「京」と「宮」の違いとは?=「歴史人」4月号から

 「古代の首都になった『京』と『宮』の違いって分かりますか? 何で、平城京や平安京と言うのに、飛鳥宮や近江大津宮は、飛鳥京とか近江京とか言わないんでしょうかねえ?」ー会社の同僚のAさんが何処か思わせぶりな言い方で私にカマを掛けてきました。

 いやあ、分からん!今まで、そんな違いなんて全く意識していませんでした。

 そこで、しょうがないので、久しぶりに「月刊歴史人」(ABCアーク)4月号「古代の都と遷都の謎」特集を買ってみました。Aさんは、答えはその本に書いてある、というからです。

 「歴史人」を買ったのは3カ月ぶりぐらいです。その間買わなかったのは、ここ数年買い続けてきたので、同じような特集が続いていたからです。拙宅は狭いのでそんなに沢山の本を置けません。でも、4月号の「古代の都と遷都の謎」特集は初めてです。昨日、読了しましたが、知らなかったことばかりでした。雑誌ですから図表や写真がふんだんに掲載されているので、本当に分かりやすく、確かに「保存版」です。しかも、「歴史人」にしては珍しく、本文に大きな誤植がないので、驚愕してしまいました。失礼!大袈裟でした(笑)。

 さて、冒頭の京と宮の違いです。

宮=天皇の住まい+儀式のための役所

京=宮+豪族・庶民の居住域を計画的に造った都

ということでした。

 武家時代で言えば、宮とはお城と大名屋敷で、京とは城下町ということになりますか。

 時代の変遷でどんどん変わっていきますが、平安京を例にとりますと、平城京以来中国・唐の都・長安などにならって、碁盤の目の道路を整備して、「平安京」の中央北端に政務の中心である「平安宮」を置き、それ以外には、貴族が館を構え、寺社仏閣も創建され、庶民も住み、禁止されていたにも関わらず、右京の南部は湿地帯だったため、水田にもなったようです。貴族の人気スポットは左京の北側だったということです。

 平安宮の中には大内裏があり、ここには政務が行われる政庁である「朝堂院」や国家や宮廷儀礼が行われる「大極殿(だいごくでん)」、それに「太政官」や「民部省」などの官庁があります。また、その大内裏の中に天皇がお住まいになる「内裏」があり、「源氏物語」などにも出て来る「清涼殿」(天皇の日常生活の場)や即位礼など宮廷儀式が行われる「紫宸殿」などもありました。こういうのは、文章ではなく、雑誌で図解で見るのが一番ですね(笑)。

 古代は天皇が変わる度に何度も遷都をしておりましたが、一番興味深かったことは、桓武天皇が奈良の平城京を捨てて、京都の長岡京に遷都した理由です。仏教勢力の南都六宗の政治干渉を避ける目的があったから、というのは定説で、私も習ったことがあります。もう一つ、この本の著者の一人である藤井勝彦氏によると、天武天皇の孫・元正天皇が即位した霊亀元年(715年)から天武系の天皇が続いていたのに対し、桓武天皇の父・光仁天皇の代で半世紀ぶりに天智天皇系の天皇が出現しました。天応元年(781年)に父から譲位された桓武天皇が新たな天智系の王朝と捉えて、新王朝にふさわしい王都の造営を目論んだというのです。なるほど、奥が深い。(他に平城京は、下水道設備が不十分で、また清掃が行き届かなくて不衛生で、金属による環境汚染もあったという説もあります。)

 さらには、桓武天皇の生母が、百済渡来人である高野新笠(にいがさ)で、その父・和乙継(やまとのおとつぐ)は百済王武寧王の子孫だといいます。ですから、平城京から長岡京への遷都は、造営された山背国乙訓郡長岡村(現京都府向日市南部)が高野新笠の本拠地だったため、ということもあったようです。長岡村は、絶大な財力を持っていた秦氏の拠点でもありました。秦氏というのは、応神天皇の御代に百済から渡来してきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族で、当初は大和国葛城辺りに住んでいところ、後に山背国太秦などにも移り住み、土木や養蚕、機織りなどの技術を生かして財を蓄えたといいます。長岡京から平安京への遷都も秦氏の財力に頼ったことでしょう。

