戦争の抑止力にならなかった新聞社出身の国会議員=佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」

 大阪にお住まいの滝本先生のお薦めで、佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」(創元社、2018年11月10日初版、4950円)を読んでいます。1960年から86年にかけて生まれた「比較的」若い中堅の学者10人が共著でまとめた学術研究書です。かつてはかなり多くのマスコミ出身の国会議員や首相にまで上り詰めた人がいたことが分かります。

 滝本先生が何故、この本を薦めてくださったかというと、先日、大阪市内で、この本の編著者である佐藤卓己・京大教授の講演会を聴いたからでした。会場には、現役時代にブイブイ言わせていた朝日新聞や毎日新聞など大手新聞社のOBの方々も見えていたそうです。

 新聞メディアの歴史を大雑把に、やや乱暴に要約しますと、明治の勃興期は、薩長を中心にした藩閥政府に対する批判と独自の政論を展開する大新聞が主流でした。柳河春三の「中外新聞」、福地源一郎の「江湖新聞」、栗本鋤雲の「郵便報知新聞」、成島柳北の「朝野新聞」などです。彼らは全員、幕臣でした。その後、政府による新聞紙条例や讒謗律などで反政府系の大新聞は廃刊に追い込まれ、代わって台頭したのが、大阪朝日新聞や、大阪毎日新聞、読売新聞などの小新聞と呼ばれる大衆紙でした。政論主流が薄れたとはいえ、新聞社出身の国会議員を多く輩出します。まるで新聞記者が国会議員の登竜門の様相ですが、政治家志望の政治記者が多かったという証左にもなります。

でも、「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社したジャーナリストの長谷川如是閑は「大正八年版新聞総覧」で、以下のような面白いことを書いています。

 …新聞記者は、主観的生活に於いては、同時に政治家であり、思索家であり、改革家であり、学者であり、文士であり得るが、客観的生活に於いては、ただのプロレタリアに毛が生えたものであり得るのみである。…

 大手新聞出身のOBの皆さんは、新聞社出身の議員の活躍を聴きたいがために、佐藤卓己教授の講演会に参加したようでしたが、見事に裏切られることになります。

佐藤教授によると、満洲事変から2・26事件などを経て、日本が軍国主義化していく昭和12年(1937年)、マスコミ出身の国会議員が占める割合は、実に34%の高率だったそうですが、その直後に支那事変(日中戦争)が起こり、皮肉にも、マスコミ出身議員は、何ら戦争の抑止にもならなかった、というのです。


 この本の巻末には、「メディア関連議員一覧」が資料として掲載されているので、これだけ読んでも、興味がそそられます。

 例えば、現首相の父君に当たる安倍晋太郎は、毎日新聞政治部記者だったことはよく知られていますが、二番目に登録されています。全部で984人も掲載されているので、キリがないので、首相まで経験した有名人を取り上げると、まずは5.15事件で暗殺された犬養毅が挙げられます。岡山出身の犬養は、慶應義塾の学生の時、郵便報知新聞の主筆藤田茂吉の食客となり、明治10年の西南戦争の際には、「戦地探偵人」となり、「戦地直報」を報知新聞に連載するなどして記者生活をスタートしています。

 平民宰相として有名な盛岡藩出身の原敬は明治12年、フランス語翻訳係として栗本鋤雲の推薦で郵便報知新聞社に入社しています。「憲政の神様」尾崎行雄も、慶應義塾で学び、新潟新聞や郵便報知新聞などで記者としての経歴があります。

 明治14年の政変で大隈重信とともに下野して、立憲改進党を結成した矢野文雄は、郵便報知新聞の社長や大阪毎日新聞の副社長などを務めています。この本では、佐藤教授は、矢野文雄としか書いていませんでしたが、政治小説「経国美談」の作者矢野龍渓(雅号)のことでした。日清戦争の前後に、清国特命全権公使を務めています。

