「文化学院」は参謀本部の謀略放送拠点として接収されていた

10月なのに、秋の気配がなく、30度を超える真夏日が続いてます。

 昨日は、インテリジェンス研究所(山本武利理事長)と早大20世紀メディア研究所共催によるインテリジェンス見学ツアーに公認記者(笑)として潜入し、その後のセミナーと懇親会にも参加してきました。

どなたでも参加できるのに、参加者は25人ほどで年配者が多かったです。

見学場所は、東京・御茶ノ水にあった「駿河台技術研究所」(偽装用の表看板)です。陸軍参謀本部が昭和18年から敗戦まで、連合国の捕虜や日系人から抜擢した人を使って、米兵らに厭戦、反戦運動を盛り上げる謀略工作として、英語のラジオ放送番組(ニュースやドラマなど)を制作した拠点(駿河台分室)でした。

「東京ローズ」が活動した場所と言えば分かりやすいかもしれません。(インテリジェンス研究所の則松久夫理事の論考によると、東京ローズは日系二世のアイバ・戸栗・ダキノ(1916〜2006)が最も有名ですが、東京ローズは、他にも複数いたようです)

駿河台分室は、もともと、文化学院の校舎を、陸軍が接収したのでした。駿河台の明治大学本校舎の閑静な裏手にありますが、こんな所にあるとは思いませんでした。文化学院は、和歌山県新宮市出身の教育者で、建築家、画家、詩人でもある西村伊作らが、大正10年(1921年)に創立したもので、与謝野鉄幹・晶子夫妻や芥川龍之介、佐藤春夫、山田耕筰、有島生馬ら当時の一流の文化人を講師に招聘し、1923年の関東大震災で校舎は焼失しましたが、昭和12年に西村伊作設計の独特のアーチを持った新校舎が再建されました。(個人的ながら、切羽詰まって2000年に熊野古道を巡礼し、熊野本宮大社などをお参りして、新宮に出て、市内にあった「西村伊作記念館」に入り、初めて彼の業績を知りました)

昭和18年に、自由主義者の西村伊作は不敬罪で逮捕され、文化学院は閉校となり、校舎を陸軍が接収したわけです。

戦後、復興した文化学院は、杉本苑子、山東昭子、十朱幸代、前田美波里、寺尾聡といった作家や俳優らを卒業生として輩出してます。(戦前、あの入江たか子も入学してました)

米軍の爆撃の難を逃れた文化学院の駿河台校舎では、昭和30年代は、同じ駿河台で戦災に遭った仏語学学校「アテネ・フランセ」(1913年創立)が仮校舎として同居していたそうです。

今現在は、面白いことに、衛星放送のBS11(ビックカメラの出資会社)の本社として使われておりました。参謀本部のような謀略放送はしてませんが(笑)、放送局として再利用しているとは、奇遇というか、何かの因縁を感じでしまいました。

惜しむらくは、ニュースにもなりましたが、2014年に両国にキャンパスを移転した文化学院は、今年18年3月で、本当に閉校してしまいました。ネット上では「駿河台の土地が乗っ取られた」などと色々と書かれておりますが、今回は、趣旨が違うので、これ以上は追及しません。

所長室などがあった2階

見学ツアーの案内人で、午後の講演会「参謀本部の謀略放送」の講師も務めた名倉有一氏によると、この駿河台技術研究所の所長は、藤村信雄・外務省アメリカ局1課長でしたが、駿河台分室そのものをつくったキーパーソンは、参謀本部第2部第8課(参八)の恒石重嗣(つねいし・しげつぐ)少佐(1909〜96、享年86)で、当時32歳。高知県出身で、陸士44期生。あの瀬島龍三と同期でした。

市井の現代史研究家である名倉氏は、30年前の1988年と恒石氏が亡くなる直前の96年に本人にインタビューしており、その一部をセミナーで公開しておりました。名倉氏の努力には頭が下がります。

