華麗なる大学教授南博=第53回諜報研究会と早稲田大学20世紀メディア研究所第170回研究会との合同開催

 10月28日(土)、早稲田大学で開催された第53回諜報研究会に参加して来ました。早稲田大学20世紀メディア研究所(第170回研究会)との合同開催で、社会心理学者として著名な南博・一橋大学名誉教授(1914~2001年)がテーマでしたので、「あれっ?諜報研究なのかなあ…?」と思いつつ参加しました。後で何故、合同開催になったか分かりましたが。

 それは、諜報研究会を主催するインテリジェンス研究所の理事長を務める山本武利早稲田大学・一橋大学名誉教授の恩師が南博一橋大学教授だったからでした。そのため、今回の研究会の講師として登壇しました。でも、山本氏は、近現代史とメディア論が専門の歴史学者のイメージが強く、社会心理学とは程遠い感じがします。その理由も、山本氏の話を聞いて後で分かりました。

 それは、ちょっと書きにくい話ではありますが、山本武利氏が、一橋大学の南博ゼミの大学院生時代に、文芸評論家でもある谷沢永一・関西大学教授がある雑誌で「南博氏には実証的研究に欠ける」といった厳しく批判する論文が掲載されました。それを読んだ山本氏は、「その通りだなあ」と同意してしまったらしいのです。そのことを耳にした南博教授は、山本氏に対して冷ややかな態度を取るようになったといいます。「世界」「中央公論」「朝日新聞」などマスコミに引っ張りだこで大忙しの南教授には編著書が多くありますが、資料集めなどの「下請け」を大学院生に「仕事」として回すことが多かったのですが、それ以来、山本氏には全く声が掛からなくなったといいます。(ただし、山本氏は最後まで南博が設立した社会心理研究所には出入りしていたそうです。)

 そりゃそうでしょう。アカデミズムの世界はよく知りませんけど、親分が白と言えば、子分は、黒でも、へえー白です、と言わなければならない不条理な世界が組織というものです(苦笑)。教授の業績を否定する言説を肯定してしまっては、教授に反旗を翻すようなものです。それ以降、山本氏は、南教授の「正統な弟子」?ではなくなり、社会心理学とは違った独自の道を歩むことになったと思われます。これは、私が勝手に思っているだけではありますが。

 南博氏は、「進歩的文化人」と言われ、マルクス主義者ではありませんが、やや左翼がかった思想の持ち主だったと言われます。しかし、実生活は、お抱え運転手付きの高級車に乗り、多くの人気女優と浮名を流すなど、ブルジョア階級だったようです。それもそのはず、南博氏の御尊父は、赤坂で南胃腸病院を開業する医師で、癌研究会の理事長を務めるなど権威でした。(南胃腸病院はその後、築地のがん研究センターに)南博氏は真珠湾攻撃直前の1941年に米コーネル大学に留学するなどかなり裕福な家庭に育ったと言えます。妻は劇団青年座の女優東恵美子で、2人は「自由結婚」「別居結婚」とマスコミを賑わしました。

 研究会の前半では、鈴木貴宇・東邦大学准教授が「モダニズム研究から日本人論へ:南博と欧米における日本研究の動向」という演題で講演されました。実は、私は南博の著作は1冊も読んだことがないので、よく理解できなかったことを告白しておきます(苦笑)。南博のモダニズム研究や日本人論や社会心理学に関して、国内では、「(社会心理学の)中味がつまらなければつまらないほど」(見田宗介「近代日本の心情の歴史」)とか、「確かに日本人論のレファレンス・ブックを網羅的に列挙したのは申し分ないのだが、取り上げられた日本人論への著者のコメントがあまり見られない」(濱口恵俊による南博著「日本人論」の書評)などといった南博氏に対する批判が紹介されていましたが、同時に海外では南博の著作に影響を受けた米国人研究者が、2000年代初めに次々と日本のモダニズムに関する書籍(Miriam Silverberg “erotic grotesque nonsense” , Barbara Sato ” The new Japanese Woman” , Jordan Sand “House and home in modern Japan”)を出版していることも列挙しておりました。

 そう言えば、マスコミの寵児的学者だった南博教授の直弟子の一人に、後に作家、政治家になる一橋大生の石原慎太郎がおりました。石原氏の実弟は、言わずと知れた大スターの石原裕次郎です。そんな関係で南教授も芸能界に多くの友人知人を持ったのではないかと思われます。これも、私の勝手な想像ですけど。

