日本人のルーツを求めて考えたら頭が混乱してしまいました

 退職金約6000万円が貰える東京高検・前検事長の黒川弘務氏は、週1~2回、多い時は週3回、遅い時は夜中の2時まで賭けマージャンに興じていたということです(「週刊文春」6月4日号)。そんなことをしていたら、本を読んだり、勉強したりする暇があるのかしら?-なんて、浅はかな私なんかは思ってしまいました。黒川氏は、超エリートのインテリですから、法律の知識は豊富でしょうが、社会常識や教養には欠けているのかもしれません。

 他人様のことですから、どうでもいいのですが、国民の税金が彼に使われているので、一言諫言を述べたかっただけです。私自身は専門知識もない、インテリでもない、ただの凡夫ですから、他人様から後ろ指を指されないように、麻雀もパチンコも競輪競馬も競艇も、博打はせずに只管、寸暇を惜しんで勉強するしかないのです。自粛生活でここ何カ月も友人たちにも会っていないし、飲みにも行かず、遊んでいないなあ~。

◇澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」

 さて、古代史は面白いが、むつかしい。-というのが、澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」(新泉社、2004年6月20日新装版第2刷)を読んだ感想です。古代大和朝廷は、朝鮮半島からの「渡来王朝」だったという大胆な結論を導きだしています。

 この1週間以上、この本に掛かりっきりでしたが、どこまで信用したら良いのか、頭が混乱してなかなか読み進むことができませんでした。そりゃそうでしょう。「文武天皇は新羅の文武王のことだった」「天武天皇は新羅の王族金多遂(キムタジュク)だった」(佐々木克明「騎馬民族の落日」)「壬申の乱は、百済・新羅の代理戦争だった」などと言われれば、「えっ?どういうこと?」になりますよ。

 1927年生まれの著者は、第一高等学校から東大法学部卒業後、都立高校の社会科教師を長年勤め、教頭を最後に定年退職し、その後、在野の古代史研究家になった人です(政治、経済関連の書籍も多く出版。2014年死去)。この本は、通説、俗説、異論、独自解釈…を集めたような感じで、学会で認められている「正史」ではなく、いわば「稗史」となるのかもしれませんが、無暗に読み捨てておけないところがありました。正直、途中で読むのが嫌になることもありましたが…(笑)。(秦の始皇帝はユダヤ人だった、という説には引っ繰り返り、源義経はジンギスカンだったという説を思い出しました)

 何しろ、日本の古代史の最も重要な文献である「古事記」や「日本書紀」(以下記紀)には、歴史的事実をそのまま叙したとは言えない創作的な神話があることはよく知られていますが、日本の歴史だというのに、やたらと朝鮮半島の百済や新羅や高句麗の情勢が登場することはあまり知られていません。(記紀を原書で通読した現代人は果たして何人いるのかしら? 私も記紀は、現代語訳でしか読んだことがありません)

 例えば、「日本書紀」では舒明天皇について、「十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。」(即位13年冬10月9日。舒明天皇は百済宮で崩御された。18日、宮の北で殯(もがり=葬送儀礼)が行われた。これを百済の大殯と言う。)といったことが書かれています。何故、日本の天皇(この時代は大王と呼ばれていましたが)なのに、百済式の殯が執り行われたのでしょうか?…。

 記紀がこういう書き方だと、古代史学会による正統な歴史解釈のほかに、在野の研究者や好事家らによる独自解釈も数多あります。特に、「万世一系の天皇制」を論議することがタブーとされていたことが、敗戦後に一転して自由な研究が解放されましたからね。

 もう少し例を出すと、本書では、645年の乙巳の変(大化の改新)は、「百済系」の蘇我蝦夷・入鹿「政権」に対する「新羅系」の中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターだったというのです。中大兄皇子と鎌足の背後には、革命の正当化を訴えた南淵請安(みなぶちのしょうあん)らがいたといいます。彼らは、遣隋使で新羅経由で帰国して親・新羅派になったといいます。(南淵請安は、昭和初期の血盟団と五・一五事件の海軍青年将校らの精神的支柱だった農本主義者・権藤成卿が最も影響を受けた人物の一人。権藤は、大化の改新の理論的指導者だった請安に倣い、昭和維新を唱えたといいます。南淵請安は、渡来人である東漢氏=やまとのあやうじ、後漢の霊帝の末裔が帯方郡から3世紀頃に渡来=出身だといわれています)

