密教が少し分かったような…=「縁」と「運」を大事に

 またまたちょっとした偶然に巡り合いました。かつて流行(はや)った言葉を使わせて頂ければ、セレンディピティということになるのでしょうか。

  まず一連の流れからご説明致します。今年3月にランチで新橋の「奈良まほろば館」(奈良県の物産店)に行ったところ、偶然、運慶作の国宝「大日如来坐像」のミニチュアがあり、迷わず購入したことをこのブログで書いたことがあります。

 何故、購入したのかと言いますと、私の「守護仏」が誕生の干支(未・申)で大日如来だということを知り、「いつかお守りとして欲しいなあ」と思っていたのでした。奈良まほろば館で展示されていた坐像には、ただ「大日如来像」と書かれていただけでしたが、御顔立ちが気品に満ち溢れて素晴らしく、価格も手頃でしたので躊躇せず購入しました。後で調べたら、それは、奈良県の円成寺の運慶の20代のデビュー作と言われる大日如来像がモデルだったことを知り、二重の喜びでした。

 さて、毎日拝むことにしましたが、何と唱えたらいいのでしょうか? 浄土系の「南無阿弥陀仏」や法華経の「南無妙法蓮華経」は使えません。大日如来は密教の根本神です。後からまた詳しく書きますが、私は密教に関してはそれほど知識がない、と言いますか、大日如来は阿弥陀仏どころか、仏教を説いた釈迦如来まで「手下」として従えてしまっています(両界曼荼羅)。「密教って、仏教じゃないんじゃないのか?」といういわゆる偏見があったのです(後で少し訂正致します)。

 そこで、密教の勉強を始めることにしました。ちょうど、表紙写真の「密教でひも解く禁断の日本史」(宝島社、2023年5月10日発行となってます)を新聞の広告で見つけたので(最新知識が欲しいので)、早速購入してみました。なるほど、色々と初心者でも分かりやすく基本的なことが書かれています。ただし、文字だけでは分かりづらい点も多々ありました。

 そしたら、偶然にも、会社の同僚が「今、ラジオの聞き逃しサービスで、空海さんの特集をやってますよ」と教えてくれたのです。その番組は、奈良国立博物館の西山厚名誉館員による「NHKカルチャーラジオ 歴史再発見 生誕1250年 空海と日本の密教」というシリーズでした。全13回放送される予定で、5月1日現在、4回分がネット上でアップされています。(スマホのアプリでも聴くことが出来ます)

 講師の西山氏の語り口が絶妙で分かりやすいので実に面白い。あまりにも面白いので、昨晩は、4回分(1回30分間)を一気に聴いてしまいました(笑)。一番驚いたのは、密教というのは、平安時代初期に遣唐使として長安に渡って、恵果から灌頂を受けた空海から日本に初めて齎されたと思っていたのですが、何と、その前の飛鳥時代に既に密教が日本に入っていたというのです。十一面観音像や葛井寺の千手観音像などは密教(の具現化)だというのです。

 仏教は紀元前5世紀、カースト制を是認するバラモン教に対するアンチテーゼとして、釈迦によって教義が開かれ、その500年後に出家者だけでなく広く衆生救済を主眼とした大乗仏教が生まれ、そのまた500年後、つまり釈迦から見て1000年後の紀元5~6世紀に密教が生まれます。細かく言うと、飛鳥時代の密教は初期密教、九世紀の空海が唐から持ち帰ったのは中期密教で、後期密教はチベット仏教になり、後期は日本には入って来なかったといいます。でも、空海の師に当たる恵果(けいか、746~805年)は、そのまた師匠に当たる「金剛頂経」の不空(ふくう、705~774年)から金剛界を、「大日経」の一行(いちぎょう、683~727年)からは胎蔵界の密教をそれぞれ伝授されて、両界を統一させて中期密教を完成させた高僧でした。この金剛界と胎蔵界の両界が二つそろって初めて効能があるというのです。その後、中国では密教は衰退してしまうので、日本人の空海(774~835年)が継承出来たことはまさに奇跡的です。

