初めてのタコス=そして、老舗の料亭は何処か?

 このブログはあまりにも複雑怪奇で、テーマに一貫性がなく、話題も縦横無尽に複層しておりますから、読者の皆様方も付いていくのが大変のことと存じます。

 案の定、昨日は数十人の方が脱落されたようです。アクセス数を見れば分かります。痛恨の極みで御座いまする(苦笑)。

 さて、先日、仙台伊達藩の江戸上屋敷跡を視察のため、東京・汐留の日本テレビ本社を訪れた話を書きましたが、そのビルの(恐らく)1階にメキシコ料理のタコスを売っている「TACO BELLタコベル」があったので、再度、行ってみました。

 勿論、ランチするためです。これまた以前にこのブログに書きましたが、世界各国の料理を食べて、コロナ禍で実際に行けない海外旅行を模擬体験しようと、銀座で、色んな国の料理を食べ歩きをしました。その中で、メキシコ料理にも挑戦したのですが、生憎、私が訪れた数日前にその店は閉店してしまっていたのです。

 「捕らぬ狸の皮算用」とはよく言ったもので、逃したものは気になります。「いつかはタコスなるものを食べてみたいものだ」と、腰を低くしてそのチャンスを狙っていたのでした(大袈裟な!)。

(ダブル)タコスセット 900円

 そして、本日、ついに、タコスなるものを食しました。私の記憶が確かなら、生まれて初めて食べました。

 まあ、こんなものか、といった程度の感想ですが(笑)。

 野菜やひき肉を包んだ皮が、カレーに付くナンのように柔らかいものかと思っていたら、パリパリとはいかなくても、少し硬めでした。まあ、ファストフードといった感じで、対費用効果としてはギリギリかな、といった感じでした。

 さて、またまた皆様には驚かれるかと存じますが、この年になって、いまだに何冊かの本を同時進行で読んでいます。渓流斎は勉強家です。と、誰も言ってくれないので、厚かましく自分で言っているだけで、その実力と内容は全く伴っておりません!

 その一つが、阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)です。3080円と、私としてはかなり高価な本でしたが、書評で評判でしたので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ってしまいました。

 で、大変失礼とは存じますが、正直申して、最初は、著者の文体に付いていけませんでした。私のブログのように(笑)、急に著者の個人的な友人が出てきたり、まるで、週刊誌のグラビア記事を読んでいる感じでした。と、思ったら、著者は、もともと週刊誌のライターさんだったんですね。失礼ながら、好嫌の反応が如実に出る文体です。

 でも、読み進めていくうちに慣れていき、内容も俄然面白くなっていきます。不勉強な私ですから、知らないことばかり出てきます。(そう来なくては!)例えば、和食。「貴族が完成させた儀式的な大饗料理に、僧侶らの高度な調理技術に基づく精進料理を組み合わせたもの」などと色んな定義がありますが、以下のような変遷があることを教えてくれました。

(1)本膳料理=中国や朝鮮半島の影響のもとに生まれ、平安時代に確立。切り方の工夫には日本の独自性あり。

(2)精進料理=平安末期から鎌倉初期にかけて、宋から帰国した僧侶が持ち帰った技術をもとにした魚肉を使わない料理。

(3)懐石料理=本膳料理を発展させた少人数の茶会の席で出された料理。千利休が完成。

(4)会席料理=江戸時代、懐石料理から茶道の要素を抜き、お茶の代わりに酒を料理とともに楽しむものとして登場。

 そして、日本で最初の料亭と言われるのが、元禄年間(1688~1704年)に営業を始めた大坂・四天王寺の「浮瀬(うかむせ)」なんだそうです。松尾芭蕉、司馬江漢、曲亭馬琴ら多くの文化人も訪れたとか。

 江戸は、私も何かの本で読み、聞いたことがある浅草の「八百善」は、享和年間(1801~1804年)に創業。画家の酒井抱一、谷文晁、葛飾北斎、渡辺崋山ら一流の文化人も集まる場所でもあったらしい。幕末、ペリーが来航し、日米和親条約の宴席で出された料理も八百善だったといいます。もっとも、ペリーの口には合わなかったらしい。

 京都と言えば、一番の老舗は、私も、京洛先生のお導きで、中には入らず、長い長い土塀の軒先だけを覗いただけですが、南禅寺門前の「瓢亭」かと思いましたら、高橋嘉兵衛が懐石料理を出し始めたのが天保8年(1837年)と意外と新しい。もっとも、「瓢亭」は、腰かけ茶屋として南禅寺前で始めたのが、今から400年前という長い長い歴史があります。

