「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開」=第41回諜報研究会を傍聴して

 3月19日(土)、第41回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)にオンラインで参加しました。テーマが「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開―現在のロシア・ウクライナ侵略の背景分析の手がかりとして」ということで、大いに期待したのですが、こちらの機器のせいなのか、時折、画面が何度もフリーズして音声が聞き取れなかったり、チャットで質問しても届かなかったのか、無視、いや、見落としされたりして、途中で投げやりになって内容に集中できなくなり、ブログに書くのもやめようかなあ、と思ったぐらいでした(苦笑)。

 ZOOM会議はこれまで何度か参加したことがありますが、フリーズしたのは初めてです。まあ、気を取り直して感想文を書いてみたいと思います。

 お二人のロシア専門家が登壇されました。最初は、名越健郎拓殖大学教授で、タイトルは、「1941年のリヒャルト・ゾルゲ」でした。名越氏は、小生の大学と会社の先輩で、大学教授に華麗なる転身をされた方ですので、大変よく存じ上げております。…ので、御立派になられた。「でかしゃった、でかしゃった」(「伽羅先代萩」)といった気分です…。現在進行中のウクライナ戦争のおかげで、今やテレビや週刊誌に引っ張りだこです。モスクワ特派員としてならした方なので、他のコメンテーターと比べてかなり説得力ある分析をされています。

 ゾルゲ事件に関しては、私自身も、15年以上どっぷりつかって、50冊近くは関連書を読破したと思います(でも、恐らく500冊ぐらいは出ているのでほんのわずかです)。この渓流斎ブログにもゾルゲに関してはかなり書きなぐりました。が、残念なことに、それらのブログ記事は私自身の手違いでほぼ消滅してしまいました。ちょうど、元朝日新聞モスクワ支局長の白井久也氏と社会運動資料センター代表の渡部富哉氏が創設し、私もその幹事会に参加していたゾルゲ研究会の「日露歴史研究センター」も解散してしまい、最近では関心も薄れてきました。(決定的な理由は、ゾルゲ事件に関して、当初と考え方が変わったためです。)

 それが、名越教授によると、日本での関心低下に反比例するようにロシアではゾルゲの人気が高まっているというのです。本日のブログ記事の表紙写真にある通り、モスクワ北西にゾルゲ(という名称が付いた)駅(左上)ができたり、ウラジオストックにもゾルゲ像(右下)が建立されたりしたというのです。

 また、今や、バイデン米大統領から「人殺しの悪党」呼ばわりされているロシアのプーチン大統領は、2年前のタス通信とのインタビューで「高校生の時、ゾルゲみたいなスパイになりたかった」と告白しており、ロシア国内では愛国主義教育の一環としてゾルゲが大祖国戦争を救った英雄として教えられているようです。

 ロシア国内では、GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)公文書館や国防省中央公文書館などが情報公開したおかげで、ここ数年、ゾルゲ関係で新発見があり、多くの書籍が出版されています。その中の1冊、アンドレイ・フェシュン(NHKモスクワ支局の元助手で、名越氏も面識がある方だといいます!)編著「ゾルゲ事件資料集 1930~45」(電報、手紙、モスクワの指示など650本の文書公開)の中の1941年分を名越教授は目下翻訳中で、年内にもみすず書房から出版される予定だといいます(私の聞き間違えかもしれませんが)。ゾルゲは独紙特派員を装いながら、実は、赤軍のGRUから派遣されたスパイで、東京に8年滞在しましたが、ゾルゲの2大スクープといわれる「独ソ開戦予告」と「日本の南進に関する電報」は1941年のことで、名越教授が「それ以前は助走期間のようだった」と仰ったことには納得します。

 フェシュン氏の本の中で面白かったことは、「ゾルゲの会計報告」です。1940年11月の支出が4180円で、尾崎秀実に200円、宮城與徳に420円、川合貞吉に90円支払っていたといいます。当時の大学卒業初任給が70円といいますから、200円なら今の60万円ぐらいのようです。情報提供料で月額60万円は凄い(笑)。これで、尾崎は上野の「カフェ菊屋」(現「黒船亭」)など高級料理店に行けてたんですね(笑)。もっとも、モスクワ当局は、41年1月に「情報の質が低いので2000円に削減する」と通告してきたので、ゾルゲは「月3200円が必要」と反発したそうです。

