三門とは? 禅宗の名僧とは?=「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集

  外国人観光客の受け入れ制限緩和や全国旅行支援とやらで、銀座の街は、今や、お上りさんと外国人が際立って目立つようになりました。

 今朝の東京の気温は大体16度ぐらいでしたが、どうみても還暦を越えていそうな髭をたくわえたコーカサス系の外国人男性が、半袖のTシャツ一枚という真夏のような恰好で、ニコニコしていたので吃驚しました。こっちは、寒くて、中にベストまで着込んでいましたからね。

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 さて、「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集を読了しました。この手のムックは、判型がA4判に近い大きさなので、電車の中で読むにはちょっと勇気がいります。電車の中で大きな本を広げて読んでいる人は、まず見たことがありません。いるとしたら私ぐらいなものです(笑)。でも、私も分別が付き過ぎたので、家の中で静かに読むことにしたら、結構読むのに時間が掛かってしまいました。

 仏像の見方や、古寺巡礼に関する本はこれまで結構読んできましたが、やはり、奥が深いんですね。このムックで初めて知ることも多かったでした。

 例えば、お寺の本堂に入る前に大抵、三門(山門)がありますが、これは「空」「無相」「無願」の三解脱の象徴だといいます。「空」「無相」「無願」は仏教思想の根幹を成すものですから、もし御存知でなければ御自分で調べられたら良いと思います。

 私自身、自分なりにかなりの古寺名刹をお参りし、基礎的な仏教の知識や宗派や名僧について知っているつもりではありましたが、恥ずかしながら、このムックで私自身、多くのことを教えられました。

 まず、日本で初めて、国産独自の仏教宗派を開いたのは平安末期、法然(1133〜1212年)の浄土宗(1175年)だと思っておりましたが、史実はその半世紀以上前の良忍(1072〜1132年)の融通念佛宗(1124年、総本山=大阪市平野区の大念佛寺)でした。

 名僧については、特に禅宗関係で知らない人が多かったです。(以下、独自に調べたことも敷衍して書いております)

  臨済宗(達磨から6代を経た唐末の宗祖・臨済義玄が開いた)は、鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って開祖となり、京都に建仁寺などを建立したことは知っておりましたが、その後、様々な宗派に分かれて栄西派は衰えていったといいます。その後、室町時代になって、「応燈関」と呼ばれる3人の傑出した禅僧が現れ、復興し、現代までその隆盛がつながっているというのです。

 「応燈関」というのは、大応国師・南浦紹明(なんぽう・じょうみょう=1235~1309年)と大燈国師・宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう=1282~1337年)と無相大師・関山慧玄(かんざん・えげん=1277~1360年)の3人の名僧のことです。

 南浦紹明は、京都の大徳寺を開山した宗峰妙超の師です。その宗峰妙超は、花園上皇から自身の離宮を禅苑にするよう依頼されたのですが、病が重篤で、代わりに高弟の関山慧玄を推薦します。その関山が開山したのが京都の妙心寺です。

 臨済宗は現在15派に分かれており、全国に約6000の寺院がありますが、このうち約3500と半数以上が妙心寺派の寺院が占めるといいます。そして、京都の大本山妙心寺は、臨済宗系では最大規模の寺院だというのです。また、現代の臨済宗は、江戸中期の妙心寺派の白隠慧鶴(はくいん・えかく)の系統に連なるというのです。白隠といば、「禅画家」としてその名を最初に知ってしまったので、「えろうすんまへん」という気持ちです。

 つまり、白隠がいなかったら、今の臨済宗はなかったと言えるかもしれません。いわば中興の祖です。ということは、いくら宗祖や開祖が立派で偉大でも、その後を継ぐ弟子たちが大したことがなければ、その宗派は衰えてしまうということになりますね。

 また、曹洞宗についてですが、道元が中国の宋から持ち帰り宗祖となり、越前に大本山永平寺を開いたことは知っておりましたが、もう一人、大事な名僧がおりました。教団を全国展開した瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん=1268~1325年)です。曹洞宗では道元は「高祖」、瑩山は「太祖」と呼ばれるようです。ですから、曹洞宗の場合、大本山は道元の開いた永平寺のほかに、もう一つ、瑩山が開いた總持寺があるというわけです。總持寺は当初(1321年)、能登(石川県輪島市)に建立されましたが、明治になって横浜市鶴見に移転します。