 先ほど、大日如来を拝む際に、何と唱えたらいいのか? と自問自答しましたが、以下の通りになるわけです。つまり、

 金剛界大日如来(忍者のように胸の前で智拳印を結んでいます)は、梵語(サンスクリット)で「オン バザラ ダト バン」と言います。これがなかなか覚えられないので、意味を調べましたら、「オン」とは帰依するという意味で、「南無」と同じような使い方なのでしょう。「バザラ」は金剛で、ダイヤモンドのこと。ダイヤモンドのように硬くて傷付かない智慧のことです。「ダト」は界のこと。「バン」は大日如来の種子字です。種子字とは、尊称的な梵字の表記です。種子とは、仏教用語で、阿頼耶識(無意識)の中に蓄えられている膨大な記憶や業を指しますが、物事を引き起こす要因とも言われます。金剛界大日如来は智慧の象徴です。

 もう一つ、胎蔵界大日如来(座禅を組むように両掌を重ね合わせています)は「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」です。これも覚えにくい(笑)。「ノウマク サンマンダ ボダナン バク」は釈迦如来になるので、大日如来はアビラウンケンだけでも良いかもしれません。アビラウンケンは、宇宙の生成要素の地、水、火、風、空を表していると言います。胎蔵界大日如来は慈悲を象徴します。

 宗派によって、両界の大日如来の唱名の仕方はこれとは違う場合もありますが、いずれにせよ、密教とはまるで宇宙論に近いですね。

 以前、私自身「密教は仏教ではないのではないか」と疑問に思っていたのは、両者があまりにも違うからです。仏教と言えば、覚りを啓くために厳しい修行を重ねて、煩悩を否定し、肉食妻帯せず、飲まず食わず、夜も寝ないで、只管お経を唱えて自分自身を追い込んで苛め抜くイメージがありました。まさに、千日回峰行です。それが密教となると真逆になるのです。

 密教修法の一つに護摩焚きがありますが、その目的とは「息災」「増益(ぞうやく)」「敬愛」「調伏(ちょうぶく)」の4種類があると「密教でひも解く禁断の日本史」(宝島社)に書かれていました。これだけ読んだだけでは私はよく分からなかったのですが、ラジオの「空海と日本の密教」を担当している西山厚氏は、見事に分かりやすく解説してくださいました。こんな感じです。

 「息災」とは、マイナスをなくそうとすることです。「増益(ぞうやく)」とはプラスを増やすこと。「敬愛」は人から好かれたいと思う心。「調伏(ちょうぶく)」は、嫌な奴を何とかしてやりたいという気持ち。これらは全部、欲望です。でも、密教ではそれらを否定しないのです。それどころか、空海は、食欲も性欲も否定せず、「罰はない」とまで言ってます。

 そっかあー。私は目から鱗が落ちるように密教の根本を理解することが出来たような気がしました。当然のことながら、密教も仏教(の宗派)だったのです。

 先日お墓参りした親友の菩提寺は真言宗豊山派であることをこのブログにも書きました。となると、何か,みんな繋がっているような気がして来たのです。「ご縁」です。以前、京都の東寺や和歌山県の高野山金剛峰寺にお参りして空海の世界にどっぷりつかったことがありましたが、密教の奥義を理解するまではなかなか至りませんでした。もっと密教を深く知りたいと思うきっかけになったことが親友の菩提寺もその一つでした。これを縁だったんですね。

 最近、自分自身のこれまでの人生体験から、常々思っていることは、人生とは、60%が両親や御先祖様から受け継いだDNAによって決定されますが、残りの20%は「縁」、最後の20%は「運」で決まると思っています。偶然はご縁の一つだと考えています。

 このことに目覚めてから、毎日、「縁」と「運」を大事にしながら、一生懸命に生きております。

田中与四郎さんって誰のこと?=歴史上の人物の本名にはまってます

 最近、我ながら、勝手にはまっているのが、歴史上の人物の本名(幼名、俗名、諱)クイズです。

 きっかけは、田中与四郎さんです。大変、失礼ながら、現代人でも何処にでもいそうなありふれたお名前です。それが、あの茶人・千利休の本名(幼名、1522~91年)だと知った時は、大いに驚いたものです。千利休は、今年、生誕500年ということで、テレビや雑誌で取り上げられることが多いのですが、テレビの番組で初めて知りました。