 こうしてみると、日本の古代国家(政権)が定着するには渡来人の助力がなければ、成り立たなかったと言えます。さらに踏み込んで言えば、人類学的にみて、弥生人=渡来人ならば、日本人のルーツ、特に権力者や上流階級の一部というより、多くのルーツは、文字や算術や仏教、それに農耕、土木建築、冶金、陶芸、養蚕、機織り技術を会得していた渡来人なのかもしれません。

 少なくとも、渡来人や遣隋使や遣唐使らが齎した朝鮮や中国の文物や文献なしでは、日本の古代国家が成立したなかったことは確かだと言えます。

「出雲を原郷とする人たち」には驚きの連続

岡本雅享著「出雲を原郷とする人たち」(藤原書店)が昨年11月に出版された時、すぐ読みたかったのですが、定価が3024円とちと高く、しばらく手が出なかったのですが、最近になって、やっと読めるようになりました。

2011年4月から16年1月まで「山陰中央新報」という地方紙に連載されていたものを単行本化したらしいのですが、レベルが高い。あまりにもの学術的、専門的過ぎて、小生のような浅学非才な人間にとっては難し過ぎて、通読できませんでした。

◇全国に移住する出雲の氏族

それでも、興味がある箇所だけは読みました。タイトルにある通り、出雲(今の島根県)の民が、全国に散らばって移住し、その集落にしっかり出雲という地名や出雲の名前が付いた神社を創建して、ちゃっかりと痕跡を残しているという驚きの学術書というよりかルポルタージュに近いのです。

その範囲は、越前、加賀、能登の国から信濃、越後、武蔵、岩代の国、筑前、周防、伊予、讃岐、山城、播磨、壱岐…と、粗末な船か歩くしかなかった古代の時代に、出雲の氏族たちはよくぞここまで踏破、制覇したものだと感服してしまいます。

出雲の国は、古事記や日本書紀では「国譲りの物語」として登場しますが、出雲の氏族は、そんな記紀が成立するはるか昔から全国に移動していたと言われています。

ということは、天皇族=大和政権が強大な権力を握る前に、彼らは出雲地方だけではなく全国的に制覇していた強力な豪族だったことは間違いないでしょう。(古代は恐らく全国ネットワークがあまりなかったので中央集権とは違ったものだと思われますが)

◇百済から大和へ、新羅、高句麗から出雲へ

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、著者は水野祐早稲田大学名誉教授の学説を引用して、百済から瀬戸内海を通ってきた大和への文化に対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。恐らく、海流や潮の流れで、古代でも半島や大陸から出雲に流れ着くことは容易かったのでしょう。

そして「新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していった」といいます。そういう流れだったんですね。

大和朝廷が百済系との結びつきが高かったということは、桓武天皇の母高野新笠が百済系渡来人だったという史実(「続日本紀」)と一致しますね。

◇出雲大社は本来、杵築の大社

この本を読んで一番驚いたことは、古代は今の島根半島は地続きではなく、島だったということでした。そして、今の出雲大社は、本来、杵築の大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていて、出雲大社と改称されたのはつい最近、明治に入った1871年だったというのです。

また、古代に遡ると、律令時代に入ると、ほとんどの国造(くにのみやつこ)は政治権力を失いますが、出雲の国造(出雲だけは「こくそう」と読むらしい)だけは権力を保持し続けたようです。

この本は全て読み切れなかったので、今たまたま御縁のある「武蔵国」(今の埼玉、東京、神奈川辺り)編だけは熟読しましたが、これまた知らないことばかりでしたね。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。

なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

首都圏の神社仏閣を網羅するサイト「猫の足あと」を主宰する松長社長には必読書となることでしょう。

【追記】

京都の相国寺境内では、出雲集落の遺跡が発掘されています。

また、新羅の古都だった現韓国慶州市にある古墳(5世紀末〜6世紀前半)で、国引き神話が描く新羅と出雲と越(こし=福井、石川、富山、新潟)の繋がりを象徴するかのように、出雲石の勾玉と糸魚川産翡翠の勾玉が出土しているといいます。

現代人が想像する以上に、古代では交流が盛んだったということなのでしょう。