名倉氏は、駿河台分室で勤務していた元外務省嘱託の池田徳眞(いけだ・のりざね)著「日の丸アワー」(中公新書)を読んで感動して、謀略放送の研究に没頭し、関連書「駿河台分室物語」まで出版されております。詳細は、同書に譲りますが、恒石少佐らが工作した女性アナウンサー「東京ローズ」は、かなり効果があったようで、戦後、GHQに付随して来日した記者らは血眼で東京ローズを探したそうです。

秘密組織ですから、駿河台分室に精密な放送設備があったかどうかは不明で、謀略放送は主に、スタッフが内幸町の放送会館(現在のNHK)(場所は、今の日比谷シティ辺り)に移動して、そこから太平洋諸島から米西海岸辺りにまで届く電波で放送したようです。

つまり、NHKは、戦前のラジオ放送から国家機関の一翼として、時の政府や政権の宣撫活動に協力的だったことが分かります。今でも変わらないのは、歴史が証明しています。

ちなみに、恒石少佐は昭和20年に中佐に昇格し、同年6月に四国の第55兵站参謀に赴任、後任の実質的責任者は、スパイを養成する陸軍中野学校出身の一二三(ひふみ)九兵衛少佐でした。

「駿河台分室」見学の後、我々は、近くの「山の上ホテル」にまで移動しました。(途中に外務省の官舎がありました。勿論、標識も何もありませんが、事情通の人が教えてくれました)

山の上ホテルは戦前は、帝国海軍が接収した官舎だったそうです。戦後は、GHQが、Hill Top Hotelと名称を変えて(翻訳して?)そのまま接収して、女性将校用に使われたそうです。

知りませんでしたね。

ただ、戦後は、売れっ子作家が締め切りに追われて使う「カンヅメ・ホテル」ということは知ってました(出版社も近いので)。もう随分昔ですが、ここで学生時代の友人が結婚式を挙げたので、参列したことがあります。その後、宿泊ではなくて、ホテル内のバーには結構足を運びましたが(笑)。

GHQの女性将校の宿舎は、この山の上ホテルから、神保町の駿河台下に行く道路を挟んだ所にある旧主婦の友社本社ビル(現日大カザルスホールなどのお茶の水スクエア)もそうだったようです。主婦の友社ビルは大正14年(1925年)、あの著名なヴォリーズ建築事務所が建設した名建築です。

このように、米軍は、戦後の占領計画を練った上で、病院やホテルを残すなどして空爆を行っていたことが分かります。つまり、東京に残っている戦前の建物は、何らかの形で米軍が占領期に再利用する計画だったというわけです。

近現代史を知り、知識が増えると、見慣れた同じ景色が一変するから不思議でした。

嗚呼、我が青春の巣鴨、大塚、駒込

先日、川越に行く途中、大宮駅で電車の待ち合わせ時間が30分もあったので、駅構内の本屋さんに入り、「散歩の達人」(交通新聞社)誌が、「巣鴨、大塚、駒込」を特集していたのを見つけ、思わず、久し振りに買ってしまいました。

かつて、出身大学の東京外国語大学が東京都北区西ヶ原にあったため、この辺りはよく散歩したものでした。専攻していたフランス語にかけて「ふらふら同好会」なるものを結成して、御学友の皆さんと本当に目的地も決めずに近辺をフラフラして、最後は何処かの安い居酒屋に入って談論風発の哲学論議。帰りも千鳥足でフラフラしたものでした。

大学近くの染井霊園には二葉亭四迷芥川龍之介らのお墓があり、西巣鴨の「妙行寺」には四谷怪談のお岩さんのお墓がありました。その頃から掃苔趣味があったわけです(笑)。

また、大学近くには染井銀座や霜降銀座など、長~い古い商店街があり、今から考えても、とても恵まれていました。

大学は移転したため、学生相手の麻雀屋さんやお店は残念ながらつぶれてしまいました。よくランチに通ったのはスパゲティー(パスタなんて気の利いた言葉は当時なし)の「サニー」もなくなっていました。ご夫婦がやっていたお店で、学生たちの良き相談相手でもありました。

もう一つよく通ったのが、沢山食べると胃が少しもたれますが(笑)、安くてボリュームだけは多いとんかつの「みのや」、そして、よく行ったわけではありませんが、ジャズ喫茶の「厭離庵」。検索してみたら今でも健在のようでした。

◇駒込、巣鴨は三菱村だった!