 堺の商家(家業は倉庫業)生まれで、雅号は抛筌斎(ほうせんさい)、法名は千宗易。千利休という名前は、天正13年(1585年)の禁中茶会で、町人の身分では参内できないため正親町天皇から与えられた居士号だといいます。姓の千は、彼の祖父である田中千阿弥から由来するという説もあります。

 田中与四郎さんで味をしめたので、他にも探してみました。一番、記憶に残っていたのは、藤井元彦さんと藤井善信さんです。このお二人、どなたのことか分かりますか?将棋の棋士ではありません(笑)。ヒントは「歎異抄」です。最後の後序に出てきます。

 1207年、いわゆる承元の法難(建永の法難)で、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら門弟7人が流罪となった事件のことです。この時、法然上人(76)は、(当初、)土佐国の番田という所へ流罪となり、罪人としての名前が藤井元彦。親鸞聖人(35)は越後国へ流罪となり、罪人としての名前は藤井善信などと「歎異抄」には書かれています。

 今から800年以上前の藤井元彦も藤井善信も、全く、現代人としても通用する名前です。

築地「とん喜」カツカレー丼 1300円 お腹いっぱい

 この事件、真偽は不明ですが、後鳥羽院が寵愛する女官(鈴虫と松虫)と法然の門弟との密通事件が背景にあって、死罪という重い処分が下されたともいわれています。私怨が絡んでいたのかもしれません。私はすっかり忘れていましたが、法然、親鸞らに「島流し」の処分を下した後鳥羽院は、その14年後の1221年に承久の乱で、逆に、二代執権北条義時によって隠岐の島に流されてしまうんですよね。波乱万丈の人生でしたが、やはり、鎌倉時代は面白い!

 さて、これぐらいにして、皆様にもクイズを差し上げましょう。以下の本名の人は、普通は何という名前で知られているでしょうか?

(1)佐伯真魚(さえき・まお)

(2)坂本直柔(さかもと・なおなり)

(3)長谷川辰之助(はせがわ・たつのすけ)

(4)永井壮吉(ながい・そうきち)

(5)津島修治(つしま・しゅうじ)

(6)平岡公威(ひらおか・きみたけ)

 簡単過ぎましたね(笑)。

 私も筆名を3回も4回も変えてきましたが、あの葛飾北斎は生涯で30数回名前を変えてますからね。 されど名前、たかが名前ですか…。

(答えは下欄)すぐ見ちゃ駄目よお

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【答え】

(1)空海(2)坂本龍馬(3)二葉亭四迷(4)永井荷風(5)太宰治(6)三島由紀夫

仏教思想と古代史と現代人=2019年の個人的回顧

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

今日は大晦日。午前中は、狭い陋屋を一人前に大掃除して、窓も綺麗に拭いて、良い新年を迎えられそうです。

 皆様にはこの一年、御愛読賜り、誠に感謝申し上げます。中には「つまらない」だの、「読む価値なし」だのと仰る方もおりましたが、それは、読んでいる証拠でもあり、叱咤激励のお言葉と勝手に受け取って、来年も続けて参りたい所存で御座います。

 このブログは、気の進まないまま、フェイスブックとツイッターに同期しておりますが、フェイスブックでは毎回アップする度に、まだお会いもしたことがない西日本にお住まいのYさんがお忙しい中、無理を押して「いいね!」ボタンを押してくださるので、励みになっております。イニシャルだけでお名前は書けませんが、御礼申し上げます。

 さて、この後に書くことは、本当にどうでも良い個人的な話です。一年を振り返って、個人的に一応区切りを付けたいだけですので、もうお読み続けることはありませんよ(笑)。

高野山 壇上伽藍

 我が人生、いつの間にか、老境の域に達してしまい、個人的な趣味が、全国の寺社仏閣とお城巡りになりましたが、昨年は、その長年の念願を実現することができました。7月に和歌山県の高野山、12月には出雲大社と、日本を代表する国宝姫路城に行くことができたのです。その内容については、既に事細かく書きましたので、このブログ内で検索して頂ければ出てきます(笑)。