 もう一つ、GRUはゾルゲ機関以外に5人の非合法工作員を東京に送り込んでおり、そのうちの一人、イリアダは在日独大使館で働く女性で、ウクライナ西部のリヴォフ(現在、戦争難民で溢れている)でスパイにスカウトされ、日本の上流階級にも溶け込んでいたといいます。

 在日独大使館のオットー大使と昵懇だったゾルゲとイリアダとは面識があったでしょうが、当然ながら、スパイ同士横の繋がりは御法度で、お互いに諜報員だとは知らなかったと思われます。GRUとは「犬猿の仲」だったロシアの保安機関NKVD(内務人民委員部)も非合法の工作員を送り込んでおり、その一人でコードネーム「エコノミスト」で知られる人物は、天羽英二外務次官ではないかという説がありますが、天羽は1930年、モスクワ赴任中、ハニートラップに掛かり、スパイを強要されたいう理由には、思わず、「あまりにも人間的な!」と思ってしまいました。

 続いて、登壇されたのは、富田武成蹊大学名誉教授で、テーマは「日ソ戦争におけるソ連の情報(諜報・防諜)活動」でした。

 大変勉強になるお話でしたが、読めないロシア語が沢山出て来た上、最初に書いた通り、ちょっといじけてしまったのと、加齢による疲れで、内容が頭に入って来なくなってしまい、申し訳ないことをしたものです。(オンラインは嫌いです)

 とにかく、ソ連・ロシアの組織はすぐ名称を変えてしまうので、あまりにも複雑で難し過ぎます。諜報機関なら、KGBならあまりにも有名で、それに統一してくれれば分かりやすいのですが、ソ連が崩壊してロシアになった今は、FSB(ロシア連邦保安庁 )というようです。と思ったら、FSBは防諜の方で、対外諜報はSVR(ロシア対外情報庁)なんですね。

 いずれにせよ、ゾルゲが活動したソ連時代、ゾルゲは赤軍情報機関のGRUに所属していました。赤軍情報機関の防諜本部の方はスメルシ(スパイに死を)と呼ばれ、満洲(現中国東北部)に工作員を送り込んで、早いうちから「戦犯リスト」を作成していたようです。(だから、8月9日にソ連が満洲に侵攻した際、スムーズに日本兵を捕獲してシベリアに送り込むことができたのです)。日本は当時、「対ソ静謐」政策(日ソ中立条約を結んだ同盟国として、諜報活動も何もしない弱腰外交。ヤルタ会談等の存在も知らず、大戦末期は近衛元首相を派遣して和平工作までソ連にお願いしようとしたオメデタさぶり!)を取っていましたから、その狡猾さは雲泥の差で、既に情報戦では、日本はソ連に大敗北していたわけです。

 富田氏によると、ソ連の諜報・防諜機関はほかに、警察組織も兼ねる内務省系の内務人民委員会(NKVD)と1943年までコミンテルンの国際連絡部OMC、それに現在でも「公然の秘密」として存在する大公使館の駐在武官がいるといいます。

 KGBから党書記長、大統領に昇り詰めたアンドロポフ、プーチンの存在があるように、ソ連・ロシアは諜報機関の幹部が国家の最高責任者になるわけで、いかにソ連・ロシアは「情報戦」を重視しているかがよく分かりました。

【追記】

 ありゃまー、吃驚仰天。

 これを書いた後、主催のインテリジェンス研究所のS事務局長からメールがあり、小生がチャットで質問していたこと、それを司会者の方が見落としていたことを覚えてくださっていて、わざわざ、名越教授に直接問い合わせて頂きました。

 小生の質問は「ゾルゲが二重スパイだったという信憑性はどれくらいありますか」といったものでした。

 これに対して、名越教授から個人宛にお答え頂きました。どうも有難う御座いました。

 それにしても、何かあるとすぐに捻くれてしまう(笑)私の性格を見抜いたS事務局長、先見の明があり、恐るべし!