この雑誌を買ったのは、「東洋文庫」のことが掲載されていたからでした。学生時代は、フランス関係で精一杯で、中国関係にほとんど興味がありませんでしたので、行ったことはありませんでした。ということで、当時付き合っていた彼女とよく行った六義園(当時は無料公開)の隣りにあることさえも知りませんでした。

東洋文庫は、三菱財閥の三代目総帥、岩崎久弥が今の価値で70億円と言われるほどの巨費を投じて、在上海の英国人アジア研究者モリソンから購入した東アジア関係の書籍2万4000冊を誇る収蔵文庫です。収集・分類・整理に当たって活躍したのが芥川龍之介の一高時代からの友人石田幹之助でした。このことは、以前にもこの《渓流斎日乗》で書いたことがあります。

何で、東洋文庫が六義園の隣りにあるのか、この雑誌を読んで初めて分かりました。この六義園は、元禄時代の赤穂浪士事件の際に、絶大な権力を握っていた五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の別邸といいますか、隠居所だったことで知られ、私もそのことは知っておりました。

それが、明治維新後、新政府のものとなり、それを買い求めたのが三菱財閥だったのですね。何と、六義園内には岩崎邸も建てられていたとか。それどころか、今では都内の豪邸街として名高い駒込の大和郷(おおやまとごう)一帯も全て、岩崎様の敷地だったというのです。吃驚したなあ。

しかも、三菱岩崎様の御用邸の敷地は延々、巣鴨の方にまで続いていたというのです。そう言えば、巣鴨駅近くに「三菱養和会」があり、サッカーかホッケーのグラウンドなどもありました。学生時代、何で、ここにあるのかと不思議でしたが、昔から三菱様の敷地だったんですね。本当に魂消ましたよ。

◇大塚の予備校跡に新興宗教教団支部が

大塚は、予備校で一年通っていましたので、これまた懐かしい。今ではその予備校はつぶれて、10年ほど前にそこを訪れたら、今ではその敷地に、芸能人の信者も多い新興宗教の教団支部が建っていたことにはこれまた驚きました。

大塚は、恩師の故朝倉剛先生の行きつけで、小生も連れて行って下さった居酒屋「江戸一」(一度、劇団四季の浅利慶太氏が女優さんと一緒に飲んでいたのを遠くで拝見したことがありました。後にお二人は結婚)も懐かしいのですが、この雑誌には出てきませんでしたね。

巣鴨、大塚といえば、大塚の三業地帯を除けば、それほど高級というイメージではないのですが、どういうわけか、この雑誌で紹介されているお店は、ランチなのに1600円とか高めのものばかり。銀座より高い!

何か、裏で意図があるのではないかと勘繰ってしまいましたよ(笑)。雑誌では、紹介されている店の中に「35年も長く続く老舗」みたいな文句がありましたけど、小生が学生時代にこの辺りをフラフラしていたのは、もう40年以上も昔ですからね。その店は、当時なかったわけです。嗚呼、溜息が出ますよ。

新聞社が不動産屋に~スマホからの解脱~わが青春に悔なし~京大事件~恒藤恭~東洋文庫

東京・銀座並木通りの旧朝日新聞社跡に建つ高級ホテル

夏目漱石二葉亭四迷石川啄木らも働いた東京・銀座の(昔は滝山町といっていた)旧朝日新聞社跡に何か新しいビルが建ったというので、見に行ってきました。

そしたら吃驚。異国の超高級ブランの衣服と時計とホテルが横並びで、思わず通り過ぎてしまいました。とても中に入る勇気がありませんでした(笑)。以前はプロ野球のセ・リーグとパ・リーグの事務所があったりして入りやすかったのですが、とても足を踏み入れる気さえ起きませんでした。

