本土決戦は弥生時代の戦だったのでは?=「天皇と東大」第3巻「特攻と玉砕」

Washington DC Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日は、道端で怪しげなマスクを3300円(50枚入り)で買ったことを書きました(しかも2箱。1箱は村民4号にあげました)が、ネットではどれくらいで売っているのか今朝、調べたら、何と、「大幅値下げ」と称して1339円(51枚入り)で売っていたのです。つい、先日までネットでは4000円とか5000円とかしたのに、ナンタルチーヤです。良心的な中国政府の「マスク外交」が功を奏したのでしょうか、なんて喜んでいる場合じゃありませんよね。商売は、需要と供給の世界ですから、生産ラインが復活した中国製品のマスクが余剰になれば、当然、価格は暴落していくことでしょう。もう、道端で3300円で買う馬鹿いませんよ。あ、ワイのことやないけ!

 さて、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)第3巻「特攻と玉砕」をやっと読了しました。単行本化は2005年12月、文庫本化は2013年1月ですが、初出の雑誌連載は、2002年10月号から2004年3月号となってます。ですから、18年近くも昔に発表された作品を何で今さら取り上げるのか、と糾弾されそうですが、読んでなかったから仕方ありません。その理由については、この本を最初に取り上げた時に書きましたので、茲では繰り返しません。それでも、今読んでも古びていないし、未来永劫、この本だけは読み継がれていってほしいと思っています。必読書です。

 第3巻の前半の主役は狂信的な国粋主義者の蓑田胸喜でしたが、後半は、「皇国史観」を広め、特攻と玉砕を煽動した東京帝大国史科教授の平泉澄(きよし)でした。この方は、正直言ってよく知らなかったのですが、とてつもない人でした。教科書に特筆大書して、生徒に教えなきゃ駄目ですよ。平泉教授は、帝国陸海軍の幹部将校らにも絶大なる影響を与えた学者で、2・26事件などのクーデタに関与せずとも決行する理論的支柱となり(平泉は、昭和天皇の弟君である秩父宮の御進講係を務めて親しかったため、事件の黒幕と目されていた)、また、楠木正成や吉田松蔭に代表される忠君愛国の精神主義を戦場の兵士たちに感化した人(元寇を持ち出すくらいのアナクロニズム!)で、さらには近衛文麿首相らの演説原稿を書いた人でもありました。著者の立花氏は「何よりも私が不思議に思うのは、平泉があれほど特攻と玉砕を煽りに煽って、多くの若者を死に追いやったというのに、本人はそのことに何の責任も感じていなかったらしいことである」とまで書いています。

 終戦直後の昭和20年8月17日の教授会で、平泉は辞表を提出して東大を去り、福井県の実家に引き籠ります。この態度に潔さやあっぱれさを感じる人もいましたが、実は、その福井の実家とは、一般には平泉寺(神仏習合のため)と呼ばれている白山神社(伊弉冉尊を祀り、本地が十一面観音)で、これはかつては「大社」と呼ばれていたほど格式が高く、歴史と由緒がある桁違いに壮大な神社で、平泉家は代々そこの神職を務めていたのです。

 開社は、養老元年(717年)といいますから奈良時代。中世期、朝倉氏から寺領9万石を拝領され、境内には48社、36堂があり、僧兵だけでも7000人も抱えていたといいます。明治維新以降は廃仏毀釈で寺領は没収されたりしましたが、それでも、終戦後の農地改革等でさらなる没収を経ても4万5000坪もの広大な敷地があるといいます。平泉澄はそこの神主ですから、生活は裕福であり、なおも執筆活動を続け、最後まで思想信条と言動は変わらず、昭和59年に89歳の生涯を終えました。つい最近の現代人だったんですよ。

 他にまだまだ書きたいことが沢山あるのですが、あと一つだけ書きます。太平洋戦争末期の昭和20年6月10日、義勇兵役法案が貴衆両院で通過し、日本国民全員(男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで)が義勇兵役に服して、本土決戦の際には武器を取ることになりました。法案を通過させたときの内閣の首相は鈴木貫太郎、書記官長(今の官房長官)は迫水久常でした。この迫水が戦後に書いた「機関銃下の首相官邸」(恒文社)の中で、国民義勇兵隊の問題を話し合った閣議の後、陸軍の係官から、「国民義勇兵が使用する兵器を別室で展示しているからみてほしい」ということで、鈴木首相を先頭に閣僚が見に行ったことを明かしています。

 そしたら、そこに並べてあったのは、手榴弾はよしとして、銃は単発で、まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押し込んで、その上に弾丸を押し込んで射撃するものだったといいます。正規の軍隊の兵士でさえ、「三八式歩兵銃」といって、明治38年の日露戦争で使われた銃を第2次世界大戦で使っていた話を聞いたことがありますが、それ以上の驚きです。私なんか、思わず「火縄銃か!」と突っ込みたくなりました。種子島に伝来した火縄銃とほとんど変わらない武器で、明治の三八式より遥かに古い「室町時代か!」とまた突っ込みたくなりました。ここまでは、大笑いでしたが、迫水ら閣僚が見たこのほかの義勇兵の兵器として、弓矢があったといいます。相手の米兵は装甲車や戦車に乗って、マシンガンやら火焔銃やらバズーカ砲やらでやって来るんですよ。それを弓矢で立ち向かうとは、これでは弥生時代じゃありませんか!大笑いして突っ込もうとしたら、逆に涙が出てきて、泣き笑いになりました。

 軍部は、「平泉史観」の影響で、「1億総玉砕」を真剣に考えていたことでしょう(あわよくば自分たちだけは生き残って)。近代戦なのに、国民全員を強制的に徴兵して、弓矢で戦えとは、あまりにも不条理で、時代錯誤が甚だしく、無計画で、無責任過ぎます。国民に死ねと言っているようなものです。そもそも、陸士、海兵のエリートと政権中枢の特権階級らは、米国との国力の莫大な違いを知っていたわけですから、最初から負け戦になることは分かっていたはず。それなのに、何万人の兵士を犠牲にしておきながら、少しも反省することなく、責任を部下に押し付けて、戦後ものうのうと生き残り、天寿を全うした将軍もいました。

 泣き笑いから、今度は怒りに変わってきました。