「従三位」と「正六位」の違いは何か?=位階(叙位)について考える

 私は自己嫌悪感が強い人間なのか、自分が書いた記事に関してはすぐ反省して取り消したくなります(苦笑)。ブログを毎日のように書き続けているのは、前日に書いた記事を否定したく、いや、否定してしまっては元も子もないので、前日書いた記事より、もっと上手く書きたい、もっと面白いものを書きたい、と願っているせいなのかもしれません(笑)。

 ということで、唐突ながら、本日は「叙位叙勲」のお話に致します。国の栄典には、位階(叙位)、勲章(叙勲)と褒章があります。位階は、正一位から従八位まで正従各8階の16階があり、亡くなられた方に対して運用されます。

 勲章は、大勲位菊花章頸飾から旭日単光章・瑞宝単光章まで15章あり、「国家又は公共に対し功労のある方」らに授与されます。

 褒章は、紅綬褒章から飾版まで8章ありますが、学者や芸能人、スポーツ選手らに授与される紫綬褒章が一番馴染み深いかもしれません。

 これらについて、全部書いていたらキリがないので、本日は叙位(位階)の話に絞ります。何しろ、叙位は、古代律令制から始まり、敗戦で一時途切れても、我が国では1300年以上、連綿と続けられてきたからです。(叙位叙勲は、閣議決定により昭和21年5月に停止され、昭和39年4月に復活した)

 あの代表的な戦国武将である織田信長でさえ正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣を朝廷から受けています。

 一方、古代から中世にかけて、中央から地方行政単位である国の行政官として派遣された官吏は国司と呼ばれましたが、「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の四等官が派遣されました。例えば、越前国なら「越前守」「越前介」「越前掾」「越前目」といった具合です。地方の「国」には「大国」「上国」「中国」「下国」の分類がありましたが、武蔵や播磨などの大国の場合、それらの位階を当てはめると、「守」は従五位、「介」は正六位、「掾」は正七位、「目」は従八位でした。地方官のせいなのか、それほど高い地位ではなかったのです。(中央の上級官人=貴族=は、太政大臣=正一位・従一位、左大臣=正二位、右大臣=従二位、大納言=正三位、中納言=従三位、参議=正四位…となっていました)

鎌倉・円覚寺 聖観音像

 これらのことを「目安」として頭に入れて頂いて、現代の話に戻します。現在も位階は、天皇の裁可によって、亡くなった方に授与されています。意外と知られていませんが、企業のトップや議会議員だけでなく、かなりの数で学校の校長先生にも叙位されているのです。地方自治体などからの推薦がありますが、最終的に取りまとめているのが、内閣府大臣官房人事課恩賞係というところです。

 さて、この位階の基準がよく分かりません。例えば、この人は「正五位」だけど、この人は「従五位」にしよう、といったことを誰が、どんな基準で決めているのか、外部からは全く分かりません。でも、少し想像だけはできます。

 ごく近々の話では、「ゴルゴ13」で知られる劇画作家のさいとう・たかを(本名斉藤隆夫)さんは今年9月に84歳で亡くなりましたが、授与された位階は「正六位」でした。意外にも低いので、この論考?を書くきっかけとなりました。何故なら、「正六位」は大体、小・中学校の校長経験者に多く授与される位階だからです。高校の校長となると、「従五位」前後が多く、大学の教授クラスともなると、「従四位」か「正四位」といった感じです。この中で、私大の名誉教授は「従四位」、国立大学名誉教授、それも特に、東大、京大など旧帝大系となると「正四位」となる傾向が強いのです。

 特例は、昨年12月に90歳で亡くなった物理学者の有馬朗人氏で、破格の?「正三位」でした。元東大学長だった上、文部大臣を務め、文化勲章まで受章したということからの判断だと思われます。

鎌倉・円覚寺

 位階は死後授与ですから、やはり生前に日本芸術院会員や文化勲章などを受章されていたりすると、位階が上がると思われます。

 松山バレエ団創立者の松山樹子(本名清水樹子)さんは「正六位」、作曲家のすぎやまこういち(本名椙山浩一)さんは、文化功労者であっても「従四位」でしたが、「渡る世間は鬼ばかり」などで知られる脚本家の橋田壽賀子(本名岩崎壽賀子)さん(今年4月、行年95歳)と、11月に99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さんは、ともに「従三位」でした。お二人とも文化勲章受章者だということが効いているのではないかと推測されます。

