天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。

つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。

となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。

ところが、おっとどっこい。

女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。

一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居

著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。

そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。

著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」

確かにその通り。

驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。

同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。

草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。

そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。

「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮

著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。

まさに、胤より腹が大事です。

実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)

「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。

著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。

この本については、また次回書きます(笑)。