 (新羅派のはずだった中大兄皇子は、天智天皇として即位すると、百済系渡来人を重用し、壬申の乱後に即位した天武天皇は、新羅系で二人は兄弟ではなかったと書かれていましたが、何か、よく分からなくなってしまいました)

赤は百済と平氏、白は新羅と源氏

 この本では、新羅系は白旗がシンボルで、清和源氏に受け継がれ、百済系は赤旗で、桓武平氏に受け継がれ(桓武天皇の生母高野新笠は、百済系渡来人の末裔だった=「続日本紀」)、平安以降、鎌倉幕府の源氏の源頼朝から平氏の北条氏に変わり、それが室町時代になると源氏の足利尊氏、その後、平氏の織田信長~豊臣秀吉となり、江戸幕府を開いた徳川家康は源氏と交互に政権が交代したという説を展開しています。

 肝心のタイトルにもなっている「ヤマト国家は渡来王朝」というのは、天皇族は朝鮮半島の南端に古代にあった伽耶辺りから渡来してきたという説です。ただし、彼らは、現代の北朝鮮人や韓国人の祖先ではなく、北方からスキタイ系の騎馬民族が朝鮮半島南部に住み着き倭人と呼ばれた人たちで、そこから北九州などを経由して畿内に到達したというものです。となると騎馬民族説ですね。(スキタイ人は鉄器を匈奴や漢に伝え、鉄器は、朝鮮半島南部から日本に伝えられたので、そのような倭人がいたかもしれません)また、ヤマトに国譲りをした出雲も鉄器製作が盛んでしたが、出雲族は、もともと朝鮮南部の安羅からの渡来人の子孫だとする学者もいます(朴炳植氏の説)。

 古代は、現代人が想像する以上に遥かに多くの人が、大陸から、そして半島から、日本列島へ行き来していたようですから、古代人の間では、それほど国家や民族を意識することなく、混血が進んでいたことでしょう。(神話のスサノオノミコトも、出雲と朝鮮半島の新羅を行き来していました)

 そして、ヤマトが百済の王族を人質として預かったり、百済の要請でわざわざ朝鮮半島の白村江まで遠征して唐や新羅と何故戦ったのか、などについては、朝鮮半島南部に拠点を築いて住み着いた倭人がいなければ、理由が説明がつかないことでしょう。

 私自身は、「日本人はどこからやって来たのか?」という深い疑問の原点があって、古代史に興味を持ちましたが、「日本人とは何か」となると、この本を読むと、多少、混乱してしまいました。

◇日本全国に残る新羅、百済、高句麗

 とにかく、記紀には新羅、百済、高句麗が頻繁に登場します。同書によると、まず「新羅」については、新羅神社という名の社が、青森県八戸市、静岡県浜松市、岐阜県多治見市など全国に9社あり、全国に2760社ある白山神社も新羅に起源を有する神社で、その他、白木、白子、白石、白髭などの地名は日本に移住してきた新羅人が付けた名前だといいます。

 「百済」は、大阪府枚方市に百済寺跡があり、そこの隣接地に百済王神社がある。その他、各地に多くの百済神社があり、大阪市旧鶴橋町一帯は、もともと百済郷と呼ばれていたといいます。

 「高句麗」は、「続日本紀」の霊亀2年(716年)の記事に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以て武蔵国に遷し、初めて高麗郡を置く」とあり、現在も埼玉県日高市に高麗若光を祀る高麗神社・聖天院がある。この高麗氏から駒井、井上、神田、武藤、金子、和田など多くの氏族が派生し、東京には狛江市や駒場、駒場、駒込、駒沢など駒(高麗)が付く地名が多い。関東地方には高句麗系の渡来者がかなり多かったといいます。今は日本人として同化したということでしょう。

 これらは「説」ですから、歴史的事実かどうか分かりませんが、日本人のルーツは、朝鮮半島や中国大陸、そしてユーラシア、東南アジア、南太平洋等から渡来した人たちということになるのでしょう。