 高野山から帰った後、真言宗について勉強を始めました。アカデミックではなく、職業柄、残念ながらジャーナリスティックな面での勉強、というか情報収集です。具体的には、真言宗内の宗派の力関係とか、全国に展開される真言宗寺院の展開、そして宗祖空海の人となりについてです。これも、ブログにかなり詳しく書きましたので、また、検索でもしてご参照ください(笑)。

 その後、ひょんなことで、このブログを通して、作家村上春樹氏の従兄弟に当たる西山浄土宗安養寺の村上純一住職と知り合い、8月の最も暑い盛りに京都・安養寺を訪れて村上御住職と面談しました。その際、また、色んなお話を聴くことができ、また、何度かメールをやり取りするうちに、法然上人や浄土宗にも興味を持つようになりました。

 またまた、ジャーナリスティックなアプローチで、浄土宗の宗派や全国の寺院について勉強していたら、たまたま、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)と出合い、日本の浄土教思想に目覚めてしまいました。この後、読んだ沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」(河出文庫)により、仏教とカースト制度に影響を受けた差別問題が日本の歴史の底流に流れていることを初めて知り、実に、実に衝撃的でした。

出雲大社

 出雲大社に行ったのは、古代史に大変興味があったためで、実際に参拝し、その規模と大きさを知ることができたのが収穫でした。やはり、大和朝廷との関係が気になるところで、大陸や半島との交流で一足先に文明が進んでいた出雲が、最終的には大和に「国譲り」したことになるのでしょうが、何とも言えない、霊的な「気」も感じることができました。

  既にこのブログで登場させて頂いた武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書) によると、 これまで「大王」と呼ばれた王族の長を初めて「天皇」と名乗ったのは壬申の乱を経て統一した天武天皇(631?~686年)でした。「古事記」「日本書紀」に則った紀元2680年にならんとする皇室からみると、「天皇」の名称が登場したのは1300年ほど前ということになるので、意外と最近だったことが分かります。

 また、古代の朝廷は、十数人からなる公卿と呼ばれる太政官(左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)による合議制で政策が決まり、天皇はそれを追認する形だったという史実を知り、「いかにも日本的だなあ」と改めて思いました。中国やドイツでは考えられないことです。

 先の大戦で、戦艦「大和」が米軍の爆撃によって沈没したことは、まるで古代から続いてきた大和朝廷が滅ぼされたような象徴的な意味合いがあり、それに代わる(米国直輸入の)「戦後民主主義」と呼ばれる時代も、70年も過ぎれば綻びが目立つようになり、ついには、公文書を改竄したり、破棄したり、処分したりしても平気な政権が長期にわたるというのに、その弊害さえ、その政治システムにより除去できない日本の現代人は、歴史的に見ても、古代の朝廷を批判できないんじゃないかと思っています。

 このブログも、どういうわけか、最近、驚くほどアクセスが増えてきており、感謝申し上げる次第で御座います。取材費も原稿料も出ないのですが(笑)、色んな世界(精神世界も含む)を駆け巡って、これからも頑張って執筆していこうかなと存じます。

 来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 令和元年12月31日

 渓流斎 敬白

何の為の信仰か?=映画「典座」が公開へ

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 今夏に高野山と京都の浄土宗の寺院を巡ったせいか、仏教思想への興味が復活し、深まっています。何処かの特定の宗教集団に所属して、信仰にのめり込むというのではなくて、あくまでも、これからいつの日にか、あの世に旅立つに当たって、称名、念仏、もしくはお題目、またはアーメンでも何でもいいのですが、個人的に勉強して、納得したいものを見極めたいと思ったからです。

 我ながら、タチが悪いですね。お前は宗教を冒涜しているのか、と言われればそれまでですが、そんなつもりは毛頭ありません。

 しかし、オウム真理教事件以来、日本人は宗教に対して、特に強引な布施や寄付金を求める新興宗教に対して、警戒心を募らせるようになったのではないでしょうか。もしくは、「葬式仏教」などと揶揄される既成宗教に対する幻滅などもあるかもしれません。

