世界的な経営者が験担ぎ好きの苦労人だったとは=永守重信著「運をつかむ」

 どういうわけか、この《渓流斎日乗》が最近、幾何学級数的に随分とアクセス数が増えまして、驚きを禁じ得ません。勿論、わざわざ、アクセスして頂いている皆々様方のお蔭ではありますが、私自身は、筆名を改名したからではないかと睨んでいます。何故なら、今年7月、筆名を「高田謹之祐」と改名した途端、急にアクセス数が増加したからです(笑)。

 これは、改名を勧めて頂いた運勢鑑定師の古澤鳳悦師の全面的なお蔭ではありますが、実は、私自身はこのように目に見えないものを信じたり、験を担いだりすることが案外好きなのです(笑)。(別に、いかがわしい宗教にのめり込んで多額の財産をお布施したりはしません。目に見えないものを信じている、といっても軽い気持ちであることはお断りしておきます。)

 さて、最初から「験を担ぐ」話から始めたのは、先ほど、永守重信著「運をつかむ」(幻冬舎新書)を読み終えたばかりだったからです。永守氏は、今や売上高1兆円超、従業員11万人も抱える世界一の総合モーターメーカー日本電産(現ニデック)を築き上げた誰もが知る有名な経営者です。私は、皆さんと同じように、直接、永守氏とお会いしたことはなく、メディアを通してでの独断的印象ですが、大胆不敵で怖いもの知らず、絶えず部下を叱責して信長のようなおっかねえ(恐ろしい)人物であると勝手に思っておりました(失礼!)。 

 でも、この本を読むと、そんな印象が変わりました。絶えず部下を叱責することは合っていましたけど(ただし、信長とは違い、叱った後、必ずフォローして社員が辞めないように配慮しています)、大胆不敵で怖いもの知らず、は間違っていました。永守氏は、自分自身は大変な小心者で臆病で、子どもの時からかなりの心配性だったと告白しているのです。でも、その方が経営者に向いている、と付け加えていますが。

 そして、何よりも、永守氏はやたらと「験を担ぐ人」だということが分かりました。創業7年目に会社倒産の危機に陥った時、「その人のお告げは当たる」と評判の京都・八瀬の九頭竜大社の教祖に半信半疑で会いに行き、「あなたの運命は次の節分で変わる。それまで何とか持ちこたえなさい」というお告げを信じて、金策に奔走しながら必死の営業努力を続けました。そして迎えた節分の日、米IBM社から大量の精密小型モーターの注文が飛び込んできたというのです。他にも教祖さんのお告げが当たることがあり、永守氏はすっかり信じて、毎月の九頭竜大社のお参りは欠かさないといいます。

 この他、永守氏は、1944年生まれの「二黒土星」で、ラッキーカラーは緑であることから、ネクタイは全てグリーンに統一して、実に2000本も揃えているといいいますから、その「験担ぎ」ぶりは徹底しています。

 また、永守氏は挫折知らずで、連戦連勝で個人零細企業を世界的な大企業に急成長させたエリートの敏腕経営者だと思っていました。しかし、実は貧しい農家出身で、辛うじて奨学金を得て教育を受けることが出来、血みどろの努力を積み重ねた結果であることが分かりました。それに、連戦連勝ではなく、失敗や挫折は数知れず、100億円もの損失を計上したこともあったといいます。それだけに、「8勝7敗の勝ち越しで行ければ、上等だと思え」と書いています。

 この本は運命について書かれていますから、例えば、

 ・偶然の運にかけるような人生は、まっとうな人生として確立されることはない。宝くじで大金が当たった人は、それによってかえって不幸になるケースも多いそうだ。

 ・「人との縁」はすなわり「運」と言っても良い。新しい仕事も幸せな出会いも、皆、縁が運んでくれる。人の縁に恵まれている人は、運にも恵まれるものだ。

 ・ただ縁があるだけでは駄目だ。この人なら信頼できるとか、この人のために何とかしようといったことを思わせるものがその人に備わっていなくてはいい縁にならない。

 ・縁には一期一会のものも沢山あるが、出来ればずっと続くいい縁にした方がいい。運は縁によって運ばれるものであるから、人から好かれることはとても大事である。

 …といった箴言が並びます。

 嗚呼、残念。私はもう「終わった人」なので、この本を高校生ぐらいの時に読んでいたら、その後の人生、全く変わっていただろうなあ、と思いましたよ。

桁違いの関西、桁違いの京都人

京都・伏見稲荷大社

いまだに「京都大旅行」の余韻に浸っております。とはいえ、行った所ではなく、行けなかった京都の「佐阿彌(さあみ)」や「瓢亭」や「つる家」などです(笑)。

何?知らないとな?

