藤原道長=傲慢、悪人説は間違い?

 先日NHK-BSで放送された「英雄たちの選択」の「藤原道長 平安最強の権力者の実像」は、これまでの通説、俗説、定説を引っ繰り返すようで実に面白かったです。

 道長と言えば、三人の娘(彰子=しょうし、あきこ、妍子=けんし、よしこ、威子=いし、たけこ)を三代の天皇(一条、三条、後一条)にわたって后として送り込み(一家三后)、「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と歌って、天皇の外戚として権勢を振るった最高権力者というのが定説ですが、感情の起伏が激しくても、結構、神経症で寝込んだりするなど人間味があって、強運の持ち主だったことが分かりました。

 古代史の権威の倉本一宏氏も「道長は多面性を持った人物で、繊細でありながら豪放、寛容でありながら残忍、生真面目でありながらいい加減」と分析しておりましたが、意外にも、とても人間らしくて共感してしまいました。

 何しろ、藤原兼家の五男として生まれたので、最初から陣定(じんのさだめ=左大臣から参議に至る約20人で政策決定する)の要職に付ける立場ではなかったのに、兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったことから、一条天皇の母后だった姉の詮子の推挙で「内覧」という重職に抜擢されます。これが、出世階段を昇るきっかけとなり、道長は、最後まで姉詮子に対する感謝の念を忘れませんでした。

 有名な「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、娘威子が後一条天皇の中宮に決まった祝宴の席で詠まれたもので、権力の絶頂期とはいえ、何という傲岸不遜で、これ以上ないほど不忠とも言えます。

 しかし、この歌を書き留めたのは、道長のライバルの藤原実資(さねすけ)で(「小右記」)、道長自身は、「御堂関白日記」(国宝)に「歌を詠んだ」としか書いていないといいます(ちなみに、道長は一度も関白の職に就いていないので、題は後から付けられたもの)。道長に詳しい倉本氏によると、歌が祝賀会の二次会で詠まれたらしく、(飲み過ぎていて)本人も覚えていなかったかもしれないというのです。

 これは面白い史実ですね。

 倉本氏も、この「望月の歌」によって、藤原道長=悪人、不忠、傲慢説が広まり、これによって、残念ながら、平安貴族そのものが悪で、この後勃興する武士の方が立派だというのが日本史の通説になったのではないかと指摘しておりました。確かに、そうかもしれませんね。(当然のことながら、倉本氏は、戦国武将より平安貴族贔屓です)

 その一方で、もう少し注目しなければならないことは、教養人だった道長の文化に対する貢献です。これまで、藤原家の間で権力闘争が激しく、政権が安定していませんでしたが、道長が絶対的権力を握ることによって、国内も安定して国風文化の華が開くのです。道長は、一条天皇の后におくった彰子には、教育係の女官として、和泉式部(和歌)、赤染衛門(歌人、歴史)、そして紫式部(物語)といった後世に名を残す超一流人を付けるほどです。

 道長の最大の政争相手だった藤原伊周の姉妹の定子も一条天皇の女御(后)でしたが、その定子の女官が「枕草子」の清少納言で、紫式部と清少納言の仲が悪かったというのは頷けますね。また、一条天皇は、「源氏物語」のファンで、続きを読みたいがために、作品が手元にある彰子のもとに足繁く通ったという逸話には納得してしまいました。文化の力、畏るべしです。

 話は一挙に江戸時代に飛びますが(笑)、五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男として生まれ、全く将軍職の芽がないので舘林藩主となります。しかし、四代家綱に後継ぎがいなかったため、予期しなかった将軍になってしまいます。綱吉には「生類憐みの令」を発した悪い将軍という後付けのネガティブなイメージがあります(内分泌異常で、身長が124センチしかなかったらしい)。この綱吉の時代に元禄文化が華開くというのは、何となく、傲慢な悪い印象がありながら、国風文化を開いた道長との共通点を連想してしまったわけです。

 元禄文化の代表人物には、美術工芸に尾形光琳・乾山、菱川師宣、文学に井原西鶴や松尾芭蕉、近松門左衛門らがいます。この時代に、こんな凄い文化人が集中して活躍していたとは、何とも不思議です。

細川護熙元首相まで藤原氏の末裔だった

倉本一宏著「藤原氏」(中公新書)をやっと読了できましたので、書評ではなく、備忘録として書いてみたいと思います。

登場人物を一人一人、家系図で追いながら、いちいち人物相関図を確かめていたので、通読するのに2週間以上掛かりました。 前回書いた時は「大学院の修士課程レベル」と書きましたが、訂正します。「大学院の博士号課程レベル」でした。ここに登場する天皇、藤原氏、皇后、中宮、家系図、分家図を全て諳んじて言うことができれば、博士号取得は間違いないことでしょう。

それでは行きます。

・藤原鎌足を継いで中心に立った二男の史(ふひと)は、鎌足が亡くなった時、まだ14歳だった。幼少期は、百済系渡来人田辺氏の許で、養育された。権力取得した後は、史を「等しく比べる者がいない最高名」として不比等と改名した。

・藤原氏の礎を作った不比等の四兄弟が、その後の藤原氏の繁栄の祖を作る。(1)南家の武智麻呂(2)北家の房前(3)式家の宇合(4)京家の麻呂ーの4人だ。あいにく、この4人とも同じ疫病で亡くなった。何の疫病だったのか、この本には書かれていなかったが、洋泉社ムックの「藤原氏」には、天然痘と書いてあった。

・「御堂関白記」を残した藤原道長は、関白には就ていなかった。内覧と太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)と左大臣のみ。天皇の外戚を利用して、摂関政治の頂点に立った。

・道長のピークはちょうど今から1000年前の寛仁2年(1018年)10月、三女威子を後一条天皇の中宮に立て、二次会の宴席で、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という有名な句を詠んだ。道長の21年間に及ぶ絶対的な権力政権により、政治が安定し、女房文学の繁栄がもたらされた。(道長の末子長家の子孫が和歌を司る冷泉家)

・道長は1028年に62歳で死去。道長を継いだ頼通は、4人の妃を後宮に入れたが、皇子を儲けることが出来ず、外戚の地位を得られなかった。これが摂関政治の衰退に繋がり、院政の道を開く。道長の死後は、頼通より4歳年長の姉彰子(一条天皇の皇后で、後一条天皇と後朱雀天皇の母。紫式部、和泉式部らが仕えた)が権力を握ったが、頼通は51年間もの超長期政権を築いた。

・北家冬嗣の兄である参議真夏を祖とする日野家からは、親鸞や、室町八代将軍義政の室となった日野富子らがいる。

・北家魚名の五代目に当たる秀郷は、承平・天慶の乱を鎮圧したとして有名だが、その後、「武将の祖」と仰ぎみられ、奥州藤原氏、足利氏、北面の武士佐藤義清(西行)らを輩出する。戦国武将の大友氏、立花氏なども秀郷の子孫を自称するも確かな証拠はないらしい。

・現代の細川護熙元首相は、熊本藩主の子孫としてよく知られているが、母親温子(よしこ)は、近衛文麿の娘で、実は藤原氏の末裔でもあった!