 これは、あくまでも個人的な見解ながら、例えば、空海の思想は、真言宗の僧侶や門徒、檀家だけのものではないはずです。空海さんは、そんな排他的な人ではなかったはずです。それは、最澄でも、法然でも、親鸞でも、道元でも、栄西でも、日蓮でも、いかなる宗祖にでも言えるはずです。

 そんな個人的な「悩み」を、今夏お邪魔した京都・安養寺の村上住職に御相談したところ、御住職はお忙しいながら、面倒くさがらず、真面目に正面からお答えして頂きました。有難いことです。(二人のやり取りは私信ですので、ここでは公開致しません。悪しからず。)

そんな中、「生まれ出づる悩み」を抱えているのは凡俗の衆生だけかと思ったら、何と、お坊さんにも、それなりに色々と悩みを抱えているんですね。

 ドキュメンタリー映画「典座」は、全国曹洞宗青年会の主宰、製作で、富田克也監督がメガホンを取った作品ですが、10月4日から全国公開されます。全国公開とはいっても、東京から大阪までわずか5単館しかありませんが、見逃せませんね。

 映画の主人公は、曹洞宗の大本山永平寺で修行した山梨県都留市の光雲院の河口智賢(かわぐち・ちけん、1978年生まれ)副住職と、同じく永平寺で修行した三重県津市の 四天王寺の倉島隆行(くらしま・りゅうぎょう、1977年生まれ)住職という若い二人。智賢副住職は、普通の勤労者と同じように寺の仕事と家庭の問題で板挟みになる悩みを抱えながらも、今後の仏教の在り方を模索します。隆行住職も東日本大震災で被害を受けた福島でさまざまな支援活動を行いながらも、自分の無力感に苛まれたりします。二人の若い僧侶に対して、高僧青山俊薫(尼僧)がどんな助言を与えるかも見ものになっています。

 実は、私はまだ見たわけではなく、あくまでもネットで予告編を見ただけですが、映画のポスターにあるように、「何の為の信仰か?」「誰のために祈るか?」と、若い僧侶自らも悩んでいる姿が見られるようです。

 となると、僧侶の「弱さ」や宗教界の恥部などマイナス面まで見せてしまうことになり、全国曹洞宗青年会の一部の人からは、製作や公開の反対もあったようです。それでも、完成させ、来月から公開されるということですから、私も応援したくなります。

 このブログを読まれて、興味を持たれた方のために、映画「典座」の公式サイトをリンクしておきます。日程とわずか5館の公開劇場もあります。これは、宣伝ではありません。差し迫った思いを持つ私自身が興味を持っただけです。

意外に多い仏教系大学

 先日、高野山にお参りした際に泊まった宿坊「天徳院」の直ぐ近くに高野山大学があり、天徳院の若い住職さんも歩いて通ったらしく、大学と宗教の関係に興味を持ちました。

 高野山大学は、もちろん、空海が開いた真言密教を学ぶ大学で、835年(承和2年)に朝廷より真言宗後継者育成制度を認定されたことに始まりを持つと言われています。世界で最も古い総合大学は、イタリアのボローニャー大学(1088年)と聞いたことがありますから、凄いですね。

 空海は、828年(天長5年)に、貴族だけでなく、庶民にも開放して京都に綜藝種智院(廃校したものの、戦後に種智院大学として継承)を創設しており、日本で最も古い教育機関かなと思いましたが、 聖徳太子が 推古元年(593年)に 、仏教を学ぶ場として創建した四天王寺敬田院(きょうでんいん)があり、これが現在の四天王寺大学に発展したとも言われています。

 さて、空海の最大のライバル(?)といえば、最澄ですが、最澄が開いた天台宗比叡山延暦寺は宗教大学の総本山みたいなところで、ここで学んだ僧侶の中には、天台宗の基礎を築いた円仁をはじめ、融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮ら多くの宗派の開祖を輩出していることからも分かります。