 もっと勉強しなければいけませんね。賭けマージャンをやってる暇はありません(笑)。

歴史上の人物は善悪二元論で断罪できない=「天皇と東大」第4巻「大日本帝国の死と再生」を読みついに全巻完読

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)はついに全4巻完読できました。最後の第4巻「大日本帝国の死と再生」は、2日間で一気に読破してしまいました。

 巻末に参考文献が載っていましたが、ざっと1200冊以上。これだけ読むのに10年以上掛かりそうですが、著者は読んだだけでなく、こうして単行本2冊(文庫版で4冊)の大作にまとめてくれました。

 当時の文献からの引用が多いので、「曩(さき)に」とか、「抑々(そもそも)」「洵(まこと)に」「啻(ただ)に」「仮令(たとい)」「聊(いささ)かも」「赫々(かっかく)たる」といった接頭辞や、「辱(かたじけな)さ」「恐懼(もしくは欣快)に堪えず」「意思に悖(もと)る」「雖(いえど)も」「抛擲(ほうてき)」「芟除(さんじょ)」「万斛(ばんこく)の恨み」「宸襟(しんきん=天子の心)を安んじ」「拝呈 先ず以って御清福、奉賀候(がしたてまつりそうろう)」「護国の力尠(すく)なきを慚愧し」「上御一人(かみごいちにん)の世界」といった現代では使われなくなった言い回しが、最初は読みにくかったのに、慣れると心地良くなってきました(笑)。こういう言い回しで、極右国家主義者勢から「朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)」だの「国体(天皇絶対中心主義)破壊を企む不逞の輩を殲滅する」などと言われれば、言葉の魔術に罹ったかのように思考停止してしまいそうです。

 昭和初期には多くの思想弾圧事件(美濃部達吉の天皇機関説事件森戸事件京大・滝川事件河合栄治郎事件人民戦線事件のほか、日本共産党を壊滅させた三・一五事件四・一六事件など)があり、主に弾圧された側(ということは左翼)から語られる(つまり、教科書や書籍で)ことが多かったので、戦後民主主義教育を受けた者は、ほんの少ししか右翼側の動向について学んだことはありませんでした。ですから、血盟団の井上日召や四元義隆や五・一五事件の海軍青年将校らに多大な影響を与えた権藤成卿や、むやみな「言あげ」はしない「神ながらの道」を唱えた筧(かけい)克彦や、皇国史観をつくった平泉澄(きよし)といった国粋主義者に関する話は本当に勉強になりました。

 第4巻の「大日本帝国の死と再生」では、昭和初期の東京帝大経済学部の三つ巴の内紛が嫌になるくらい詳細に描かれています。三つ巴というのは、大内兵衛有沢広巳といったマルクス主義の「大内グループ」と土方成美本位田(ほんいでん)祥男ら国家主義の「土方グループ」と河合栄治郎、大河内一男ら自由主義(反マルクス主義で欧州の社会民主主義に近い)の「河合グループ」のことです。この3者が、教授会で多数派になるために、くっついたり離反したり、手を結んだり、裏切ったりするわけです。

 マルクス主義の大内グループは最初にパージされて消えますが、戦後復活して、日本経済の復興を支えるので、大内兵衛や有沢広巳なら誰でも知っています。河合栄治郎は、多くの経済書を執筆(多くは日本評論から出版し、担当編集者は石堂清倫だった)し、戦時中、ただ一人、軍部と戦った教授として名を残しています。(同じく筆禍事件を起こして東大を追放された矢内原忠雄=戦後復帰し、東大学長。私自身はこの人ではなく、その息子で哲学者の矢内原伊作の方が著作を通して馴染みがありました=と河合との関係には驚きましたが…)

 私自身は、むしろ、土方グループの土方成美については何も知らず、この本で初めて知りました。彼ら国家主義者は「革新派」と呼ばれていました。戦後民主主義教育を受けた者にとって、何で右翼なのに革新派なのか理解できませんが、当時は、土方のような戦争経済協力派を革新派と呼んでいました。国家主義者の岸信介が商工省の若手官僚の頃、「革新官僚」と呼ばれたのと一緒です。今でこそ、国家主義や国粋主義、それにファシズムと言えば、悪の権化のように思う人が多いのですが、戦前の当時は、それほどネガティブな意味がなかったといいます。(そう言えば、作家の直木三十五も「ファシスト宣言」したりしていました)

