山本信太郎著「東京アンダーナイト」

 小樽

東京・赤坂の一等地にあった高級クラブ「ニューラテンクォーター」(1959-1989年)の社長だった山本信太郎さんの書いた「東京アンダーナイト」(廣済堂出版)は、昭和史を語る上で超一級の資料になること間違いなしです。登場する人物がこれまた桁違い。超大物芸能人、広域暴力団の組長、マフィア、政治家、財界人、右翼の立役者、スポーツ選手…。山本元社長の交際の無限の広大さを物語っています。

第一章で、いきなり、1963年12月8日(日)に起きた「力道山刺殺事件」の真相を暴露しています。事件は、まさしくこのクラブで起き、山本さんの目の前で起きたのですが、緘口令が引かれ、44年間、真相は藪の中でしたが、山本さんは、この本で初めて、真相を明らかにしたのです。この本の発売された今年二月、週刊誌でも取り上げられたので、大きな話題になりましたが、実際読んでみて、本当に詳しく分かりました。以下、備忘録としてメモ書きします。(敬称略)

 

●力道山(1924-63年)、本名金信洛(キムシンラク)、戸籍名百田光浩(ももだ・みつひろ)は、ニューラテンクォーター内のトイレ付近のホールで、住吉連合(現住吉会)小林会の組員、村田勝志(1939-)=現在、住吉会副会長補佐、住吉一家小林組特別相談役=とすれ違いざまに口論となり、刺された。当時、赤坂の縄張り争いから、力道山のバックにいた東声会(町井久之=本名鄭建永チョンゴンヨン=会長)と住吉連合との抗争で、東声会の最高顧問だった力道山が計画的に暗殺された、という報道がされたが、真相は、酒に酔った力道山が、村田が足を踏んだ、と言いがかりをつけて、突き飛ばした。殺されると思った村田が持っていたナイフで無我夢中で力道山を刺したという全く偶然の出来事だったという。確かにニューラテンクォーターでは、住吉連合小林会の小林楠扶会長(日本最大の右翼団体、日本青年社会長)が顧問を務めていたが、村田は殺意を否定。力道山は事件から1週間後の12月15日に、穿孔性化膿性腹膜炎で死亡した。享年39歳。

 

(補記)この力道山刺殺事件を同時代の事件として知っている人は、もう50歳を過ぎているでしょう。力道山はニューラテンクォーターに入店する前に大相撲協会の幹部と「ハワイ・ロス巡業」の相談を受け、自宅でウイスキーを飲み、その後、赤坂の料亭「千代新」でかなり飲んだという。午後9時近く、朝丘雪路のTBSラジオ番組にゲスト出演したが、泥酔状態で、録音は放送されなかった。その足で、「コパカバーナ」に行く予定を急遽変更してニューラテンクォーターに行った。このクラブに同席した人たちの中の一人にスポニチ記者の寺田さんがいた。もう27年前に私が寺田記者から直接聞いた話だと、刺された力道山は、お腹を押さえながら自分の席に戻ってきて、ステージに上がり「この店は殺し屋を雇っています」とマイクで発言したと言っていたが、本書でもその話が出てくる。寺田さんは、「力道山はちゃんと医師の言うことを聞いて安静にしていれば、命は助かったと思うが、力道山は、先生の言うことは聞かずに病院でも暴れまわっていた」と話していました。

 

●赤坂にニューラテンクォーターを開店できたのは、吉田彦太郎(別名裕彦、1913-71年)の力が大きい。山本信太郎の父平八郎(1906-90年、福岡のキャバレー王)の従兄に当たり、明大在学中に大日本学生前衛連盟を結成し、右翼活動を開始し、1936年の「2・26事件」による北一輝銃殺に反対して、投獄。41年に「児玉機関」副機関長に就任して、児玉誉士夫(1911-84年)の右腕として活躍した人物。公安・警察関係や政府筋に顔が利いた。この児玉機関の東京責任者が岡村吾一(1908-2000年)。児玉の懐刀として活躍し、戦後は東宝映画顧問として芸能界にも睨みをきかせ、任侠の世界では北星会会長として関東会結成に尽力した。

 

