最近書くことがなくて困ってます(笑)。
昨日も個人的な投資の話まで持ち出して、自分でも「あにやってんだか」と自戒してしまいました。以前は、頻繁にこのブログへの話題と情報を提供して頂いた方からは、時の流れで音信が絶えてしまい、仕方なく、個人的な話を書かざるを得ない事情もあります。
落語家の三遊亭とは「呑む、打つ、買う」のことらしいのですが、このまま個人的なことを書き続けていけば、あとはロマンスの話しかなくなってしまいます。渓流斎はモテましたからねえ。 えっ?そんな話、聞きたかない? はい、おあとが宜しいようで…。
それならということで、今朝、変なメールが飛び込んできたお話を書くことに致します。一昨日の11月25日にこのブログで「三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観」ということを書きました。この記事に関して、私と同世代ですが、私とは違って東京の高級住宅街にお住まいのXさんから「イチャモン、もしくは記憶違いかも、という前提なんですが、三島由紀夫らの首を掲載したスクープ写真は、毎日新聞ではなかったでしょうか?朝日新聞なら、記憶を上書きします」との大変ご丁寧なメールを頂いたのです。
何しろ、50年も昔のことですからね。私自身も記憶で書いたので自信がありません。確か、当時、家では毎日新聞をとっていたと思います。だから、家で見たわけではなく、クラスの誰かが学校に朝日新聞を持ってきた時、初めて見て本当にびっつらこいたことを覚えていたのです。
うーん、どっちだったかなあ…?
問題はすぐ解決しました。会社の資料室にある新聞の縮刷版を見たら、すぐ分かりました。やはり、朝日新聞でした。(衝撃的な写真が掲載されているので、心臓の弱い方はこれ以上見ないでください。当時はこういう写真を載せても平気だったんですね)
ということは、家ではやはり毎日新聞をとっていたのでしょう。当時の毎日新聞は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。岸田吟香(日本初の従軍記者として台湾出兵取材。画家岸田劉生のお父さん)、福地源一郎(幕府通詞から新聞人に。劇作家福地桜痴としも活躍し歌舞伎座の設立にも参加)らを輩出した東京日日新聞の流れを汲み、歴史と伝統があり、井上靖、山崎豊子、大森実ら作家、ジャーナリストを多く輩出した日本一のクオリティーペーパーでした。
それが三島事件の翌年の1971年に起きた西山事件をきっかけに凋落してしまいました。というより、読売新聞が「販売の神様」務台光雄社長(読売の総帥正力松太郎死去後の1970年5月に社長就任)の手腕によるところが大きかったのでしょう。毎日の販売店を次々と読売に鞍替えさせて、部数を増大させました。当時は「インテリが書いて、ヤクザが売る」と陰口を叩かれたほど、新聞販売は熾烈な競争がありました。
えっ?西山事件も知らない? それは困ったもんですね。 この際、御自分でお調べになってください。色んな逸話も出てきますよ。山崎豊子さんがこの事件を題材にした小説「運命の人」を書いてますし、西山太吉さん御自身も「沖縄密約」「記者と国家」など多数の著作があります。