裕次郎、ひばり…随分若くして亡くなった有名人=光陰矢の如し

 この渓流斎ブログは、「安否確認」にもなっております。しばらく休載すれば、「渓流斎の野郎、とうとういったか」といった話になりかねないので、無理して毎日、更新するようにしています。それでもどうしても空くことがあります。「題材がない」「気力がない」「書くほどの価値がない」といった理由ですので、どうか一つ、その辺は斟酌、もしくは忖度して頂ければ幸甚で御座います(笑)。

 本日の主題は「光陰矢の如し」です。振り返れば、40歳ぐらいまでは時間がゆっくり流れていたと思っていましたが、40歳を過ぎると、あっという間です。いわゆる幾何学級数的速さで時間が飛んでいき、私も本当に、気がついてみたらあっという間にお爺さんになってしまいました。「浦島太郎」の話は実話だったんじゃないかと思うほどです。

 年を取ると、若い時に、随分年長で、お爺さん、お婆さんに思えた有名人の皆さんがかなり若かったことに気がつきます。それに、既に、とっくに彼らの年齢を越えてしまったりしています。

 昭和の大スターだった石原裕次郎は行年52歳、美空ひばりも同じ52歳です。それを言えば、エルヴィス・プレスリーは42歳、ジョン・レノンは暗殺されたとはいえ、40歳の「若さ」です。

 今の若い人は知らないでしょうが、私が中学生ぐらいの頃、往年の女優浪花千栄子は、晩年にオロナミン軟膏のコマーシャルに出ていたお婆ちゃんというイメージがありました。(「浪花千栄子で御座います」)それが亡くなったのは66歳だった、と今では簡単に調べられますから、「えっ~!?」と大袈裟に驚愕しました。今の女性の66歳は若いですからね。「お婆さん」なんて絶対に言わせないでしょう。

 ついでながら、浪花千栄子が、何でオロナイン軟膏のCMに採用されたのか? それは彼女の本名が、「南口(なんこう)キクノ」だったから、というまことしやかな都市伝説を聞いたことがあります(笑)。

大興善寺(佐賀県)

 作家でいえば、文豪の夏目漱石は49歳、自殺したとはいえ、芥川龍之介は35歳、太宰治は38歳、三島由紀夫は45歳。短命とはいえ、彼らは天才ですから、100年、1000年と読み続けられる作品を残しました。

 驚いたのは、私も面識がある、といいますか、取材でお会いしたことがある作曲家の武満徹さんです。当時は随分年配の方に見えましたが、調べ直してみたら亡くなったのが、まだ65歳だったとは!「随分、若くして亡くなられたんだ」と改めて驚きました。同じ作曲家の芥川也寸志も何と63歳、黛敏郎も68歳と古希も迎えずに亡くなっていました。

 私の母校の海城高校のお近くに住んでいたお笑い「てんぷくトリオ」の三波伸介はまだ52歳だったんですね。1982年に亡くなっているので、あれほど一世風靡した有名人でしたが、今の若い人は知らないかもしれません。

 そして、演歌歌手の藤圭子は、亡くなったのは、まだ62歳の若さでしたか。。。若い人は彼女を知らなくても、宇多田ヒカルの実母だと言えば、分かるかもしれません。藤圭子の両親は旅回りの浪曲師、本人は演歌で、娘のヒカルはJーPOPと、まさに絵に描いたような日本の歌謡芸能史の変遷です。「歌は世につれ 世は歌につれ」です。年を取ると、こうして二代、三代に渡って、芸能史を目の当たりにすることが出来、「俺は、音羽屋は先代の六代目から観ているだ」なんて自慢できたりするわけです。

 毎日、元気がない、気力もない日々が続きますが、「年を取るのも悪くない」と思えば、しめたものです。

華麗なる大学教授南博=第53回諜報研究会と早稲田大学20世紀メディア研究所第170回研究会との合同開催

 10月28日(土)、早稲田大学で開催された第53回諜報研究会に参加して来ました。早稲田大学20世紀メディア研究所(第170回研究会)との合同開催で、社会心理学者として著名な南博・一橋大学名誉教授(1914~2001年)がテーマでしたので、「あれっ?諜報研究なのかなあ…?」と思いつつ参加しました。後で何故、合同開催になったか分かりましたが。

