同盟通信の異能の記者大屋久寿雄

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡ー通信記者と戦争」(花伝社、2014年7月25日初版)は、著者が5年以上の歳月をかけて執筆した800ページ以上にも及ぶ大変な労作でした。

大変歴史的、資料的価値が高い本で、明治時代の通信社の勃興期(中小さまざま100社以上の通信社が創立されては消えていったらしい)から、先の大戦の敗戦により、同盟通信が、社団法人共同通信社と株式会社時事通信社と広告会社電通の3社に分かれて再出発を果たすところまで、綿密に追っています。

著者は、元共同通信出身の記者らしいですが、比較的、公平に冷静に文献を掘り起こして分析しています。多くのガサツな学術書やネット情報では、「戦前の同盟通信は、現在の共同通信のこと」の一言で済まされる場合が多いですからね。

確かに、同盟通信の遺産のほとんどが共同通信に受け継がれました。時事通信の古いOBから言わせると「かまどの灰まで共同は持って行った」そうで、それでいて、大陸や南方など海外に派遣された何百人もの特派員ら「引揚者」を引き取る役目を時事通信は背負わされました。

同書の第17章には「共同は、同盟の総務、報道、連絡の3局と写真部から選んだ約1000人で発足。…これに対して時事は報道(主として旧海外局系)、経済、調査の3局から約250人で発足。外地からの引き揚げ社員で3年後には1000人を超えた。同盟の資産の中の通信社の生命ともいうべき国内専用線は共同に引き継がれた」と書かれています。

また、同盟通信の異能の記者で、戦後は時事通信に入社した大屋久寿雄は「将来のはっきりしない時事よりは、大磐石かに見える共同の方へ行くのは、人情であり、当然すぎるほど当然だった。かくて、時事は、共同に拒まれたノコリモノだけの救済収容機関と化したわけでした」と書き残しています。

この本では、この同盟通信の大屋記者にかなりのページを割いています。著者も、この大屋久寿雄の遺稿を入手できたことから、「いつかぜひとも出版したい」と「あとがき」に書いております。

大屋久寿雄とはどういう人物なのか?

フランス文学者の高橋治男というが方が1989年に、パリでフランスのプロレタリア作家アンリ・プーライユ(1896~1980)の書簡を調べていたところ、「オオヤ・クスオ」という日本人の書いた15通の書簡を発見し、1930年代の日本人が書いたものにしてはなかなかよく出来ていたことから、興味を持ち、2008年に「プーライユと文通した日本人ー大屋久寿雄」というブックレットを出版しています。

それによると、大屋久寿雄は1909年7月5日、福岡県生まれ。13歳の頃に医者だった父が病死したため、母親は3人の子供を連れて上京。大屋は成城第二中学に入ります。この時の同級生が大岡昇平です。(ちなみに、同じ1909年生まれの作家に太宰治と松本清張らがいます)。早熟な左翼の文学青年で、小説、戯曲、短歌までつくります。(大屋は書いた小説を当時小説家だった犬養健が住む東中野の自宅にまで見せにいったようです。のちに、大屋はハノイで軍属になっていた犬養と再会します。犬養健は、暗殺された犬養毅の子息で、ゾルゲ事件で連座。戦後法相)

高卒後、フランスのリヨン大学に留学し、パリでは作家の林芙美子の案内役を務めたりします。帰国後の33年に聯合通信にコネ入社します。(大赤字だった聯合は、36年に、反対する電報通信社を吸収合併して同盟通信を設立します)38年6月、29歳で仏領インドシナのハノイ特派を命じられ、同年12月に、重慶を脱出して昆明からハノイに潜入した汪兆銘の居所を突きとめようと手に汗を握る取材合戦に巻き込まれます。

汪兆銘の滞在先は分かったものの、中国から派遣された刺客によって、汪兆銘の側近の曽仲鳴が暗殺されるなど混迷状態となり、結局、世界的スクープになる汪兆銘との会見記事をものにすることはできません。それどころか、影佐禎昭大佐(引退した自民党の谷垣さんの祖父)率いる梅機関などによる「和平工作」に協力し、汪兆銘がハノイから上海に脱出する手助けをしたり、汪兆銘の脱出先に関する虚報記事を書いたりして、軍部に協力したりするのです。

大屋は「仏印進駐記」「戦争巡歴」などの著作を残しています。(大屋の後任の香港兼ハノイ特派員は前田雄二で、彼は東京帝大仏文科の学生時代、後のゾルゲ事件で連座して処刑されたアバス通信(今のAFP)記者ブーケリッチの牛込の自宅で会話のレッスンを受けていたそうです!)

大屋は、戦争末期は、日本放送協会(今のNHK)に出向し、「玉音放送」の後、海外編成部長としてマイクの前に立ち、「敗れはしたが、これは一時的なものです」と発言したことから、報道された米国で大変な物議を醸したりしたそうです。

前述しました通り、大屋は戦後、時事通信に入り、48年にカリエスを発症し、51年に42歳の若さでこの世を去ります。

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この本の著者鳥居英晴さんは、このブログで以前ご紹介した「北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版)の著者でもあり、傍受・通信所関係にはかなりご興味あるようで、今のラジオプレス(RP)の前身に当たる「蔽之館(へいしかん)」のことに触れたり、「極秘扱い」で当時ほとんど存在が秘匿されていた同盟通信の川越分室(埼玉県)の場所を突き止めたりします。

同盟川越分室は、当時、川越商業学校があったところでした。日本の運命を決めたポツダム宣言、トルーマン大統領の原爆投下声明、ソ連の対日宣戦布告などをここで傍受して政府に伝えたといわれます。

【追記】この本を読了するのに3週間半、この拙文を書くのに3時間半かかりました。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。