名こそ惜けれ=戦国武将の死生観

最近、どうも個人的な関心が「戦国時代」づいています。日本の歴史の中で、戦国時代を知らなければ、江戸時代のことが分からないし、江戸時代のことを知らなければ、現代も分からない、とこじつけみたいな話ですが、戦国時代のことを知ると、何か、日本史の舞台裏と政略結婚による人脈が分かるような気がして、爽快な気分になれるのです。

 ということで、また「歴史人」(KKベストセラーズ)1月号を買ってしまいました。「戦国武将の死生観」を特集していたからです。いつも死と隣り合わせで生きてきた戦国武将の遺言状や辞世の句などが載っていますが、不運にも討ち死にしたり、処刑されたりする武将がいる一方、当時としては恐るべき長生きした武将もいたりするので、大変興味深かったです。

 最初に「戦国大名 長寿ランキング」を御紹介すると、1位が真田信之の93歳、2位が島津義弘の85歳、3位が尼子経久と宇喜多秀家の84歳、5位が細川忠興の83歳…となっています。各武将、色んな逸話がありますが、1位の真田信之は、有名な真田幸村のお兄さんです。関ケ原では、真田昌幸・信繁(幸村)親子が西軍についたのに対して、信之は徳川方の東軍について、戦後、父昌幸の上田城を与えられ、元の沼田城主と合わせて6万8000石の大名になった人です。当時としては信じられないほど長寿である数えの93歳まで生きましたが、30代から病気がちの人だったらしいですね。

 真田藩は元和8年に上田から松代に移封されますが、幕末にこの藩から佐久間象山を輩出します。

 3位の宇喜多秀家は84歳で亡くなりますが、後半の約50年間は八丈島で過ごし、そこで亡くなっています。備前・美作の大名で、豊臣秀吉の五大老にまで昇り詰め、関ケ原の戦いでは西軍に属して敗退し、島流しになったわけです。前田利家の娘を娶ったことから、島流しの間は、密かに前田藩からの援助があったと言われています。勿論、皆さん御存知の話ですが。

 また、「戦国武将の滅びの美学ランキング」で、1位を獲得したのは松永久秀です。以前なら、主君三好氏に反逆し、将軍足利義輝を殺害し、東大寺大仏殿を焼き打ちした極悪非道の、下克上の典型的な悪人のイメージがありましたが、最近では、随分見直されてきたようです。将軍義輝暗殺事件の際は、久秀は大和の国におり、直接関与せず、大仏殿の焼失は三好方の放火だったいう説が有力になってきたからです。

 久秀の最期は、天下一と称された「平蜘蛛の茶釜」とともに信貴山城で、織田軍に抵抗して爆死したと言われますが、茶器、刀剣、書画などの目利きという一流の文化人でもありました。いつか、彼が築城した多聞城趾に行きたくなりました。

 戦国時代の「天下分け目」の最大の合戦は、関ケ原の戦いですが、盟友石田三成に殉じて自害した大谷吉継の逸話が印象的です。西軍に属していた小早川秀秋らの裏切りで、吉継軍は壊滅しますが、吉継は自害するときに「(小早川秀秋は)人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と秀秋の陣に向かって叫び、切腹したといいます。

 小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(北政所、高台院)の兄木下家定の息子、つまり甥に当たる人物で、毛利元就の三兄弟の三男小早川隆景に後嗣がいなかったため、その養子になった人でした。秀秋は関ケ原の戦いの2年後に21歳の若さで急死したので、「大谷刑部の祟り」と噂されたのでした。

 勿論、皆さま御存知の話でしたが、この本にはまだまだ沢山色んな話が出てきます。山崎の戦いで秀吉軍に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に戻ろうと逃げた際に残った従者に溝尾茂朝(みぞお・しげとも)や進士貞連(しんじ・さだつら)らの名前が出てきて、随分、マニアックながら、私なんか「武士は死して名を残す、というが凄いなあ」と思ってしまいました。

 あまりにも戦国武将の逸話を読み過ぎると、「中学時代の友達だった南部君は、南部藩主の末裔だったのかなあ?」とか、「古田って、あの古田織部の子孫かな?」「立花さんは、立花宗茂の子孫かなあ?」なぞと、勘繰りたくなってしまいました(笑)。

 豊臣秀吉の一族は、大坂の陣で滅亡したことになってますが、織田信長の一族は現代にも子孫は続いてます。何しろ信長には11人(12人説も)男子がいました。信長の嫡男信忠は、本能寺の変の際に討ち死にしましたが、信長の弟の長益(有楽斎)や二男信雄らの子孫は生き残り丹波柏原藩主などになりました。

 そう言えば、元フィギュアスケート選手の織田信成さんは直系の子孫ともいわれています。

 当然の話ながら、遠い遥かな戦国時代が現代と繋がっています。

【追記】

 19日のNHKの番組で、「関ヶ原の戦い」の新発見をやってました。空撮による最新技術で赤色立体地図を作成したところ、本丸が一辺260メートルもある巨大な山城「玉城」が山中(地名)に発見されたのです。恐らく、ここが西軍の本陣の陣城で、豊臣秀頼か総大将の毛利輝元の数万の部隊を配置する目論見だったらしいことが分かりました。文献に出てこないのは、勝った徳川側からしか関ヶ原の戦いが描かれていないからでした。

 当時、8歳の秀頼は、母親の淀殿と秀吉の正室の北政所の庇護下にあり、淀殿も北政所も必ずしも西軍や石田三成側に立っていたわけではなかったようでした。だから、寝返った小早川秀秋も、調略を進めていた東軍の黒田長政も、北政所から養育され、北政所だけに忠誠心があったため、小早川が寝返ったのは、北政所の意向に沿ったことが真相のようでした。新説です。

毛利輝元は、関ケ原の戦いのどさくさに紛れて、九州、四国に領土拡大を図り、大坂城から一歩も動かず。南宮山に陣取った輝元の養子の毛利秀元も、徳川軍勢を見過ごすなど最初から西軍のために戦う気がないような怪しい動きばかりしていました。

 毛利と島津義弘が真面目に戦い、淀殿と北政所が西軍に協力的だったら、必ず西軍が勝っていた戦いでした。

 これだから歴史は面白い。