 以上、勝手な憶測ばかり書いてしまいましたが、これでも書くのが大変で、かなり時間が掛かってしまいました。

生年月日と運命との関係=五木寛之「孤独を越える生き方」

 ラジオ深夜便の放送を書籍化したものですが、作家の五木寛之「孤独を越える生き方」(NHK出版)を興味深く拝読いたしました。

 ・人生とは苦しみと絶望の連続だと覚悟する。

 ・孤独でいることは、人生を豊かにしてくれるボーナスのようなもの。

 ・孤独とは人間にとって必要な時間。

・「他力」とは努力を尽くした人が最後に行き着く境地。

 …等々、心に染み入る言葉が胸に突き刺さりました。

 90歳になる作家は、いまだに人生を達観したわけではなく、迷いながら一つずつ歩んでいるようにさえ思えました。仏教思想、特に親鸞、蓮如らの浄土真宗の思想に影響を受けた五木氏なので、彼の人生観、死生観は、浄土真宗の思想そのものですが、日本人として生まれると、どういうわけか、無意識に共鳴してしまいます。

 特に「人生とは苦しみと絶望の連続だと覚悟する」なんて、キリスト教やイスラム教では絶対、説いたりしませんからね。

 本文の中で、フィギュアスケートの羽生結弦選手の「努力はウソをつく。でも無駄にならない」という言葉を引用しながら、「『他力』とは努力を尽くした人が最後に行き着く境地と言えるかもしれない」と五木氏は、発言しておりました。これも、仏教思想の「諦念」に通じるところがあります。

 実は、本日は、以上のことをブログに書きたかったわけではありません(笑)。五木氏が「奇しくも石原慎太郎さんと同月同日生まれなんです」と発言したことに吃驚したからでした。二人とも1932年9月30日生まれだったのです。二人は、性格も違えば、趣味も思想も政治信条も全く違いますが、小説家という共通点があります。片や芥川賞、片や直木賞の違いがありますが、これは偶然なのかなあ、と思ってしまったのです。

 よく、「星の下に生まれる」と言いますが、やはり、生まれた生年月日で人の運命が決まるんでしょうか? 四柱推命は、まさに、生年・月・日と生まれた場所の四つの要素で運命を判断しますが、科学的に証明できなくても、何かの法則があって、だから当たるのでしょうか?

 背中がゾクゾクっとしてしまいました。

「青年の樹」のモデルの藤木氏

これでも私は昔、映画に出演したことがあります。長身痩躯で美男子でしたからねえ(笑)。

でも、出演と言っても端役、いや、これも言い過ぎで、台詞もない単なるエキストラを学生時代にアルバイトで何本かやっただけでした。

その中に「青年の樹」という作品がありました。1977年公開の東宝映画(西村潔監督)で、主演は、三浦友和と檀ふみ。後から知ったのですが、原作は石原慎太郎の同名の小説(1959~60年、「週刊明星」連載)で、既に60年に石原裕次郎と北原三枝のコンビで日活で映画化されており、これが二度目でした。

横浜の港を舞台にした作品で、ヤクザ和久組の跡取りとして生まれた主人公が東京の大学に入学し、「苦闘の末、二代目となる青春怒号篇」ということですが、もう40年以上も昔なので、内容はすっかり忘れてしまっております(笑)。学生役でしたから、衣装も私服で、そのまんまでした。

撮影現場は、立教大学だったかなあという程度の記憶ですが、主役の三浦友和さんが学食で食事する場面で、彼が箸を口元に持って行くと「カット」。食べようとすると「カット」。それをアップで撮ったり、少し離れて撮ったり、右から撮ったり、左から撮ったり、そのたんびに、「カット」の連続。「えっ?これで演技できるの?」という感じでした。

溝口健二監督らが映画のことをよく「シャシン」と言ってましたが、本当に映像ではなく、写真を撮っている感じでした。そう言えば、昔は映画のことを活動写真と言ってましたからね。「あー、こうして映画が撮影されているのかあ」と思うのと同時に、「俳優って、あまり面白くないなあ」と生意気に思ってしまい、それ以来、俳優志望をやめてしまいました(笑)。

檀ふみさんは、憧れの女優で、私も大ファンの檀一雄先生のお嬢様ですからね。サインをもらいたかったのですが、彼女は勉強家でいつもロケバスの中で本ばかり読んでいて近づけない雰囲気でした。

気張った私は、単なる主役の背景になる学生なので、目立ってはいけないのに、カメラを見てしまったりして、「おい!そこの! エキストラなんだから、目立っちゃ駄目なんだよ。何やってんだよ!」と助監督に大声で怒られたことを覚えています。それで、エキストラも嫌になって、アルバイトもやめた気がします。

