菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

戦国武将 最強は誰か?=意外にも信長公は第6位

 「歴史人」4月号の特集「発表! 戦国武将 最強ランキング」はなかなか読み応えがありました。全合戦の勝率から導き出された最強の武将は誰なのか決定したもので、意外にも第1位は毛利元就。49勝9敗2分で勝率8割1分7厘という戦績でした。

 第2位は、四国の王者・長宗我部元親で47勝12敗2分けの勝率7割7分。第3位は豊臣秀吉で106勝22敗15分の勝率7割4分1厘でした。これまた、意外にも、織田信長は59勝15敗8分(勝率7割2分)で6位にしか入っていないんですね。徳川家康も52勝10敗12分(同7割3厘)の8位ですが。

 ところで、関東の雄・北条氏康は34勝8敗8分、勝率6割8分で第9位に食い込んでいて、全50合戦の勝敗表が掲載されていますが、読んでいて矛盾した箇所が出てきます。1556年3月10日の鎌倉合戦で里見義堯(さとみ・よしたか)に勝利を収めたことになっていますが(32ページ)、15勝9敗5分(勝率5割1分7厘)で第20位に入った里見義堯は「安房の小大名ながら北条氏康に勝利した戦術家」として紹介されています(37ページ)。

 それによると、里見義堯は天文24年には北条氏康軍に大勝し、武名を挙げたことになっています。天文24年は西暦1554年で、この年は、武田信玄と今川義元と北条氏康が「三国同盟」を結んだ年です。その後、第1次久留里城=千葉県君津市=の戦いがあり、里見氏が北条氏の攻撃を退けています。北条氏康の項で、里見義堯に勝ったとされる1556年を調べると、この年の「三浦三崎の戦い」で里見水軍が相模に進軍して北条水軍に辛勝したとあります。となると、いずれにせよ、北条氏康は敗れたことになり、34勝8敗8分ではなく、33勝9敗8分にならなければおかしいし、里見義堯の項で、北条氏康軍に「大勝した」のではなく、「辛勝した」にしなければおかしい。こう考えると、他にも間違いがあるのかもしれません。

 例によって、自分が知らなかったことなど特に銘記しておきたいことをメモ書きします。

・戦国大名(武将)が勝利を重ねるのに最も重要な存在は、軍師。天下を取った豊臣秀吉には実弟の豊臣秀長黒田官兵衛(如水)、竹中半兵衛らがいたことが大きい。他に、今川義元の太原雪斎(たいげん・せっさい=今川氏親の重臣庵原左衛門尉の子)、大友宗麟の立花道雪角隈石宗(つのくま・せきそう)、龍造寺隆信の鍋島直茂、伊達政宗の片倉小十郎景綱、武田信玄の真田幸隆山本勘助ら、毛利輝元の安国寺恵瓊(えけい=安芸守護大名武田信重の子)、徳川家康の本多正信、石田三成の島左近(筒井順慶、蒲生氏郷らに仕えた後、関ケ原の戦いの前に主君三成の半分の俸禄で迎えれた)らがいる。

・子だくさんの第1位は、本願寺の中興の祖、蓮如で男子13人、女子14人。84歳で亡くなった時、5番目の妻で34歳の蓮能尼は生後2カ月の息子を抱いていた。2位は織田信秀で男女ともに12人、その子息の織田信長も男子10~12人、女子10人を側室に産ませた(異説あり)。

・応仁の乱の後、「剣術三大源流」の流派が始まる。愛洲移香斎(あいすい・こうさい)による「陰流」、中条長秀の「中条流」、飯篠長威斎(いいざさ・ちょういさい)の「神道流」の三派だ。陰流の愛洲移は常陸国の鹿島の人、神道流の飯篠は香取神宮の神意を受けて創始。飯篠の弟子で「鹿島神流」を創始した松本備前守尚勝は鹿島神宮の神職。同じく飯篠の神道流の門派から出て「新当流」を創始した塚原卜伝は鹿島神宮の神官の次男と、どうも剣客には鹿島神宮と香取神宮に関係している。

・剣豪ランキングで、第1位の宮本武蔵に次ぎ第2位を獲得したのが、上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)。上野国大胡(群馬県前橋市)の上泉城主の子で、青年時代に鎌倉で念阿弥慈恩を流祖とする「念流」を学び、下総国香取で松本備前守尚勝の「鹿島神流」や塚原卜伝の「新当流」を習得し、常陸国鹿島で「陰流」の愛洲移香斎に師事して「新陰流」を創始。上泉信綱の弟子として、「柳生新陰流」を創始した柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさい・むねよし)、「疋田陰流」の疋田文五郎、「タイ捨流」の丸目蔵人佐(まるめ・くらんどのすけ)ら多くの剣豪を輩出した。

「歴史人」の読者プレゼント当たる

東京・銀座「みちのく」 刺身盛り合わせ定食ランチ 1050円

 いつ出したのか、忘れてましたが、雑誌「歴史人」(KKベストセラーズ)のアンケートに応えたら、「読者プレゼント」が当たりました。

 小生、自慢じゃありませんけど、子どもの時分からクジ運が悪く、博打の才能もからしきないので競馬も競輪も競艇もやりませんが、ここ最近、どういうわけか、当たるのです。先月は、地元商店街の年末の福引で、3等賞「100円」の商品券が当たりました。5等賞がティッシュ1枚でしたから大したもんです。(せこい、せこ~い!)

 「歴史人」は最近、ちょくちょく買うようになりました。2020年11月号の「戦国武将の国盗り変遷マップ 応仁の乱から大坂の陣まで 戦国史を地図で読み解く」特集、21年1月号の「遺言状や辞世の句で読み解く 戦国武将の死生観」特集、そして2月号の「名字と家紋の真実―天皇家から戦国武将」などです。みーんな面白い。よーく取材し、一流の学者、作家、ライターさんが分かりやすく図解入りで書いてくれるので、非常に分かりやすいのです。

 当選したのは、東京・赤坂のサントリー美術館で開催中の「美を結ぶ。美をひらく。美の交流が生んだ6つの物語」展の招待券でした。当日一般1500円ということですから、2枚で3000円。年末の福引と比べると大当たりです(笑)。

 新型コロナで東京は緊急事態宣言が発令されていて、東京はおっかねえ所ですから、どうしようかなあ、と思っています。コロナだから、友人を誘うわけにも行かず困っちゃいますね。いっそ、誰かにあげちゃおうかしら…。