高野山 奥之院

 しかし、現在存在するその天台宗系の大学はほとんどなく、大正大学ぐらいなのです。大正大学は、私の出身大学のすぐ近くにあったので、よくキャンパスに入ったことがあります(教室はありませんが)。 落ち着いた雰囲気で、学生数も少なく、仏教系の大学だということは知っていましたが、宗派は知りませんでした。

大正大学は大正15年(1926年)、天台宗、真言宗豊山派、浄土宗の三宗の連合大学として創立します。 昭和18年(1943年)に智山専門学校も合併して、真言宗智山派も加わります。また、最近では、時宗も加わったようです。

 初代学長は、文部官僚で、東北帝大、京都帝大の総長も歴任した澤柳政太郎。「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し) が彼のモットーでしたね。大正大学出身者に、浄土宗宗務総長も務めた作家の寺内大吉がおります。

 仏教系大学はかなり多くありますが、一番有名なのは、親鸞の浄土真宗系大学でしょう。京都にある龍谷大学は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、大谷大学は、真宗大谷派(東本願寺)で、全国に○○大谷大学も結構あります。

太田道灌像=芳林寺(さいたま市岩槻区)

 意外と知られていないのは、東京の駒澤大学が道元の曹洞宗系の大学だということです。起源は、天正20年(1592年)に駿河台の吉祥寺内に設けられた旃檀林学寮にまで遡ることができるといいます。この吉祥寺を創建したのが、かの太田道灌公で少し驚いてしまいました。江戸時代に入り、明暦の大火で今の駒込に移転しました。横浜の鶴見大学も、総持寺系の曹洞宗の大学です。

◇花園大学、妙心寺の算盤面

 京都の花園大学は、臨済宗の妙心寺派ですね。 明治5年(1872年)、境内に創設された旃檀林学寮にまで遡ると言われています。

 いつ誰が言ったのか定かではありませんが、京都の臨済宗の禅寺について、「妙心寺の算盤面、建仁寺の学問面、南禅寺の武家面、東福寺の伽藍面、相国寺の声明面、大徳寺の茶面」という格言(?)があります。

  妙心寺が何故「算盤面」と言われるのか、諸説あるようですが、国内にある臨済宗寺院約6000カ寺のうちの半数以上が妙心寺派の寺院で、財政的に厳しく、倹約と合理化に努めたから、らしいのです。

 日蓮宗系の大学には立正大学などがあります。

 天理大学や創価大学など、新興宗教系の大学もかなりありますが、小生の力及ばず、この辺でやめておきます。

謹慎中の武士が町人と僧侶と一緒にどんちゃん騒ぎ=かつての身分史観は間違っていた?

 (昨日からの続き)和歌山県 丹生都比売神社

 座禅に相当する 真言宗の瞑想は「阿字観」といいまして、梵字の「阿」の字に向かって、雑念を振り払って、心を空にして瞑想します。

 梵字は古代インドで誕生し、仏教とともにアジアに広まります。空海が日本に伝えたともいわれています。お墓の卒塔婆などでも使われていますが、現代は、インドや中国では廃れてしまい、主に日本だけしか使われていないというのです。これは知りませんでしたね。仏教自体が本家インドで、そして中国でも衰退してしまいましたから、梵字も同じ運命を辿ったのでしょう。

 「空海」(新潮社)を書いた高村薫さんによると、高野山は内紛で、空海入定後、わずか80年で無人になって荒廃してしまったというんですね。真言宗がその後、日本全土に普及するのは、難解な真言密教を通してではなく、空海を「弘法大師」としていわゆる偶像化して平易な現世利益を広めた多くの無名の「高野聖」の活躍があったといいます。

  空海に、弘法大師の諡号(しごう)がおくられたのは、天台宗の開祖最澄や円仁らと比べてもかなり遅く、実に死後87年目のことで、著者の高村さんは「意外なことに、空海の名声は比較的早い時期に一時下火になってしまったと考える」とまで書いていることを改めて追記しておきます。

 さて、今、大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社、2019年4月25日初版)を読んでいます。なかなか面白い。「江戸時代は士農工商のガチガチの身分制度だった」というこれまでの歴史観が引っくり返ります(笑)。

