今日、9月2日が何の日なのか? すぐに答えられる人はそれほど多くないと思います。学校であまり教えませんからね。
「敗戦記念日」、もしくは「降伏記念日」なのです。
1945年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦「ミズーリ」号の甲板で、日本と連合国との間で降伏調印式が行われたのです。日本国代表は重光葵(しげみつ・まもる)外相、日本軍代表は梅津美治郎参謀総長。連合国代表は勿論、米国のダクラス・マッカーサー元帥です。
8月15日を「終戦記念日」と呼ぶのは欺瞞ではないか? 「敗戦記念日」と呼ぶべきではないか、と言う人もおりますが、私は、8月15日はポツダム宣言を受諾した日で、戦争が終わった日でもあるので、終戦記念日で良いと思います。
その代わり、9月2日は、正式に降伏調印した日であり、国際法上でも「敗戦記念日」となります。しかし、国際的に見ても、世界史的に見ても、何処の国が自国の敗戦を「記念日」なんかにするものでしょうか。しかしながら、せめて、「敗戦の日」か「降伏の日」として末代に伝える義務があると思います。
この降伏調印式の場面は、NHKの「映像の世紀」などでよく取り上げられたので、私も現場に立ち合ったような感覚になれました。外相の重光葵(58)は、甲板のデッキに上る際、杖をつきながら、コツコツと義足で歩く音が響いていました。重光外相は、その13年前の昭和7年、駐華公使として上海市内の公園で天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀式に参列した際、朝鮮の独立運動家に爆弾を投げつけられ、右脚切断の重傷を負ったのでした。その後、重光は公式の場では、重さ10キロの義足を付けていたといわれます。
私は、もう30年以上も昔ですが、仕事で大分県の杵築というところに行ったことがあります。古い城下町で、いまだに江戸時代の雰囲気を色濃く残している街でした。そこに、どういうわけか、古い民家が一般公開されていて、屋内では重光葵の写真が飾られていました。ーそこは重光葵の実家で、幼少年期を過ごした所でした。重光の父直愿(なおまさ)は、豊後杵築藩(譜代、松平家、3万5000石)の藩士でした。その次男として明治20年に生まれた葵は、旧制杵築中学から五高(熊本)、東京帝大と進み、外交官となります。戦後はA級戦犯となり、東京裁判では禁錮7年の判決を受けますが、2年で仮釈放となり政界に復帰。鳩山一郎内閣の外相として、国連加盟や日ソ国交回復に向けて尽力します。
◇マッカーサー暗殺計画
さて、降伏調印式が行われた戦艦ミズーリ号の甲板上は、幹部クラスが整列して並んでいましたが、砲台の上の方では若い水兵たちが高みの見物するような感じで、中には薄らと笑顔を浮かべて眺めていた姿には驚かされました。敗者と勝者のえらい違いです。
実際、この日(1945年9月2日)から、サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日までの約7年間、GHQという名の実質上は米軍による日本占領が始まるわけです。
(今、斎藤充功著「中野学校全史」(論創社)を読んでいますが、戦後すぐに、中野学校出身の残党組がマッカーサー暗殺計画を立案していたことが書かれていました。表にも裏でも出ない史実で、口が重い中野学校出身者から根気よく取材して証言を得たもので、著者の努力には頭が下がります。)
電車の中でスマホゲームに熱中している若い人や中年の人でも、日本がかつて占領されていた歴史的事実をあまりにも知らな過ぎるので、今日は敢えて書きました。