 

オンライン研究会で初めて「炎上」を体験=第37回諜報研究会

 9月11日(土)午後2時からオンラインで開催された第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究会共催)に久しぶりに参加しましたが、ちょっとした事件がありました。そのため、そのことをブログに書くべきか、書かざるべきか躊躇してしまい、書くのが今になったわけです。

 「ちょっとした事件」というのは、何と言いますか、戦前の帝国陸軍の軍曹か、憲兵の亡霊を見た気がしたからです。人を大きな声で恫喝したり恐喝したりすれば、黙って唯々諾々と従うと思い込んでいる人間が現代でも生きていて、日本人のエートス(心因性)は戦前から何一つ変わっていない、と思わされたのです。

 と、書いても、オンラインに参加した65人以外は、何のことやらさっぱり理解できないことでしょう。これは、あくまでも私一個人から見た感想に過ぎないので、仕方がないのですが、その時、何が起きたのか、ごく簡単に書き残すことを決意しました。

 研究会の報告者は2人で、最初は、今年6月に、南京攻略戦に従軍した、自らの曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六の足跡を追った本「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)を上梓した毎日新聞社の伊藤絵理子氏で、テーマは「南京事件と報道記者」でした。二人目は、南京大虐殺事件を描いた小説「城壁」を発表した直木賞作家榛葉英治と彼の残した膨大な日記を分析した早大の和田敦彦教授で、テーマは「南京事件研究の新たな視覚」でした。

 お二人ともテーマが南京事件に関したものなので、今回のような「ちょっとした事件」が起きる土台があったわけです。土台というのは、例えば、北方4島や尖閣列島、竹島といった領土問題、沖縄問題、そして今回の南京虐殺事件などいまだに繰り返し歴史認識が争われている問題のことで、意見の食い違いが触媒のようになり、発火すると燃え上がる事案のことです。今回はまさに炎上しました。

 「記者・清六の戦争」を書いた伊藤氏は、毎日新聞の前身である東京日日新聞の戦時中の紙面をマイクロフィルムで縁戚の伊藤清六が書いた署名記事を探訪し、本紙では短信に過ぎなかったものが、栃木県版では、写真付きでかなり長文の記事を書いていたことを発見したことが収穫であり、画期的でした。伊藤氏も「これまで、新聞報道の研究は、朝日新聞の縮刷版を元にしたものが圧倒的に多く、東京日日新聞の地方版の研究は少なかった。特に、戦争報道は、地方版の方が、その地元の師団や連隊に関する詳細な記述が多いので、今後のさらなる研究が望まれる」といった趣旨のことを話してました。

 南京事件は、1937年12月14日に起きたとされますが、清六の記事には虐殺や暴行、略奪、強姦、捕虜殺害などといったものは見つからなかったといいます。それが、当局の検閲によるものなのか、単に戦勝賛美のために自ら進んで書いていたのか分からなかったようですが…。

 早大の和田教授が取り上げた作家榛葉英治(1912~99年)は、私自身、直木賞作家であることぐらい知ってましたが、名前だけで著作は1冊も読んだことがありませんでした。榛葉英治自身は、南京事件に立ち合ったわけではありませんが、戦時中、新京(現長春)にあった満洲国の外交部(外務省)に勤務した経験がありました。

 榛葉英治が、南京虐殺を題材にした小説「城壁」を書いたのが1963年のこと。この時、中央公論社から出版を断られたりして(恐らく、1961年の「風流夢譚事件」が尾を引いていたのでしょう)、発表する当てもなく、となると、収入もなく、自宅を売り出して、やっと糊口をしのいでいたことまで日記に書かれていました。「城壁」は、未読ですが、南京安全区国際委員会と日本将兵の側の両方の視点を交差しながら、南京事件の経緯を浮かび上がらせているといいます。

◇恫喝と恐喝で炎上か?