家主は、朝日新聞社です。若者の新聞離れやら少子高齢化、日本人の教養劣化と記者の質の低下(笑)、そして今は流行のフェイクニュースとやらで、新聞の売れ行きがガタ落ちで、歴史のある大手新聞社のドル箱が、今や、紙から不動産に移っている様を如実に反映しておりました。

 

Italie

今年2018年の抱負のナンバーワンは、以前にも書きました通り、「スマホ中毒」からの解毒(デトックス)です。(笑)

ということで、電車内でスマホでこの《渓流斎日乗》を執筆することを控えることに致しました。更新もalmost毎日ということになります。

昔はメールなんかありませんでしたから、実に牧歌的な時代でした。メールも当初は、パソコン中心で、1週間に2~3回チェックする程度で、それから返信していても許されましたから、本当にいい時代でした。

今やスマホの時代ですから、いつもメールなんかを気にしていなければなりません。

今年は、スマホからの解脱を目標に掲げましたから、メール・チェック等もほどほどにすることにしましたので、返信が遅れてもお許しくだされ。

Italie

お正月休みにテレビで黒澤明監督の「わが青春に悔なし」を初めて観ました。黒澤作品全30作のうち9割は観ておりますが、この作品はどういうわけか、見逃しておりました。

何しろ、私の専門分野(笑)のゾルゲ事件と京大・滝川事件をモチーフに作られた(久板栄二郎脚本)というので、観るのが楽しみでした。

確かに京都大学・八木原教授(大河内伝次郎)の娘幸枝(原節子)をめぐる野毛(藤田進)と糸川(河野秋武)の三角関係のような青春物語でもありますが、究極的には昭和初期の軍国主義の中での言論弾圧とそれに反発する教授や学生、その中での保身や裏切り行為なども描かれています。

大学を卒業して10年、恋のライバル二人の運命は真っ二つに分かれ、糸川はエリート検事になり、野毛は、東京・銀座にある東洋政経研究所の所長として支那問題の権威として雑誌などに長い論文を寄稿したりしています。これが、ゾルゲ事件の尾崎秀実を思わせ、結局「国際諜報事件」の首魁として逮捕されるのです。

何といってもこの映画が凄いのは、敗戦間もない昭和21年の公開作品だということです。まだ占領下ですし、戦前タブーだった京大事件とゾルゲ事件を題材にした映画がよくぞ公開されたものです。

◇京大事件とは

京大事件とは、昭和8年(1933年)鳩山一郎文相が、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の著書「刑法読本」や講演内容が赤化思想であるとして罷免した事件です。

法学部教授全員が辞表を提出しますが、結局、滝川教授のほか佐々木惣一(戦後、立命館大学総長)末川博(同),恒藤恭(戦後、大阪市立大学長)ら7教授が免官になりました。

この中で、私は法学関係に疎いので恒藤恭教授の名前を近しく感じてしまいます。彼は、旧制一高時代、芥川龍之介の親友で、確か、成績は恒藤が首席、芥川が2席という大秀才だったと記憶しております。

◇石田幹之助と東洋文庫

「京都学派」に詳しい京都にお住まいの京洛先生にお伺いしたら、「芥川の一高時代の友人の中に有名な菊池寛や久米正雄のほかに、石田幹之助という東洋学者がいて、私も学生時代に習ったことがあるんですよ」と仰るではありませんか。これには吃驚。京洛先生は一体、何時代の人なんでしょうか?(笑)

「石田先生は授業中によく、芥川や恒藤らの思い出話をしてましたよ。石田先生は、三菱の岩崎財閥からの支援と要請で今の東洋文庫の基礎をつくった人です。小説の世界と学者の世界は違うんです。芥川の『杜子春』なんかも石田先生が提供した資料を使ったんですよ。何?石田幹之助も東洋文庫も知らない?」

「石田教授の師は、『邪馬台国北九州説』を主張した東京帝大の白鳥蔵吉です。『邪馬台国畿内説』を唱えた京都帝大の内藤湖南と大論争になりました。えっ?それも知らない?嗚呼…嗚呼…」