戦争ものが少なくなった8月のテレビ界

 8月は終戦記念日の月ですので、メディアは戦争ものの企画が増えますが、新聞はともかく、テレビは民放も国営放送も以前と比べると格段と戦争特集番組やドラマが減りましたね。テレビは所詮、広告媒体であり、エンタメ中心ということなんでしょうか?

私が子どもの頃、「あゝ、同期の桜」という特攻隊のドラマをやっていました。陸軍に一兵卒として志願して辛うじて生還した父親は、ドラマを見ながらポロポロと涙を流していたのを思い出します。調べたら、1967年にNET(現テレビ朝日)で4月から半年間続いたドラマでした。当時はまだ戦争体験者の方が多かったせいか、視聴率も高かったことでしょう。

 正直言いますと、私の子どもの頃、「自分が大人になったら、徴兵でとられて戦争に行くんだろうなあ」とビクビクしながら育ちました。戦争第2世代ではありますが、まだ両親や周囲から生々しい体験談を聞いていたので、戦争は身近に感じていました。

 あれから半世紀以上の年月が経ち、「戦争を知らない子供たち」の子供たちの世代になったので、時代が変わったということなのでしょうが、決して忘れてはならないことです。私は少なくとも、太平洋戦争で亡くなった英霊のお蔭で、今の平和があるという有難みを感じながら生きています。そして、あの戦争は何だったのか、今でも考え、勉強しなければならないと思っています。

銀座・晴海通り

 「歴史人」8月号「日米開戦80年目の真実」特集「なぜ太平洋戦争を回避できなかったのか?」を読むと、戦争というのは、かなり「属人的」で、現場の司令官によって、180度全く違うことを痛感しました。

 太平洋ではないので、敢て、GHQが禁止した「大東亜戦争」と書きますが、この大東亜戦争の中で、最も醜悪で、無為無策で、無謀だった戦争を一つだけ挙げよと言われれば、私は迷わずビルマの「インパール作戦」(1944年3月8日~7月3日)を挙げます。最高司令官は牟田口廉也中将(1888~1966年)。佐賀県出身。陸士22期。この人、日中戦争のきかっけをつくった盧溝橋事件で、支那駐屯歩兵第一連隊長で、戦火を開いた責任者で「俺が始めたこの戦争を、俺が終わらせる」と周囲の参謀の大反対を押し切ってインパール作戦を立案し実行します。

 無謀で無策だったのは、2000メートル級の山岳地帯を進軍するというのに、十分な補給や後方支援も考えず、前近代的な精神論だけで、部下を前線に送り込んだことです。それでいて、自分だけは後方の安全地帯で高みの見物をし、戦況が悪くなるとさらに後方に下がり、最後は、戦闘というより飢餓で亡くなった将兵たちがつくる「白骨街道」の上空を飛行機で逃げ帰った最悪の人物でした。9万2000人動員した作戦の戦死者は2万3000人。その張本人・牟田口廉也は、陸軍上層部から責任を問われることはなく、戦後ものうのうと生き残り続けました。しかも、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と自説を曲げずに77歳の生涯を終えました。

 この牟田口の言う「無能の部下」というのは、第31師団の佐藤幸徳中将と第15師団の山内正文中将と第33師団の柳田元三中将のことも含まれるでしょう。この3人の師団長は、武器や弾薬も、水や食糧の補給もなく戦闘継続が不可能なことから、作戦中止や撤退したりしたため、牟田口から現場で師団長の職を更迭されました。特に、 第31師団の佐藤幸徳中将(陸士25期)は牟田口の作戦に反対して無断で撤退しましたが、お蔭で、彼が率いた多くの将兵の生命は救われることになりました。

 ただし、無断撤退は、抗命罪に当たります。軍法会議では不起訴にはなりましたが、戦後長らく「インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら3人の師団長が共謀して招いたもの」とされてきました。しかし、 日米開戦から80年経った現代の人権擁護主義でいけば、佐藤中将の行為は賛美されるべきでしょう。

銀座・昭和通り

 とにかく、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」といった軍人勅諭でがんじがらめになっていた帝国陸海軍でしたから、ガタルカナル島(百武晴吉中将、1万9200人戦死)、アッツ島(山崎保代大佐、2630人戦死)、サイパン島(南雲忠一中将、4万1000人戦死)、硫黄島(栗林忠道中将、1万8000人戦死)…と「玉砕」の悲劇を生みました。ところが、司令官の判断で玉砕の道を選ばなかった戦闘もありました。キスカ島の木村昌福(まさとみ)少将です。彼は、玉砕ではなく撤退を選び、守備隊員5200人の生命を救います。でも、恐らく当時は非難されたか、非国民扱いされたことでしょう。

 日米開戦80年となった現代の常識から見れば、木村少将の撤退は賛美されるべきものです。何と言っても、指揮官の判断によって、何万人もの将兵の生死が分かれます。極めて属人的なものです。山本五十六東条英機だけでなく、この木村昌福も教科書で教えてもらいたい人物です。

