朋 別邸「無鄰菴」

この後、何処に行くのかと思いましたら、明治の元勲山縣有朋の別荘「無鄰菴」でした。明治29年に完成し、現在は京都市が委託管理して一般公開してます。入園料410円。

見事な庭園は七代目小川治兵衛作。この辺りの高級別荘の庭園の殆どを小川治兵衛が手掛けたそうです。別荘地区には、老舗の野村財閥のほか、最近では、新興宗教Sやニトリの似鳥さんらも加わったそうです。

そういえば、競馬騎手の武豊さんの大豪邸も教えてもらいました。大名屋敷みたいで、半端じゃありませんでした。写真も撮りましたが、このブログにアップするのはやめておきましょう。

この後、何処に導いてくれるのかと思ったら、もう歩いて安養寺に向かっておりました。ついでに、東山区の慈円山安養寺(時宗)にも連れて行ってもらうつもりでしたが、京洛先生は大変せっかちな性格です。「遅れてしまったらねえ…」と仰りながら先に進み、寺の麓に到着した頃は、まだお約束の時間まで1時間以上ありました(笑)。

村上純一御住職からは前日、電話で「地下鉄の『蹴上』の一番出口からすぐです」とお聞きし、そのことを京洛先生にもお伝えしたのに、「すぐそこですから」とズンズン先に歩かれます。後で分かったのですが、京洛先生の仰る「すぐそこ」とは歩いて30分ぐらいの距離でした(笑)。

日向大神宮 女優羽田美智子さんがパワースポットとして信心されているようです

大変失礼ながら、安養寺は、京都市内ながら市街からも人里からも離れた山奥にありました。お買物に出掛けるのも不自由じゃないかなあと思いました。

時間が早かったので、安養寺に併設(?)している日向大神宮に登りました。安養寺の麓にある京都市浄水場辺りは東山区、安養寺は左京区、そして、日向大神宮は山科区でした。

本殿は、小山の頂上付近にあり、坂道の登り坂は息が切れるほどでした。

日向大神宮については、私がとやかく言うより、上の御由緒をお読み下さい。

この旅の最終日に昼食をとった四条高倉の京寿司「いづ源」の女将さんの話によると、この日向大神宮は、女優の羽田美智子さんがパワースポットとして度々お参りして、信心されている神宮だといいます。

青龍山安養寺 御本尊は阿弥陀如来

やっと、お約束の時間になったので、青龍山安養寺の村上純一御住職を訪ねました。春樹さんの手記にも出てきましたが、ここが、高濱虚子が「山門のぺんぺん草や安養寺」と詠んだお寺か、と感慨深いものがありました。

 この面会が仕事だったら、しっかりメモを取ったことでしょうが、遊びですから、いや、間違いました、お詫び行脚ですからメモはやめました。また、吉本興業のようにテープを取ったりもしません(笑)。どういう面を下げてお会いするべきなのか、迷いましたが、まあ、肩の力を抜いて、ざっくばらんな気持ちでお会いすることにしました。

後で「記念写真でも撮っておけばよかった」と後悔しましたが、このブログは、顔写真はあまり載せない「反フェイスブック主義」を貫いてますから、いいでしょう。ご本人は、あまり、村上春樹さんとは似ていませんでした。

色んな話をお伺いしました。法然上人が開いた浄土宗にも色んな分派があり、京都は主に知恩院の鎮西派と光明寺などの西山(せいざん)派があり、かつては(とは言っても戦国時代までは)西山派の勢いが強かったのですが、徳川家康が本能寺の変を聞いて、大坂堺から逃げる際に知恩院が援助したことから、江戸時代は鎮西派が本派の主流になったそうです。ですから、江戸の増上寺も浄土宗鎮西派というわけです。

鎮西派と西山派は、同じ浄土宗でも違いが多くあり、例えば、お経を読む際、鎮西派は呉音で読みますが、西山派は漢音で読むそうです。漢音は天台宗もそうです。

青龍山安養寺も、もともとは慈覚大師円仁(794~864)が天台宗の寺として開いたといわれております。

京都市内には数え切れないくらい多くの神社仏閣がありますが、村上住職によると、拝観料を取れるような「観光寺」はほんの僅かで、大抵の寺院は、細々と「経営」しているそうです。少子化でこれから消滅してしまう寺院もかなりあるようです。

村上住職は、あまり口には出しませんでしたが、ご自身の寺院経営もなかなか大変なようでした。「世間の多くの人は、宗教法人は税が免除されているので、『坊主丸儲け』と思ってらっしゃるかもしれませんが、サラリーマンと同じように、住職も宗教法人から給料を貰っている形にして、確定申告もあります。例えば、跡を継ぐ息子が僧侶の資格を得るために、大学に行かなければなりませんが、その教育費は宗教法人から出ません。自分の息子ですから、住職の生活費の中から教育費を出さなければ、税務署も黙っていないんですよ」と、明かしてくれました。

そうでしたか。

面白かったのは、村上住職と京洛先生が同じ京都府立鴨沂(おうき)高校出身だったことが分かったことでした。京洛先生の方が5年ほど先輩でしたが、鴨沂高校は、旧制京都府立第一高女で、森光子、山本富士子、沢田研二ら有名人も多く輩出している名門高校どす。

真言宗 泉涌寺 境内は自動車で往来してました

安養寺を辞して、向かったのが泉涌寺でした。

泉涌寺と言えば、歴代天皇の位牌をおさめる格式の高い真言宗の寺院ですが、敷地の広さには腰を抜かすほど驚きました。何故、泉涌寺に向かったのかというと、この境内にある宿坊(?)に、スペイン滞在歴半世紀の画家加藤力之輔画伯のアトリエがあり、夜は五山の送り火の鑑賞会をご一緒しましょう、という話に知らぬ間になっていたからでした(笑)。

加藤画伯の奥さんアサコさんは、依然としてマドリードにお住まいで、私も昨年7月に初めてスペイン旅行した際に、ピカソの「ゲルニカ」を見るのに美術館にお導きして頂いたり、彼女の自宅兼ゲストハウスでランチをご馳走になったりしたことは、昨年のブログに書いた通りです。

 昨年のマドリードではお会いできなかった加藤画伯の子息である大輔さんとスペイン人の美人奥さんアンヘラさん、それに3人のやんちゃな男の子と女の子がたまたま日本に遊びに来ていて、今回お会いすることができました。

泉涌寺「悲田院」から見る送り火

皆で一緒に、「送り火」を見ることにしました。ちょっと離れていたのと山影に隠れてしまっていたせいで、全部を観ることができませんでしたが、スペイン人のアンヘラさんは、初めて見るらしく、感激していました。

我々が送り火を観ている間、大輔さんが一生懸命に料理をしていたらしく、帰ってからバスク料理のマルミタコを御馳走になってしまいました。大輔さんは、お父さんと同じアーティストですから、料理の腕も確かでした。実に美味でおかわりしてしまいました。ポテトと牛肉かと思ったら、マグロのアラで、隠し味にローリエがある、と大輔さんは講釈してくれました(笑)。

 加藤画伯も大輔さんもアンヘラさんもお子さんたちも、皆、スペイン語でしたから、京都なのに、何となく異国に来たような不思議な感じがしました。