 国粋主義(絶対的天皇中心主義)「原理日本」の蓑田胸喜や菊池武夫らが、東京帝大から共産主義思想の教授追放を目的とした「帝大粛清期成同盟」を結成すると、意外にも野口雨情や萩原朔太郎、片岡鉄平ら童謡詩人や作家までもが賛同していたのです。戦前の皇民教育や軍国少年教育を受けた者にとっては、国威発揚や愛国心は至極当然の話で、臣民の税金で国家の官僚を養成する帝大の教授が反国家的で、コミンテルン支配の共産主義思想を研究したり、学生に教えたりするのはとんでもない話だったのでしょう。

 著者の立花氏は、文庫版のあとがきで「なぜ日本人は、あのバカげたとしかいいようがない戦争を行ったのか。国家のすべてを賭けてあの戦争を行い、国家のすべてを失うほどの大敗北を喫することなったのか。…私がこの本を書いた最大の理由は、子供のときから持っていたこの疑問に答えるためだった。7年間かけてこの本を書くことで、やっとその答えが見えてきたと思った」と書いています。

 私も、通読させて頂いて、今まで知っていた知識と知識がつながって、線状から面体として浮かび上がり、この異様に複雑な日本の近現代史が少し分かった気がしました。

 マルクス主義一つをとっても、戦前の弾圧から、戦後直ぐは、「救世主」のように日本復興のよすがになるかに見えながら、強制収容所の恐怖政治のスターリズムやハンガリー動乱、そしてソ連邦崩壊が決定的となり、威力も魅力も失いました。その一方、東京帝大の「平賀粛学」で、土方グループ追放に成功し辞任した田中耕太郎・経済学部長は、戦後は最高裁判所長官や国際司法裁判所判事などを歴任。この本に書かれていませんでしたが、クロポトキンを紹介するなど進歩的言動で東京帝大を追放された森戸辰男助教授(森戸事件)も戦後は、宗旨替えしたのか、文部大臣や中教審会長を務めるなどすっかり体制派側の反動的な政治家になったりしています。人間的な、あまりにも人間的なです。

 戦後は、国家主義や国粋主義についてはアレルギーが出来てしまったので、今さら極右の超国家主義が日本で復活し、再び戦争を始めようとすることはないでしょうが、戦前は、多くの一般市民も皇民教育を受けていたせいか、戦争協力し支援していたことを忘れてはいけないでしょう。このブログで何度も書いていますが、世の中は左翼と右翼で出来ているわけではなく、左翼が善で右翼が悪で、そのまた逆で、左翼が悪で右翼が善だという単純な二元論で分けたり区別できるようなものではありません。自由主義だって胡散臭いところがあるし、タブー視される国粋主義だって、掛け替えのない価値観があると考えてもいいのです。

 ですから、この本を読んで、蓑田胸喜や平泉澄といった狂信的な超国家主義者のお蔭で、日本は道を誤り、戦争を起こして惨敗したなどと単純な答えを導くのは間違いでしょう。彼らのような怪物(と呼んでしまいますが)を生み出す内外情勢と教育こそが元凶で、教育如何でどんな人間でもできてしまうことを胸に刻むべきではないでしょうか。その意味でも、私自身は、歴史を勉強し、歴史から学ばなければならないと思っています。これはあくまでも個人的な意見なので、多くの人にはこの本を読んで頂き、色々考えてほしいと思っています。

【本文に書けなかったこの他のキーパースン】

一木喜徳郎(内大臣から宮内大臣で昭和天皇の信頼が篤かった)・湯浅倉平(内務省警保局長から宮内大臣、内大臣。反平泉派)・富田健治(近衛内閣の書記官長、平泉の門下生)・畑中健二少佐(宮中事件で、森赳近衛師団長を射殺、「日本のいちばん長い日」)・大西瀧治郎(特攻隊の生みの親、終戦後自刃)・高野岩三郎(東京帝大経済学部創設⇒大原社会科学研究所へ)・大森義太郎、脇村義太郎、山田盛太郎、舞出長五郎(大内グループ)・橋爪明男(東京帝大経済学部助教授で内務省警保局嘱託。大内グループの動静を密告するスパイだった!)