 佐藤教授は、このほかメディア関連の首相として、郵便報知新聞を買収して実質上の社主だった大隈重信、東洋自由新聞の社主だった西園寺公望、東京日日新聞で外国新聞を翻訳して収入を得ていた高橋是清、東京日日新聞の第4代社長を務めた加藤高明、戦後では、産経新聞記者だった森喜朗や朝日新聞記者を務めた細川護熙らを挙げていました。

 また、最近のメディア関連の国会議員の中の自民党系として、大島理森(毎日新聞広告局)、額賀福志郎(産経記者)、松島みどり(朝日記者)、茂木敏充(読売政治部)、竹下亘(NHK記者)、鈴木貴子(NHK)、小渕優子(TBS)らを挙げていて、私も知らなかったことも多々あり、これまた興味深かったでした。

 この本は、まだ読み始めたばかりなので、また取り上げるかもしれません。

(同書に合わせて敬称を略しました)

「編集者 国木田独歩の時代」は本当に面白い

公開日時: 2008年4月11日

黒岩比佐子著「編集者 国木田独歩の時代」(角川選書)は、タイトルはダサい(失礼!)のですが、実に実に面白い。もう二週間もダラダラと読んでいますが、それは、あまりにも面白くて、読了したくないからなんです。下手な推理小説を読むより、ずっと、面白い。「え?そうだったの?」といった意外な事実が次々と明かされ、著者の力量には本当に感心してしまいます。

 

国木田独歩といえば、個人的には随分小さい頃から馴染みの作家でした。10歳くらいの頃、誕生日プレゼントか何かで親が、確かポプラ社が出ていた「武蔵野を」買ってくれたのです。でも、親は私のことを神童と思ったんですかね。いくら文学史に残る名文とはいえ、如何せん10歳の頭ではとても理解できませんでした。

 

それでも、その本の中にあった「牛肉と馬鈴薯」や「源叔父」「忘れえぬ人々」「画の悲しみ」などを何回も愛読したものです。実は、私のプロフィールにある「非凡なる凡人」は彼の作品のタイトルです。

 

ですから、国木田独歩については、彼はもともと新聞記者で、日清戦争の従軍記者だったことや、今も残る「婦人画報」の名編集長だったということぐらいは知っていました。

でも、この本を読むと実によく調べていますね。著者の黒岩さんは、「古本収集」が趣味らしく、これまでの学者や研究者が発表したことがない本当に驚きべき事実を、執拗な探偵の目になって調べ上げてしまうのです。本当に感服してしまいました。独歩は、小説家として食べていけず、むしろジャーナリストとして生計を立てていたという話も初めて知りました。

 

まず、自然主義作家の田山花袋や民俗学者の柳田国男とは大の親友だったことは知りませんでしたね。先輩の徳富蘇峰からは「国民之友」に招聘されて新聞記者となり、「経国美談」で知られる矢野龍渓からは彼が社長を務める出版社の編集長に採用されます。出版社はその後「独歩社」として独立し、最後は経営難で破綻しますが、最後まで独歩を見捨てずに残った編集者に、後に歌人として名をなす窪田空穂がいます。画家の小杉未醒がいます。独歩亡き後、「婦人画報」などの発行を受け継いだのは鷹見思水ですが、彼の曽祖父は、何と鷹見泉石だったのです。幕末の洋学者。渡辺崋山が描いた「鷹見泉石像」は国宝になっていますね。

意外にも22歳の若き永井荷風は、当時鎌倉に住んでいた独歩に会いに行っているんですね。

独歩の最初の妻の佐々木信子の従姉が相馬黒光(本名良)で、夫の愛蔵とともに新宿中村屋を創業した人です。多くの芸術家を支援し、亡命中のインド人革命家ラス・ビハリ・ボースを匿ったことでも有名です。そして、有島武郎の名作「或る女」のヒロイン葉子は何と、この信子がモデルだったのです!

こんな話は序の口です。独歩はわずか37年の生涯でしたが、これほど多くの友人知人に恵まれていたとは知りませんでした。

当時の文壇サロンというか、明治の雰囲気が手に取るように分かります。これは本当に面白い本です。