 オンラインでの研究会が「炎上」したというのは、一人の質問者によるものです。どういう方なのか名前も所属も分かりませんが、髭を生やして実に怖そうな顔しておりました。失礼なながら60代後半に見えましたが、もう少しお若いかもしれません。質疑応答の時間に入ると、報告者の伊藤絵理子氏が若い(とはいっても中堅の記者ですが)、しかも女性ということもあって、「南京虐殺は、写真も改竄し、中国共産党のプロパガンダだという歴史認識はないのか?」などと大声で怒鳴って、「イエスかノーで答えろ!」と恫喝するのです。私なんか、思わず、「お前は山下奉文か?」と突っ込みたくなりましたが、黙ってました。そんな冗談を言える雰囲気が全くありませんでした。相手は酒を吞んでいるようで、そんなことを言えば、殺されるような予感さえありました。

 そして、アナール学派がなんとか、とか、「沖縄で米軍が毒ガスを使ったことを知らないのか?明らかにジュネーブ条約違反だ。そんな認識もないのかあー!」と罵声を浴びせる始末。さすがに、研究会の事務局の方が「そんな暴言を吐くのはやめてください。退場してもらいますよ。これは警告です」と注意すると、「この会は、言論を封殺するのかあーーー!」と来たもんだ。

 私自身は実に不愉快でした。恫喝すれば自分が優位に立てると考えているいまだにアナクロニズムな人間に対してだけでなく、あの場で、伊藤氏をかばって反論してあげなかった自分自身に対しての両方です。今でも不快です。

【追記】

 日本政府は、南京事件に関して、「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪等があったことは否定できない」「被害者数は諸説あり、政府としてどれが正しいか認定は困難」との見解を示しています。(2021年9月14日付朝日新聞社会面)

 私自身は、中国共産党による捏造に近いプロパガンダは無きにしも非ずで、「30万人」という数字は「白髪三千丈」の中国らしい誇張に近い数字だと思います。しかし、たとえ、それが数万人でも、数千人でも、虐殺は虐殺であり、日本政府の見解通り「殺害があったことは否定できない」という立場を取ります。

「冷戦期内閣調査室の変容」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」=第35回諜報研究会

 4月10日(土)午後にZOOMオンラインで開催された第35回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加しました。ZOOM会議は3回目ぐらいですが、大分慣れてきました。S事務局長様はじめ、「顔出し」しなくてもオッケーというところがいいですね(笑)。今回私は顔出ししないで、質問までしてしまいました。勿論、露出されたい方は結構なんですが、私は根っからの照れ屋ですし、失礼ながら「野次馬根性」で参加していますから丁度いい会合です。インテリジェンスに御興味のある方は、気軽に参加できますので、私は主催者でもないのにお勧めします。

 でも、研究会は、素人さんにはかなり堅い内容で、理解するのには相当厳しいと思われます。お二人の報告者が「登壇」しましたが、正直、まだお二人の著書・訳書は拝読していないので、私自身もついていくのが大変でした。まあ、長年の経験と知識を総動員してぶら下がっていた感じでした。

岸俊光氏「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

◇「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

 最初の報告者は岸俊光氏でした。早大、駒大非常勤講師ですが、現役の全国紙の論説委員さんです。諜報研究会での報告はこれで4回目らしいのですが、私も何回か会場で拝聴し、名刺交換もさせて頂きました。そんなことどうでもいい話ですよね(笑)。報告のタイトルは「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」でした。

 何と言っても、岸氏は首相官邸直属の情報機関「内閣調査室」、俗称「内調」研究では今や日本の第一人者です。「核武装と知識人」(勁草書房)、「内閣調査室秘録」(文春新書)などの著書があります。

◇内調主幹の志垣民郎

 何故、岸氏が、内調の第一人者なのかと言いますと、内調研究には欠かせない二人のキーパースンを抑えたからでした。一人は、占領下の1952年4月9日、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏(経済調査庁から転籍、2020年5月死去)です。岸氏は志垣氏の生前、何度もインタビューを重ね、彼が残した膨大な手記や記録を託され、本も出版しました。

◇ジャーナリスト吉原公一郎氏

 もう一人は、ジャーナリスト吉原公一郎氏(92)です。彼の段ボール箱4箱ぐらいある膨大な資料を岸氏は託されました。吉原氏は「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こすなど、内調研究では先駆者です(「謀略列島 内閣調査室の実像」新日本出版社 など著書多数)。吉原氏は当時、「週刊スリラー」(森脇文庫)のデスクで、内部資料を内調初代室長の村井順の秘書から入手したと言われています。私は興味を持ったのは、この「週刊スリラー」を発行していた森脇文庫です。これは、確か、石川達三の「金環食」(山本薩夫監督により映画化)にもモデルとして登場した金融業の森脇将光がつくった出版社でした。森脇は造船疑獄など政界工作事件で何度も登場する人物で、政治家のスキャンダルを握るなど、彼の情報網はそんじょそこらの刑事や新聞記者には及びもつかないぐらい精密、緻密でした。