どうなる眞子さま、ご結婚問題?=そして、橋田壽賀子先生の思い出

  今、世間ではあの話題で騒然、まさに沸騰しています。

 戦前なら「不敬罪」で、獄中入り間違いなしでしょうが、自由と民主主義の成熟した国家になった今は大丈夫だからなのでしょう。多少、度が過ぎた報道もありますが…。

 例えば、週刊文春は、「総力取材」と称して「虚栄の履歴 小室さん母子の正体」「抗議殺到、職員連続退職…追い詰められる秋篠宮家」と見出しだけで内容が分かるような書き方です。中には「高3 社長令嬢との交際に母歓喜『いいじゃない!』」は、笑わせてもらいました。

 いつも斜から世間を見据える週刊新潮は、「『眞子さま』ご結婚でどうなる 『髪結いの亭主』との生活設計」と大見出し。眞子さまを何でかぎかっこにするのか不思議です。あの世間を騒がせている眞子さま、と強調したいんでしょうか(笑)。中見出しの中には「『あの方々が親戚になるの…』女性皇族から戸惑いの声」とインサイダー情報まで載せています。

 もう一つ、同誌では「『皇室を揺るがす婚姻』に思う」と題して識者にインタビューしています。この中で、脚本家の橋田壽賀子さんが登場し、「渡る世間に佳代さんがいても」などととコメントしています。

 で、お前さんはその週刊誌を買ったのかい?と聞かれそうですが、これだけ充実した(?)見出しを読まされると、何か、全文読んだ気になってしまい、もうお腹いっぱいです(笑)。特に、私なんか、見出しを読むどころか、こうして、わざわざ、一字一句書き写していますからね。勿論引用として。

 ところで、最後に引用した橋田壽賀子さんには、個人的な思い出があります。

京都・光明寺 Copyright par Kyoraquesensei

 今ではシリーズ化して日本人なら知らない人はいないドラマ「渡る世間は鬼ばかり」をTBSが開局40周年企画として初めて製作発表した1990年のことですから、もう30年も昔の話です。

 マスコミ用語に「かこみ」取材というものがありますが、椅子に座って対峙した正式な記者会見のほかに、懇親会か何かで、対象者を囲んで話を聞いたりする取材があり、「かこみ」はその後者を指します。その「渡る世間…」の製作発表の直後だったか、後日改めて大々的に開かれた懇親会だったか忘れてしまいましたが、長山藍子さんや中田喜子さんといった女優さんと一緒に脚本家の橋田さんも参加していました。

 その時、橋田さんを囲んだのは私を含めて3人か4人ぐらいだったと思います。私はもともと、こういった家庭ドラマは興味も関心もないし、嫁と姑めの古典的な争いも何かマンネリみたいな感じだったので、仕事として適当に話を聞いていました。

 橋田先生は饒舌な方で、喋るは、喋るは…。「早く終わらないかな」といった表情を私がしたのかもしれません。突然、喋り続けていた橋田先生が、ピタッと話をやめ、よりによって、私の傍に近寄ってきて、「ああた、さっきから私の話、聞いてないでしょ!!」と怒り出したのです。

 「その通りです」と正直に告白するわけにもいかず、「いいえ、そんなことありませんよ。一生懸命聞いてますよ」と、冷や汗をかきながら自己弁護するのに必死になったことを今でも覚えています。(橋田先生は、TBSの社長が車寄せまでお出迎えするほど超VIPだということは後で知りました)

 ということで、正直、私自身、日本人なら知らない人はいない著名ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を全編通して真面目に見たことはありません。そして、今でも橋田壽賀子先生の「ああた、さっきから私の話、聞いてないでしょ!!」というお言葉が、耳の奥にこびりつくように残っています。

でも、どうして分かっちゃったのかなあ? 正直者なので、顔に出ちゃうのかなあ…?橋田壽賀子先生、覚えていますか?