奈良・元興寺(本文とあってないじゃん)

京洛先生は、京都御所近くの邸宅で産湯をつかい、御幼少の砌の遊び場は京都御所でした。そこで蝉を取ったり、鳥獣戯画の如く、蛙や兎と相撲を取ったりして遊びました。代々の墓所はあの建仁寺という名家で素封家です。嗚呼、それなのに、それなのに…。

実は「佐阿彌」は、昨晩、「神谷町のおじさん」(といえば、歌舞伎通なら誰でもが御存知です)が案内役を務めるテレビ番組「京都探訪」で紹介された円山公園の敷地1000坪を有する老舗料亭のことでした。

円山公園の円山とは、慈円山安養寺から取られたもので、安養寺は吉水坊とも称します。天台宗の開祖最澄が創建。浄土宗の開祖法然がここを本拠に30数年間も称名念仏を宣揚した寺としても知られています。と、今、書きましたが、行ったことはありません(笑)。以前に、この吉水坊を舞台にした寺内大吉著「念仏ひじり三国志」を読んで感動したので、行きたかったですねえ。

京洛先生に電話で、「東山の高級料亭…あれ、何でしたかね?」と伺うと、直ぐに「あ、佐阿彌ね」と答えが返ってくるではありませんか。なあんだ、超有名だったんですね。

もう5~6年前になりますか、京洛先生には岡崎や南禅寺辺りにある高級料亭や別荘(の前)に連れて行ってもらったことがあります。(そのことは当時ブログに書きましたが、消滅してしまいました)この中で、最も有名なのが、明治の元勲山縣有朋の別荘「無燐庵」でしょう。七代目小川治兵衛の作庭です。(生憎、その時は休園でしたが)

南禅寺近くの高級料亭「瓢亭」の延々と続く土塀を見ただけで、規模の大きさに卒倒しそうでした。(ですから、中に入りませんでした=笑)

この辺りは、時の最高権力者や大財閥の別邸や博物館などがあります。住友財閥の「泉屋博古館(せんおくはくこかん)」は青銅器の世界的なコレクションとして知られ、圧巻でした。

私のような庶民は、京都といえば、四条河原町や先斗町辺りの狭くて雑踏としたイメージがありましたが、そんな所は、やはり庶民の街でした。富裕層は岡崎辺りの閑静な広大な敷地に別荘を構えているのです。別世界ですよ。野村財閥などの別荘もありましたが、最近では、ニトリの似鳥さんやソフトバンクの孫さんといった「新興産業」さんが、ここまで進出されているようです。嘘か誠か、100億円はくだらないとも言われてます。

御影の延々と続く村山邸宅の土塀

東京には、田園調布や松涛、成城、白金といった高級住宅街がありますが、関西は桁違いですね。まず、都内には岡崎のような高級別荘地はないし、京都の別荘は日本一でしょう。それに、朝日新聞創業者の村山家の御影の本宅を周囲から拝見させて頂きましたが、東京では見たこともないほどの広さです。東京ドーム1個が軽く入ってしまう広大な敷地でした。

◇◇◇

ここからやっと本題に入りますが(笑)、京都滞在中は、京都が生んだ立身出世の偉人、日本電産創業者の永守重信会長の話題で持ちきりでした。永守会長は、つい先日の27日に御自身の出身地である京都府向日市に約32億円の私財を投じで市民会館を建設し、市に寄付すると発表したばかりです。

オッケー、グーグル!

教育にも力を入れ、今年3月には京都学園大学の理事長に就任しました。私財100億円を投じたと言われております。

その前に昨年11月には、京都府立医科大学に「永守記念最先端がん治療研究センター」(総工費70億円)の形で寄付しております。

いやあ、凄い人ですね。

永守会長は、「すぐやる」「必ずやる」「できるまでやる」をモットーに365日働きまくり、休日は元旦の午前中だけ、という逸話は有名です。今や、日本電産は世界最大のモーター会社となり、永守会長の総資産は3890億円とも言われてます。

やはり、関西は、財界人も桁違いです。

京都駅南口「殿田」のお稲荷寿司