 それは、諜報研究会を主催するインテリジェンス研究所の理事長を務める山本武利早稲田大学・一橋大学名誉教授の恩師が南博一橋大学教授だったからでした。そのため、今回の研究会の講師として登壇しました。でも、山本氏は、近現代史とメディア論が専門の歴史学者のイメージが強く、社会心理学とは程遠い感じがします。その理由も、山本氏の話を聞いて後で分かりました。

 それは、ちょっと書きにくい話ではありますが、山本武利氏が、一橋大学の南博ゼミの大学院生時代に、文芸評論家でもある谷沢永一・関西大学教授がある雑誌で「南博氏には実証的研究に欠ける」といった厳しく批判する論文が掲載されました。それを読んだ山本氏は、「その通りだなあ」と同意してしまったらしいのです。そのことを耳にした南博教授は、山本氏に対して冷ややかな態度を取るようになったといいます。「世界」「中央公論」「朝日新聞」などマスコミに引っ張りだこで大忙しの南教授には編著書が多くありますが、資料集めなどの「下請け」を大学院生に「仕事」として回すことが多かったのですが、それ以来、山本氏には全く声が掛からなくなったといいます。(ただし、山本氏は最後まで南博が設立した社会心理研究所には出入りしていたそうです。)

 そりゃそうでしょう。アカデミズムの世界はよく知りませんけど、親分が白と言えば、子分は、黒でも、へえー白です、と言わなければならない不条理な世界が組織というものです(苦笑)。教授の業績を否定する言説を肯定してしまっては、教授に反旗を翻すようなものです。それ以降、山本氏は、南教授の「正統な弟子」?ではなくなり、社会心理学とは違った独自の道を歩むことになったと思われます。これは、私が勝手に思っているだけではありますが。

 南博氏は、「進歩的文化人」と言われ、マルクス主義者ではありませんが、やや左翼がかった思想の持ち主だったと言われます。しかし、実生活は、お抱え運転手付きの高級車に乗り、多くの人気女優と浮名を流すなど、ブルジョア階級だったようです。それもそのはず、南博氏の御尊父は、赤坂で南胃腸病院を開業する医師で、癌研究会の理事長を務めるなど権威でした。(南胃腸病院はその後、築地のがん研究センターに)南博氏は真珠湾攻撃直前の1941年に米コーネル大学に留学するなどかなり裕福な家庭に育ったと言えます。妻は劇団青年座の女優東恵美子で、2人は「自由結婚」「別居結婚」とマスコミを賑わしました。

 研究会の前半では、鈴木貴宇・東邦大学准教授が「モダニズム研究から日本人論へ:南博と欧米における日本研究の動向」という演題で講演されました。実は、私は南博の著作は1冊も読んだことがないので、よく理解できなかったことを告白しておきます(苦笑)。南博のモダニズム研究や日本人論や社会心理学に関して、国内では、「(社会心理学の)中味がつまらなければつまらないほど」(見田宗介「近代日本の心情の歴史」)とか、「確かに日本人論のレファレンス・ブックを網羅的に列挙したのは申し分ないのだが、取り上げられた日本人論への著者のコメントがあまり見られない」(濱口恵俊による南博著「日本人論」の書評)などといった南博氏に対する批判が紹介されていましたが、同時に海外では南博の著作に影響を受けた米国人研究者が、2000年代初めに次々と日本のモダニズムに関する書籍(Miriam Silverberg “erotic grotesque nonsense” , Barbara Sato ” The new Japanese Woman” , Jordan Sand “House and home in modern Japan”)を出版していることも列挙しておりました。

 そう言えば、マスコミの寵児的学者だった南博教授の直弟子の一人に、後に作家、政治家になる一橋大生の石原慎太郎がおりました。石原氏の実弟は、言わずと知れた大スターの石原裕次郎です。そんな関係で南教授も芸能界に多くの友人知人を持ったのではないかと思われます。これも、私の勝手な想像ですけど。

 以上、勝手な憶測ばかり書いてしまいましたが、これでも書くのが大変で、かなり時間が掛かってしまいました。