さて、この石原慎太郎著「青年の樹」にはモデルがいました。横浜港運協会会長で、藤木企業会長・横浜エフエム社長の藤木幸夫氏です。少し、毀誉褒貶のある方で、陰では全国的に有名な「横浜のドン」と呼ばれ、地元政財界を仕切っているという噂の持ち主です。これもまた、噂の領域を出ませんが、菅官房長官のパトロンとも言われ、横浜市がカジノを誘致した場合、一番の顔役になる人とも言われています。

その彼の半自叙伝「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社、2004年8月18日初版)を読むように、と名古屋にお住まいの篠田先生が貸してくれました。その本の帯に石原慎太郎氏が「私はかつて、若き日の著者をモデルに『青年の樹』を書いたことがある…」と推薦文を書いていたので、自分も上述したことを思い出したわけです。

藤木氏は、早稲田大学政経学部卒のインテリながら、父親の藤木幸太郎が一代で築き上げた港湾荷役業会社を継いだ二代目です。腕力だけが頼りのかつての荷役業者には「酒と女とバクチ」にはまるヤクザな荒くれ者が多かったのです。それを父親は、自分の腕力と交渉力と良き先輩に恵まれ、カタギだけを育てたことで、全国船内荷役協会の会長まで昇り詰めます。同協会副会長が神戸の田岡一雄甲陽運輸社長だったことから、「田岡のおじさん」とは公私にわたる家族ぐるみの付き合いで、そこから世間の誤解も招いたります。

藤木氏は、中国に何度も何度も渡り、大連港の荷役業務を整備して中国政府から表彰されたり、横浜オランダの名誉領事に選ばれたりする逸話は読み応えがありました。

石原慎太郎という男 「てっぺん野郎」

世界一の鮮魚市場「築地」をダイオキシンだらけの「豊洲」に移転させようとしたり、世論調査によれば、国民の半数以上が反対しているのに、2016年のオリンピックを東京に招致しようとしたりしている東京都知事の石原慎太郎さんほど毀誉褒貶の多い人はいないでしょう。

 

どうでもいいのですが、私は、彼のことはあまり好きではありません。以前、「ババアほど人類に貢献しないものはいない、と高名な科学者が言っていた」と発言して物議を醸しましたが、「フランス語は数も数えられないほど低級な言語だ」と言い放って、フランス語学習者を冒涜したことが許せないからです。

 

自分でも笑ってしまいますが、私如き凡人が「許せない」なんて言っても、向こうは蚊に刺されたほども痛くもかゆくもないだろうし、私のことなぞ、全く眼中にもないので、本当にどうでもいいのですが、かつまた、彼が一介の小説家だけであるなら、彼の作品を読まなければいいだけの話なので、こちらも同じ土俵にのぼることなどしなくていいのですが、相手はこちらの生活までを左右する権力を握った政治家なので、彼が一体何者なのか、気にしないではいられません。

 

石原慎太郎さんに関しては、もう五年前に出た本でちょっと古いのですが、佐野眞一さんの書いた「てっぺん野郎 本人も知らなかった石原慎太郎」(講談社)が本当に面白いですね。

 

特に、慎太郎と戦後映画界の最大のスター裕次郎兄弟の実父石原潔について、調べに調べ尽くして描かれたエピソードは本人以上に面白いです。私自身は月刊「現代」に連載された記事だけ読んでいたのですが、大幅に加筆された単行本は読んでいなかったの、改めて読んでみたらやめられなくなってしまいました。

 

誰もが、慎太郎・裕次郎兄弟の親父ですから、船乗りであることは知られていましたが、旧帝大を出たエリートで海外航路の船長というブルジョア階級だったと考えていたと思います。

 

同書によると、それが違うんですね。潔さんは、確かに日本を代表する海運会社「山下汽船」の幹部にまで出世しますが、四国は愛媛県の警察官の6人きょうだいの三男として生まれ、旧制宇和島中学(現・宇和島東高校)を中退して山下汽船に入社し、「店童」(てんどう)と呼ばれる丁稚奉公からたたきあげで出世した人だったんですね。

 

石原潔という男は豪放磊落な人間で、男気と才覚があり、誰からも愛され信頼され、上司からも目を掛けられて出世した人でした。会社の金を無断で料亭で散在して樺太に左遷させられますが、樺太でまた大活躍します。

樺太は日露戦争で南半分をロシアから割譲され、日本政府が持て余したところを、森林開発に目をつけたのが、三代目樺太庁長官になった平岡定太郎と三井物産木材部長の藤原銀次郎だったのです。平岡は、作家三島由紀夫(本名平岡公威)の祖父。藤原は後に王子製紙社長になる男です。そして、もちろん、樺太の木材を本土に運ぶ利権を一手に引き受けたのが山下汽船の石原潔だったのです。

後に、刎頚の友になった三島と慎太郎は、親や祖父の時代から既につながりがあったのですね。