 絵日記の作者は、幕末の忍(おし)藩(今の埼玉県行田市)の下級武士だった尾崎石城(本名隼之助、他に襄山、華頂などの号も)。熊本県立大学の大岡名誉教授が分かりやすく解説してくれています。

 忍藩は江戸から北に15里(約60キロ)離れた人口約1万5000人の城下町です。忍城には、いつぞや私も栗原さんと一緒に行ったことがありますが、石田三成の水攻めにも屈しなかった堅城です。忍藩は、江戸時代になって、松平信綱や阿倍忠秋ら多くの老中を輩出したことから、「老中の藩」とも言われ、幕政の要になった親藩でもありました。

 尾崎石城は、天保12年(1841年)、庄内藩の江戸詰め武士だった浅井勝右衛門の子として生まれ、18歳の弘化3年(1846年)に忍藩の尾崎家の養子に入っています。庄内藩と忍藩とは縁もゆかりもなさそうですが、江戸時代はこういう「養子縁組」は当たり前のように行われていたんでしょうね。

 この石城さん、理由は詳らかではありませんが、度々、藩から咎めを受けて「蟄居」処分を受けます。最初は、23歳の嘉永4年(1851年)です。

 あれっ?大岡敏昭名誉教授の解説では、生まれた年が合いませんね。1846年の時点で18歳、1851年の時点で23歳が満年齢だとしたら、石城は1828年生まれ、つまり、 天保12年(1841年)ではなく、文政11年生まれでなければおかしいのですが。。。

 ま、堅いことは抜きにして、とにかく、石城さんは、何度も蟄居処分を受けますが、その度に自邸から抜け出して友人の家に行ったり、料亭「大利楼」などに行ったり、馴染みの和尚さんがいる寺院に行って酒を飲んだりしているのです。

 しかも、身分の差を越えて、武士と町人と僧侶が一緒になってどんちゃん騒ぎしているんですからね。その様子を、江戸の絵師福田永斎の門人として修行し絵ごころがある石城さんが、見事に挿絵として活写しているのです。本の表紙にもあるようにほのぼのとした雰囲気の絵です。

 絵日記は、二度目の咎めによる強制隠居の時の文久元年(1861年)6月から翌年4月まで書かれています。石城さんの生まれが文政11年(1828年)だとすると、33歳頃となります。蟄居ながら、独身という自由な身であることから、頻繁に寺院や友人宅を訪ねて、酒盛りする姿が描かれています。

◇大酒呑みの僧侶

 驚くほどのことではないでしょうが、ここに登場する僧侶は大酒呑みばかりで、料亭にも足繁く通ってます。大岡名誉教授の解説でも、「大蔵寺の宣孝和尚=酒好き、女好きで愉快な人物」「龍源寺の猷道和尚=この和尚も酒好き、女好き」と解説するほどです。(酒のことを「般若湯」、馬肉を「桜」、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉「紅葉」と誤魔化して、僧侶たちは、今で言うジビエ料理を楽しみ、しっかり肉食妻帯していたわけですから、「聖職者」とは程遠い感じです。人間的な、あまりにも人間的なです。)

 忍藩は、海のない藩なのに、蜆や鰯や鮪、鯔など石城さんはしっかり海産物を食べています。恐らく、お江戸日本橋の魚河岸から川による水上交通で運ばれて来たのでしょうね。

 石城さんの生活費はどう工面していたかと言いますと、妹邦子夫婦と同居し、邦子の夫である進は、石城の養子になり、石城さん蟄居中は、進が忍城に登城していました。また、石城は絵を描くので、掛け軸や行灯などの絵を頼まれ、近所の子どもたちには「手習い」を教えていたようです。呑み代が足りないと、帯を質に入れたりします。