◇西瓜も蓮根も筍も隠元禅師のお蔭

 明治になって、新政府は廃仏毀釈を断行し、それでも容認した仏教・寺院は「13宗56派」あります。その13宗の中で最後に開宗したのが、江戸初期、1661年の黄檗宗です。こちらも禅宗系で開祖は中国・明から招へいした隠元隆琦(いんげん・りゅうき=1592~1673年)です。大本山萬福寺を京都の宇治に建立します。

 隠元禅師が、インゲン豆を日本にもたらしたことは知っておりましたが、このほかに、スイカやレンコン、タケノコまでもそうだったんですね。また、急須を使った煎茶文化も黄檗宗を通して広まったといいます。

 大変勉強になりました。

禅宗講話を拝聴して

伊太利亜フィレンツェ

昨日は、ご縁が御座いまして、臨済宗妙心寺派の若き住職さまの講話を拝聴して参りました。

私も人間ですからね。悩みは尽きませんから。

諸行無常、解脱、悟り、生老病死といった基本的な仏教用語の解説などは、皆さんの方がよくご存知でしょうから、今日は、私自身が知らなかった、もしくは、興味深かったことを書いてみます。

まず、驚いたのは、今は「小乗仏教」とは言わないんだそうですね。「上座部仏教」とか言うんだそうです。理由は、ポリティカルコレクトらしいのですが、深い理由は分かりません。小乗は差別用語ではないか、とクレームがあったのでしょう。

それでいて、中国や朝鮮、日本に伝わった「大乗仏教」は、今でもそのまま使われているそうなのでよく分かりません。

仏教には、色んな宗派があることはご案内の通りです。

大雑把に言いますと、(1)飛鳥時代「南都六宗」(2)平安時代「天台宗・真言宗」(3)平安末期・鎌倉時代「浄土宗」「禅宗」と分かれるのではないでしょうか。

もともと、権力者、貴族支配者階級の宗教だったものが、時代を経るに従って庶民に普及していきます。

禅宗の代表的な宗派が、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗となりますが、今回知った最も興味深かったことは、禅宗は、それほど(比較的に)経典を重視しないということでした。(勿論、「無門関」「碧眼録」「臨済録」などの仏典はあります)

つまり、日蓮宗などは、特に法華経を重視し、その一字一句を重要視しますが、禅宗は、(誤解を恐れずに言えば)文字よりも実践を重視するということです。

実践とは、ご案内の通り、座禅のことです。そして、公案と呼ばれる禅問答です。

このほか、本来、仏教者は托鉢や布施で生活し、労働はしなかったのを、時代を経たり、外国に渡って考え方が変わって、するようになり、それが作務と呼ばれるものです。これも、実践に入ります。

ですから、禅宗の場合、それほど仏事でお経をあげない。あげるとすれば、般若心経ぐらいだというのです。

同じ仏教でもこれほど違うのかと思わせます。

伊太利亜フィレンツェ

禅宗でも、臨済宗と曹洞宗の違いも面白かったです。

よく和尚さんが、怒ったり、気合を入れたりするとき「喝!」と言いますね。これは、臨済宗から来たそうです。

臨済宗は、厳しくて男性的。一方の曹洞宗は、柔和で女性的。

臨済宗は、厳し過ぎたせいか、あまり全国的に広がらず、柔和な曹洞宗は青森や秋田など東北まで布教が広がったそうです。

なるほどねえ、です。

あと、僧侶の服装で、見慣れていて分からなかったのですが、前にエプロンのように掛けているのが、禅宗では絡子(らくす)と呼ぶそうです。これは、何かと思いましたら、これこそが僧侶を象徴する袈裟なんだそうですね。

お坊さんが着ている黒染めの和服が袈裟かと思って勘違いしてました。

正式の袈裟は、オーバーコートのようなものだったらしいのですが、色々と作業する際にやりにくいので、簡略されてああなったそうです。

ですから、若いお坊さんは、絡子の働きについては、あまりよく知りませんでした。

最後に、京都にお住まいの京洛先生か教わった「妙心寺の○○顔…、建仁寺の○○顔…」がどうしても思い出せませんでした。

宜しゅうたのんます。