◇フィリピン決戦で43万人が戦死

 ところで、太平洋戦争で、日本軍の被害が甚大だったのは、フィリピン決戦でした。レイテ沖の戦い、ルソン島の戦い等で、実に43万人もの将兵が戦死しました。首都マニラの市街戦では、10万人もの市民が犠牲になったといいます。植民地解放を謳った正義の「大東亜戦争史観」で言えば、フィリピンはアメリカの植民地でしたから、帝国陸海軍は、東南アジアの中で最も戦力を導入したせいかもしれません。

 レイテ沖海戦では、私の大叔父高田茂期も戦死しました。新宿ムーランルージュの座付き台本作家だったと話に聞いています。牟田口廉也のように戦後も生き延びることができたら、後に名を残すほど活躍したかもしれないと思うと悲憤慷慨したくなりますよ。

Amazonプライム解約運動の影に三浦瑠璃氏あり

 世界最大のネット通販「Amazon」のプライム会員の解約運動がSNSを通して国内で広がっているという記事を読みました。

 私はアマゾンのプライム会員でも何でもないので、正直、関心がなかったのですが、今朝(8月18日付)の毎日新聞朝刊の記事を読んで興味を持ちました。

 Amazonプライムのテレビコマーシャルに国際政治学者三浦瑠璃氏とタレントの松本人志氏を起用していることに対する抗議、だったのです。この二人が何をしたのか、私は二人に関心がないので全く知りませんでした。

 この記事によると、タレントの松本氏は昨年、民放テレビの番組内で、川崎市の児童殺傷事件の容疑者について「不良品」などと発言して批判を浴びたこと。国際政治学者の三浦氏については、著書で徴兵制導入を論じたり、民放番組で「スリーパーセル(潜伏中の工作員)」という言葉を使って、「今結構大阪は(北朝鮮工作員が活動していて)やばいと言われて」などと発言したとされています。(スリーパーセルは、3パセールparcel なのかと思ったら、スリーパーsleeper・セルcellだったんですね。駄目ですねえ=笑)

 度々、舌禍事件を起こしているお笑いタレントの松本氏は、ソフトバンク携帯のCMなどにも大々的に出演していますが、ソフトバンクに対するボイコットが聞かれないことから、恐らく、標的になった中心人物は三浦氏だと思われます。

 彼女は、若くて容姿端麗で頭が良く、髪の毛も長く、弁も立つことから、メディアに引っ張りだこで、東京のM氏を含めて特に中高年のインテリおじさんたちからの受けがいいという評判を聞いたことがあります。中高年のインテリと言えば、テレビのディレクターやプロデューサーも入りますからね。彼女は、著書やテレビなどで自身の少女時代の「悲惨な体験」を告白して大いに同情を買っているという話も聞いたことがあります。(関心がない割には、よく知っていること!)

 でも、彼女の思想信条はかなり過激で、テレビ番組で「戦争したくないならお年寄りと女性に徴兵制を導入すべき」と発言して大きなテロップになっている画面をネットで発見して、思わずのけぞってしまいました。これでは、中高年の瑠璃ちゃんファンも目が覚めてしまいますね。三浦氏は1980年生まれということですから、両親は「戦争を知らない子供たち」である団塊の世代なので「戦争を知らない子供たちの子供」です。

 8月15日の終戦記念日を前後して、国内では戦争もののテレビ番組が多く放送されますが、私も結構見て、色々と考えさせられました。例えば、ノモンハン事件を起こした関東軍参謀の辻政信(陸軍少佐)、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将…。彼らは、陸士、陸大を卒業した超エリートで、ずば抜けて頭脳明晰のインテリです。最高学府の東京帝大生より賢かったことでしょう。でも、彼らは血の雨が降り、内臓がもがれた戦死者も見ることなく、安全地帯の作戦室で図面を引いたりしている軍人というより高級公務員なので、現場の苦しみや悲惨さを知りませんでした。もしくは、見て見ぬふりをしました。

 NHK映像の世紀「独裁者 3人の狂気」では、イタリアのファシスト党を率いてヒトラーにも多大な影響を与えたムッソリーニは、師範学校を首席で卒業し、英語、ドイツ語など数カ国語を自由に操る超インテリだったと紹介されていました。そう、先の大戦の指導者は全て聡明なインテリですが、学業成績の良い点数主義に勝ち残った賢いインテリこそが、結果的に国家を誤らせたわけです。記憶力抜群の頭の良い人間が、天衣無縫で理論的にすべて正しく、指導力があるという考えは偏見であって、結果的に頭の良い人間が、自己責任を放棄し、多くの民衆を犠牲にして国を亡ぼしていたのです。

 三浦瑠璃氏を見てても、容姿端麗の美しさを隠れ蓑にして、現場の悲惨さを知ろうとしない点数主義で勝ち残ったインテリの傲慢さを垣間見てしまいます。彼女は自分だけは「特別」だと思っているでしょうから、自ら徴兵制を敷いても、自分だけは一兵卒として最前線には行くことはないでしょう。

平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

◇◇◇

昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。