 ◇武士の身分とは

 長くなるのでこの辺にして、この本の中に出てくる「武士の身分」についてだけは書いておきます。

【知行(土地)取り】家中(かちゅう)、侍、士分

・上級武士(300石~数千石)=家老、奉行、御勘定頭

・中級武士(50石~200石台)=番頭、寄合衆、御目付、御用人、御馬廻

【扶持取り】徒(かち)、給人(きゅうにん)、足軽、中間 / 小人、同心

・下級武士(二人扶持~二十人扶持)=元方改役、御鉄砲、御小姓、表坊主

※十人扶持の場合、1年に食べる10人分の米が支給される。一人一日五合として、年に一石八斗、10人分で十八石。また、切米(きりまい)という現米を年俸として支給されることもある。例えば、五石二人扶持とは、年に切米五石と、二人扶持(三石六斗)の計八石六斗の米が支給される。

 時は幕末。尾崎石城は、どうやら水戸の過激思想にかぶれて藩政批判したことから蟄居の身となったのではないか、と大岡名誉教授は推測しています。忍藩は幕政の要の親藩ですから、重罪です。尾崎家は当初、200石の御馬廻役でしたが、蟄居で知行を取り上げられ、石城は中級武士から下級武士に降格されたようです。それでも、絵日記には全くと言っていいくらい悲壮感がありません。

 それに、三度目の咎めの理由だけは分かっており、「謹慎中の隠居の身でありながら、勝手に出歩き、しかも町人町に家を借りたりして実にけしからん。寺への出入りも禁止する」というもの。大いに笑ってしまいました。

高野山に眠る著名大名 信玄・謙信・信長・光秀・三成…

雨飾山(百名山)

仕事の取材とプライベートの旅行で、既に30歳代で、北海道から沖縄まで全国47都道府県の全てを踏破しましたが、まだまだ行っていない所、行ってみたい所は数知れず。日本は結構広いです(笑)。

これまで行ったことがなくて、是非行きたい所の中に、空海が開いた高野山(和歌山県)があります。でも、諸般の事情で今年も行けそうにありません。そしたら、NHKの人気番組「ブラタモリ」で3週連続で特集をやってくれているので、食い入るように見ています。

いやあ、知らなかったことだらけですね。

特に、空海の「御廟」がある奥の院につながる道筋に実に30万基もの墓と供養塔があり、多くの有名人や大名が眠っているという事実には驚かされました。

戦国武将武田信玄と上杉謙信の墓が目と鼻の先にあるかと思えば、織田信長と明智光秀の墓まで側にあるのです。このほか、小田原の北条、仙台の伊達、薩摩の島津、加賀の前田、柳川の立花などの大名家もありました。意外にも関ケ原で敗れた石田三成までここで眠っていたのですね。

かつて、高野山は「追放」や「亡命先」のような側面がありました。有名な史実は、関白豊臣秀次でしょう。秀吉の世継ぎとして一旦は指名されながら、淀君(浅井長政と信長の妹お市との間に生まれた茶々)に実子秀頼が生まれたことから、秀吉に疎まれて、高野山に幽閉され、結局は自腹を切らされます。

この事件がきっかけで、秀吉の信望が厚かった山内一豊(掛川)や田中吉昌(岡崎)ら秀次の御家中衆や仙台の伊達政宗らが秀吉から離れ、彼らが関ケ原では家康側についてしまう原因となってしまいます。

関ケ原後、信州で秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)  親子も高野山に幽閉されましたね。このように、高野山は政治的裏舞台でもあったのです。

で、何で、これだけ多くの墓や供養塔があるのかと言いますと、番組によりますと、お釈迦様が入滅した56億7000万年後、弥勒菩薩の姿で復活され、空海もいわば「通訳」としてこの世に復活するというのです。同時に空海の側に控えている人たちも復活するということで、奥の院にこれだけ多くの墓や供養塔があるというのです。

復活というと、まるで耶蘇教の教えのようですが、戦国大名らは信じたのでしょう。彼らだけでなく、現代でもパナソニックやクボタなどの大企業がお墓か供養塔をつくってましたから、信仰の深さは変わらないということなんでしょう。

有名人のお墓の中には、俳優の鶴田浩二がおりましたが、番組のアシスタントの若い優秀な近江アナウンサーは、鶴田浩二のことを「知らない」と言うのでカルチャーショックを受けましたね。あんな一時代を築いた大物俳優でさえ、忘れ去られてしまうとは!

「街のサンドイッチマン」も知らないことでしょう。

嗚呼、諸行無常