 京都に現存する老舗料理店は、丸太町の「柿傳」(1721年)、四条大橋近くの「ちもと」(1718年)、袋町の「はり清」(明和年間=1764~1772年)などがあります。

 皆様も是非、訪れて、その感想をお聞かせください。宜しく御頼み申し上げます。

新ばし料亭街を歩く=「京都 瓢亭 銀座本店」でランチ

◇6.9億人が飢餓に苦しむ 

 国連食糧農業機関(FAO)などが昨年8月に発表した統計によりますと、現在、世界人口の8.9%に当たる6億9000万人が飢餓に苦しんでいるといいます。

 先日は、ミャンマーで軍事クーデターが起きましたし、同国のロヒンギャ族もいまだに虐げられています。中東では、シリアでもイエメンでも内戦が続いて収束の兆しが見られず、コロナ禍でも、アフリカ難民の人々がいまだに地中海を彷徨っています。

 それなのに、お前は気楽に銀座でランチなんかして、しかもブログにその写真なんぞまで上げたりしている。そんなんでいいのか!との天の声が聞こえてきます。

 「いえ、私自身も、あまり気が進まないんですが、グルメ関係は反応が多いもので…」と弁解しようものなら、「堕落したプチブルめえ。どうせ、ブログのアクセス数と広告クリックで、稼ぎたいんだろ?地獄に行きやがれ!」との非難の声が聞こえてきます。

 我ながら、あに、やってんでしょうかねえ? 気が引けます。

 とは言いながら、

 不届きにも、今日も今日とて、銀座ランチのお話です。

 本日行ったのは、「京都 瓢嘻 銀座本店」です。敷居が高く、ちょっと入りにくい高級懐石料理店です。チェーン展開されているようで、系列店かどうか分かりませんが、「瓢嘻 赤坂店」の方は、前の首相の安倍さんが贔屓にしていたお店で、「首相動静」を見ると、ちょくちょく、この店の名前が出てきたものです。

◇高級料亭街を闊歩する

 実は、この「瓢嘻 銀座本店」の周囲(東銀座、新橋、築地)は、いつぞやこのブログで書いたことがありますが、著名高級料亭街でもあります。「吉兆」(東京吉兆本店)、「松山」、「金田中」(新橋演舞場)、「米村」、「小すが」、「花蝶」(1968年の「日通事件」の舞台)、そしてほんの少し離れてますが、「新喜楽」(芥川・直木賞選考委員会開催会場)…。

 いずれも、皆様、一度は行かれたことがあることでしょうから、御説明はいらないことでしょう。もし、行かれたことがない方がいらっしゃったらいけないので、「東京新橋組合」のサイトのリンクを貼っておきます。

「京都 瓢亭 銀座本店」のランチ「鯛胡麻タレ丼」 1320円

 それで、「瓢嘻 銀座本店」の話でしたが、この店の前にメニューと値段も展示しているので、怖れることはないのです(笑)。特に昼間のランチは。

 完全個室で、他に誰もいない「孤独のグルメ」なので、新型コロナに感染するリスクは、至って少ないと思われます。最近、剃髪して出家された釈正道師におかれましては、近くの歌舞伎座での歌舞伎鑑賞のお帰りがてらにお薦めです。釈正道師は、このブログの本文は読まず、専ら料理の写真ばかり見ているという噂ですが。

 ◇「料亭政治」復活を

 かつては、この料亭街では「料亭政治」が蔓延り、店の前は、黒塗りのハイヤーや社用車が列をなして並んでいたものです。しかし、世知辛い世の中になってしまい、めっきり減ってしまいました。道理で、人間が小粒になり、小さくなったものです。

 先ほど、料亭「花蝶」にリンクを貼っておきましたが、ここは、昭和の疑獄事件の一つである「日通事件」で舞台になったところでした。

 悪徳検事や政治家や大物財界人を自称するなら、料亭に行って、どんちゃん騒ぎをして、「ムフフフ、おぬしも悪やのお~」とやらなければ駄目ですよ。日本の経済発展のためにも、です。

 あれ? 皮肉に聞こえましたか? 貴方も随分、性格が擦れてきましたねえ(笑)。コロナの影響ですか?

