哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

伊達政宗の祖先は茨城県人だった=「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」

 「歴史人」11月号(KKベストセラーズ)「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集をやっと読了しました。

 不勉強のせいか、知らなかったことばかりです。特に、東北地方の戦国時代の武将は、伊達政宗と上杉景勝と最上義光ぐらいしか知りませんでしたが、まさに群雄割拠で、他にも有象無象の大名がのし上がっては消える弱肉強食の時代だったんですね。

 知っていたはずの伊達政宗にしても、仙台の青葉城の印象が強すぎて、伊達氏は元々の東北人かと思っていましたら、常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)出身で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の関東御家人として、奥州藤原氏征伐に参戦し、武功として伊達郡を与えられたため、伊達氏を称したというのです。本姓は「中村」だったといいます。伊達者が絢爛豪華な数寄者の代名詞になっているぐらいですから、他の苗字だとピンときませんね(笑)。

 もう一人、「福島」の地名をつくった木村吉清という人物がおります。この人、元々、丹波亀山の足軽か雑兵出身だったといわれ、俄か大名の典型です。信長に謀反を起こした荒木村重に仕え、彼が失脚した後、明智光秀の家臣となり、本能寺の変にも参戦したといいます。山崎の合戦では羽柴秀吉につき、その戦功により5000石を与えられた、と、サラリとこの本に書かれています。でも、よくよく考えてみれば、本能寺の変から山崎の合戦までわずか11日です。こんな短時間で光秀を見限って寝返ったということになりますが、まさに戦国時代だからこそあり得る話なのかもしれません。もしかして、彼は、相当な忍びの間者を擁していて、秀吉の「中国大返し」のことも、細川幽斎・忠興親子が光秀を見捨てたという情報も得ていたのかもしれません。

 木村吉清は、秀吉による「奥州仕置き」で遠征し、「抜群の功があった」としてその60倍も加増されて東北の大大名になりますが、家臣団は浪人・無頼者出身が多く、暴政を敷いたため、地元の葛西氏や大崎氏の残党も加わった一揆で失脚します。一揆の背後で、伊達政宗が糸を引いていたとも言われています。その後、吉清は、嫡男清久とともに、蒲生家の与力として遇されて、信夫郡杉目5万石を与えられ、吉清は、この杉目の地を福島と改名したといいます。

 ちなみに、吉清の嫡男木村清久は、最期まで秀吉の恩を忘れなかったのか、大坂の夏の陣で討死しています。

 ◇尼子の悲劇

 このほか、中国地方で毛利元就・輝元に滅ぼされた出雲地方の大名だった「尼子の悲劇」があります。尼子義久・勝久に仕えた重臣で「尼子三傑」の一人、山中鹿介(やまなか・しかのすけ)は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名ですが、今では知る人は少ないでしょう。

 また、戦前の修身などの教科書では、楠木正成・正行父子が訣別する「桜井の別れ」が必ず取り上げられ、知らない人はいなかったと思われますが、「忠君愛国」思想を教育するのにちょうどよかったのかもしれません。このように、歴史の常識というのは、解釈の面で、時代によって変わっていくものだということを思い返し、この本を興味深く拝読致しました。

 それにしても、戦国史ですから、人間の本性が剥き出しです。疑心暗鬼から、離合集散あり、裏切り、寝返り、下剋上ありの何でもあり、しかも殺戮の仕方があまりにも残酷で、つくづくこの時代に生まれなくてよかった、と改めて天に感謝しております。