●ニューラテンクォーターの前に同じ敷地(2・26事件の反乱軍将校が立てこもった「幸楽」という料亭があったが、空襲で焼けた)に初代の「ラテンクォーター」(1953-56年)が存在していた。東京に駐留する米軍兵の慰安を目的とした社交場が名目だが、実質は賭博場と同じだった。この店のオープンに児玉誉士夫が「児玉機関」の部長だった岩宮尊を社長として送り込み、東声会を用心棒に派遣した。いまだ日本は、米軍の「占領下」にあったので、共同経営者はアルフォンゾ・シャタックとテッド・ルーイン。シャタックは、ジャック・キャノン少佐をリーダーとする「Z機関」(通称キャノン機関)の元諜報部員。ルーインは、アル・カポネとも親交があったといわれる元マフィアでマニラなどで手広くカジノを経営し、戦時中に児玉機関とつながりがあったという人物。

 

●シャタックは、「帝国ホテル・ダイヤモンド盗難事件」の主犯ジョン・マックファーランド(「ゴージャス・マック」のリング名でプロレスラーという触れ込みで来日したが、経歴は全くの偽りで、海兵隊を除隊したただの不良外人だった)から借金の形として、ダイヤモンドをマニラで売り渡した罪で、指名手配され、300万円の「政治献金」で保釈された。

 

●キャノン機関は、1951年に起こした「鹿地亘(かじ・わたる)事件」で、その存在が明らかになり、スパイにあるまじきドジを踏んだキャノンは日本から姿をくらまし、朝鮮戦争後の対北朝鮮諜報活動に従事したという。1981年にテキサスの自宅で自殺。鹿地亘事件とは、キャノン機関がプロレタリア作家の鹿地(本名瀬口貢)を藤沢市鵠沼の自宅付近から拉致監禁し、二重スパイになるように拷問に近い訊問をしたという事件。鹿地の世話をしていた日本人青年の密告で事件が公にされて、鹿地は解放された。この事件は松本清張の「日本の黒い霧」でも取り上げられ「鹿地事件ぐらい未だに真相の分からない事件はない」と書かれている。鹿地は、かつて中国共産党の情報をアメリカのOSS(戦略情報局)に流していたが、その後、ソ連側に寝返ったため、キャノン機関の怒りを買ったのではないかという噂も流れた。

アンダーグラウンドの話 住吉会

その筋というか、アンダーグラウンドの世界が今、喧しいね。

2月5日に指定暴力団住吉会小林会系の杉浦良一幹部が白昼に射殺されたのをきっかけに、都内で発砲事件が相次ぎ、ついには、15日、山口組系国粋会の工藤和義会長が自殺するまで混乱が続いています。

マスコミ情報を総合しますと、国粋会は大正8年に原敬首相(当時)らの肝いりで結成された「大日本國粋会」が源流。関東博徒の老舗組織で、渋谷、六本木、新橋、銀座などを縄張りにしています。昭和30年代に関西の山口組の関東進出に歯止めをかけるための共同戦線「関東二十日会」に参加しましたが、2005年9月に、国粋会の工藤会長が山口組の六代目司忍会長と兄弟盃をかわし、国粋会は二十日会を脱会し、山口組の傘下に入ってしまうのです。

住吉会小林会は、国粋会から六本木の縄張りを借り受けて、ショバ代を納めていましたが、その慣習もあいまいになり、ついに国粋会を傘下に収めた山口組との軋轢が表面化したと言われます。

先頃、発売された『東京アンダーナイト』(廣済堂出版)の著者は、「東洋一のクラブ」と称された赤坂の「ニューラテンクォーター」の元社長山本信太郎氏ですが、それによると、昭和38年12月に同クラブで起きたプロレスの力道山刺殺事件は、計画的なものではなく、「偶然のバッティング」であったことが明らかにされています。(興味のある方は本書を読んでください)

加害者は、住吉連合小林会の村田勝志組員(現住吉会副会長補佐)。ニューラテンクォーターが、赤坂を縄張りにしていた小林会の小林楠扶会長に顧問を依頼していたので、用心棒として同クラブに出入りしていたようです。在日朝鮮人だった力道山の背後には東声会があったといわれ、東声会の町井久之会長(本名鄭建永)は山口組三代目田岡一雄組長を後楯にしていたことから、当時は、両組織の抗争事件のように推測されていましたが、事実は、全くの偶然だったというのです。

東声会は、力道山事件の一ヶ月前の昭和38年11月に、当時、政界の黒幕と言われていた田中清弦暗殺未遂事件を起こします。「田中が、三代目を利用して関東ヤクザを攪乱しようとしている」という風評がたったためと言われます。関東ー関西の抗争は今に始まったわけではないのです。

今の現象だけを見ても、なかなか事件背景は見えてきませんが、こうして20年、30年、いや50年、100年の歴史的スパンで見ていくと、その真相が見えてきます。

今回の国粋会の会長は内部抗争で悩んでいたと言われ、彼の自殺で、再び、何か火種が勃発しそうです。