桁違いの関西、桁違いの京都人

京都・伏見稲荷大社

いまだに「京都大旅行」の余韻に浸っております。とはいえ、行った所ではなく、行けなかった京都の「佐阿彌(さあみ)」や「瓢亭」や「つる家」などです(笑)。

何?知らないとな?

奈良・元興寺(本文とあってないじゃん)

京洛先生は、京都御所近くの邸宅で産湯をつかい、御幼少の砌の遊び場は京都御所でした。そこで蝉を取ったり、鳥獣戯画の如く、蛙や兎と相撲を取ったりして遊びました。代々の墓所はあの建仁寺という名家で素封家です。嗚呼、それなのに、それなのに…。

実は「佐阿彌」は、昨晩、「神谷町のおじさん」(といえば、歌舞伎通なら誰でもが御存知です)が案内役を務めるテレビ番組「京都探訪」で紹介された円山公園の敷地1000坪を有する老舗料亭のことでした。

円山公園の円山とは、慈円山安養寺から取られたもので、安養寺は吉水坊とも称します。天台宗の開祖最澄が創建。浄土宗の開祖法然がここを本拠に30数年間も称名念仏を宣揚した寺としても知られています。と、今、書きましたが、行ったことはありません(笑)。以前に、この吉水坊を舞台にした寺内大吉著「念仏ひじり三国志」を読んで感動したので、行きたかったですねえ。

京洛先生に電話で、「東山の高級料亭…あれ、何でしたかね?」と伺うと、直ぐに「あ、佐阿彌ね」と答えが返ってくるではありませんか。なあんだ、超有名だったんですね。

もう5~6年前になりますか、京洛先生には岡崎や南禅寺辺りにある高級料亭や別荘(の前)に連れて行ってもらったことがあります。(そのことは当時ブログに書きましたが、消滅してしまいました)この中で、最も有名なのが、明治の元勲山縣有朋の別荘「無燐庵」でしょう。七代目小川治兵衛の作庭です。(生憎、その時は休園でしたが)

南禅寺近くの高級料亭「瓢亭」の延々と続く土塀を見ただけで、規模の大きさに卒倒しそうでした。(ですから、中に入りませんでした=笑)

この辺りは、時の最高権力者や大財閥の別邸や博物館などがあります。住友財閥の「泉屋博古館(せんおくはくこかん)」は青銅器の世界的なコレクションとして知られ、圧巻でした。

私のような庶民は、京都といえば、四条河原町や先斗町辺りの狭くて雑踏としたイメージがありましたが、そんな所は、やはり庶民の街でした。富裕層は岡崎辺りの閑静な広大な敷地に別荘を構えているのです。別世界ですよ。野村財閥などの別荘もありましたが、最近では、ニトリの似鳥さんやソフトバンクの孫さんといった「新興産業」さんが、ここまで進出されているようです。嘘か誠か、100億円はくだらないとも言われてます。

御影の延々と続く村山邸宅の土塀

東京には、田園調布や松涛、成城、白金といった高級住宅街がありますが、関西は桁違いですね。まず、都内には岡崎のような高級別荘地はないし、京都の別荘は日本一でしょう。それに、朝日新聞創業者の村山家の御影の本宅を周囲から拝見させて頂きましたが、東京では見たこともないほどの広さです。東京ドーム1個が軽く入ってしまう広大な敷地でした。

◇◇◇

ここからやっと本題に入りますが(笑)、京都滞在中は、京都が生んだ立身出世の偉人、日本電産創業者の永守重信会長の話題で持ちきりでした。永守会長は、つい先日の27日に御自身の出身地である京都府向日市に約32億円の私財を投じで市民会館を建設し、市に寄付すると発表したばかりです。

オッケー、グーグル!

教育にも力を入れ、今年3月には京都学園大学の理事長に就任しました。私財100億円を投じたと言われております。

その前に昨年11月には、京都府立医科大学に「永守記念最先端がん治療研究センター」(総工費70億円)の形で寄付しております。

いやあ、凄い人ですね。

永守会長は、「すぐやる」「必ずやる」「できるまでやる」をモットーに365日働きまくり、休日は元旦の午前中だけ、という逸話は有名です。今や、日本電産は世界最大のモーター会社となり、永守会長の総資産は3890億円とも言われてます。

やはり、関西は、財界人も桁違いです。

京都駅南口「殿田」のお稲荷寿司