「御年寄」は「老中」と並ぶ政権トップだった=江戸時代の大奥

 衆院選が10月19日に公示されました。1051人が立候補しましたが、女性の比率は17.7%と2割も届きません。2018年に男女の候補者数を均等にするよう政党に促す「政治分野における男女共同参画推進法」が施行された後の初の衆院選だというのに、17年の前回(17.8%)からも下がりました。

 やっぱり、日本は「男社会」なんでしょうかね?

 しかし、現実は、社会の最小単位であるほとんどの家庭では、奥さんが旦那を尻に敷いている場合が多いことでしょう(笑)。

 歴史を見ても、推古天皇持統天皇を始め、女性天皇は歴代十代いらっしゃいます。鎌倉の北条政子、室町の日野富子といった政権のほぼトップにいた女性もいました。

 でも、江戸時代以降は、完璧に男社会になった、と私なんか思っていたのですが、「大奥」の制度ができ、結構、裏で女性が権力を握っていたことをこのほど知りました。

東銀座「森田座跡」(江戸・木挽町芝居町通り)

 最近、音沙汰がなく、何処かに御隠れになってしまった釈正道老師からもう文句を言われないので済むので敢えて書きますが、「歴史人」(ABCアーク)は面白いですね(笑)。10月号で「徳川将軍15代と大奥」を特集していますが、知らなかったことばかりで、本当に勉強になりました。つまり、15代の歴代将軍の業績ばかり追っていたのでは江戸時代は分からないということでした。(以下、管見以外、ほとんどが「歴史人」からの引用です)

 江戸幕府というのは、徳川将軍が一人で全て支配していた独裁国家ではありません。初代家康や「生類憐みの令」を発した五代綱吉のような例外もありますが、ほとんどの将軍は、複数の老中ら幕閣が決めたことを追認する形の方が多かったのです。ということは政権トップは老中ということになります。(大老は臨時に老中の上に置かれた最高職)

 その「男社会」の老中に匹敵するのが大奥の「御年寄」(おとしより)という身分でした。(この上に公家出身の正室=御台所を支える京都から入った「上臈=じょうろう=御年寄」もいた)。御年寄は、1000人の女たち(他に300人の男役人)が働く大奥全体を差配し、将軍の御台所に最も近い存在で、政権運営にも影響を与えました。「口利き」のため、大名や御用商人らからの付け届けも多かったと言われます。史上最も有名な御年寄は、三代将軍家光の乳母も務めた春日局(明智光秀の腹心斎藤利三の娘)でしょう。

 大奥というと、ハーレムのような感じで、将軍なら何でも好き勝手にできると思っていましたが、かなり厳格な規則の上で運営されており、将軍様といえども、いつでも自由奔放に大奥に出入りできず、事前に「予約」しなければいけませんでした。何と言っても、「世継ぎ誕生」という絶対的使命を果たさなければならない将軍にとっては、大奥はお勤めであり、仕事場、職場に近かったのかもしれません。しかも、寝間では、側室が将軍にじきじき頼み事をしないように、少し離れて両脇に御伽坊主(女性)と御中臈が反対向きに添い寝し、聞き耳を立て、翌日、御年寄に報告していたといいます。ナンタルチヤ。

 在位50年、側室16人、子供も50人以上もいた十一代将軍家斉は別格として、将軍は、トップの御年寄に次ぐ「御中臈」(おちゅうろう)8人の中から「側室」を選びます。将軍様の「お手付き」にならない溢れた御中臈は「お清(きよ)の方」と陰口を叩かれ、お手付きになった御中臈も「汚(けが)れた方」とまで呼ばれたといいますからかなり陰湿です。しかも、懐妊したりすると、やっかみからワザと着物の裾を踏んで転ばして流産させるイジメもあったそうです。「ひょっえーー!」です。

 側室候補が8人しかいないということは、かなり激しい女同士の競争社会であり、大奥のほとんどの奥女中は、御台所(正室)らの身の回りの世話をする仕事をしていたわけです。他に御三家などからの女使いを接遇する「御客会釈」(おきゃくあしらい)という御中臈と並ぶ重職もありました。異例ながら、風呂焚きをしている下女が将軍のお眼鏡にかかるという特例もありましたが、奥女中には給金が出るので実家に仕送りしたり、途中で里帰りして良縁に恵まれたりする者もいました。(三代家光の側室で後の五代綱吉の生母となった桂昌院=お玉=は八百屋の娘とも言われ、「玉の輿」の語源になったという説があるが、異説もあり)

江戸・木挽町「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 徳川将軍の正妻である御台所ともなると、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)か宮家(世襲親王家)か天皇家の姫君から選ばれました。十四代家茂の正室和宮は、孝明天皇の異母妹でしたし、有名な十三代家定の正室篤姫は薩摩島津家の一門の娘として生まれましたが、藩主島津斉彬の養女、さらに、関白近衛忠煕の養女として徳川家に輿入れしました。

 ただ正室が世継ぎを生んだのは、歴代将軍の中でも二代将軍秀忠のお江(浅井長政と織田信長の妹お市の方の娘)だけだったのです(三代将軍家光)。あとは、側室か、子供に恵まれず、御三家か御三卿から将軍職を選出しているのです。現代人から見るのとは違って、徳川家にとって、大奥制度は切羽詰まった、絶対必要条件だったことでしょう。

 話は少し飛びますが、秀忠の五女和子(東福門院)は後水尾天皇の女御として入内し、後の明正天皇(女帝)を産んで中宮に立てられています。徳川家も古代の葛城氏(仁徳天皇など)、蘇我氏(用明天皇など)、藤原氏のように天皇家と外戚関係を結んでいたわけです。

江戸・木挽町芝居町通り「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 大奥に入るには「試験」めいたものがありました。御家人、旗本の娘だけでなく、農民、町民の娘でも奥女中らのコネがあれば願書を提出して「吟味」(御年寄の面接試験。文字と裁縫の腕を見る)、1カ月以上の「身元調べ」を経てやっと採用されることがあります。身分社会ですから、将軍に拝することができる「御目見得」になり、側室候補の「御中臈」になるには複数の段階があります。旗本の娘の中にはいきなり「御中臈」になった人もいたようですが、農民、町民の娘は、一番下の下女とも呼ばれた「御末」(おすえ)、もしくは「御半下」(おはした)が出発点です。風呂や食事の水汲みなど力仕事が多かったといいます。

 このように、大奥はかなりストレスが多い職場だったので、「絵島・生島事件」のようなスキャンダルが起きました。

 (写真は、絵島・生島事件の舞台になった歌舞伎の山村座跡=江戸・木挽町芝居町、現・銀座6丁目=を中心に掲載しました)