 あら、話が脱線してしまいました。実は今書いたことは、岸氏が過去三回報告された時の何度目かに、既にこのブログで書いたかもしれません。そこで、今回の報告で何が私にとって一番興味深かったと言えば、内調を創設した首相の吉田茂自身が、内調に関して積極的でなかったのか、政界での支持力が低下して実力を発揮できなかったのか、そのどちらかの要因で、大した予算も人員も確保できず、外務省と旧内務省(=警察)官僚との間の内部抗争で、中途半端な「鬼っ子」(岸氏はそんな言葉は使っていませんが)のような存在になってしまったということでした。岸氏はどちらかと言えば、吉田茂はそれほど熱心ではなかったのではないかという説でした。

◇保守派言論人を囲い込み

 もう一つは、内調を正当化したいがために、先程の志垣氏らが中心になって、保守派言論人を囲い込み、接待攻勢をしていたらしいことです。その代表的な例が「創価学会を斬る」で有名な政治評論家の藤原弘達で、内調主幹だった志垣民郎と藤原弘達は東大法学部の同級生で、志垣氏は約25年にわたり接待攻勢を繰り広げたといいます。他に内調が接近した学者らの中に高坂正堯や劇作家の山崎正和らがいます。

 内調が最も重視したのは日本の共産化を防ぐことだったため、定期刊行物「調査月報」「焦点」などでは、やはりソ連や中国の動向に関する論文が一番多かったことなども列挙していました。

小谷賢氏「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 もう一人の報告者は、小谷賢・日大危機管理学部教授でした。ZOOMに映った画面を見て、どこかで拝見したお顔かと思ったら、テレビの歴史番組の「英雄たちの選択」でゲストコメンテーターとしてよく出演されている方だったことを思い出しました。

◇「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 報告のタイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」で、岸氏の研究の内閣調査室も小谷氏の専門範囲だったことを初めて知りました。テレビでは、確か、古代から戦国、幕末に至るまで的確にコメントされていたので、歴史のオールマイティかと思っていましたら、専門は特に近現代史の危機管理だったんですね。

 テレビに出る方なので、テレビ番組を見ているような錯覚を感じでボーと見てしまいました(笑)。

 彼の報告を私なりに乱暴に整理すると、戦前戦中にインテリジェンスの収集分析の中核を担っていた軍部と内務省が戦後、GHQによって解体され、それらの空白を埋めるべき内閣調査室が設置されたが、各省庁の縦割りを打破することができず、コミュニティーの統合に失敗。結局、警察官僚の手によって補完(調査室長、公庁第一部長、防衛庁調査課長、別室長のポストを確保)されていくことになるーといったところでしょうか。

◇「省益あって国益なし」

 戦前も、インテリジェンス活動に関しては、内務省と外務省が対立しましたが、戦後も警察と外務省が覇権争いで対立します。小谷氏によると、警察は情報をできるだけ確保しておきたいという傾向があり、外務省は、情報は政策遂行のために欲しいだけで、手段に過ぎないという違いがあるといいます。いずれも、政府に対して影響力を持ちたいという考えが見え隠れして「省益あって国益なし」の状態が続いたからだといいます。これはとても分かりやすい分析でした。将来悲観的かといえば、そうでもなく、若い官僚の中には軛と省益を超えて国益のために活躍してくれる人がいるので大いに期待したいという結論でした。

◇歴史学者の役割

 小谷氏は、明治から現代まで、日本のインテリジェンス・コミュニティー通史を世界で初めてまとめたというリチャード・サミュエルズ(米MIT政治学部教授)著「特務」(日本経済新聞出版、2020年)の翻訳者でもありました。三島由紀夫事件のことも少し触れていたので、同氏の略歴を調べてみたところ、1973年生まれで、若い(?)小谷教授にとって、1970年の「三島事件」は生まれる前の出来事だったので、吃驚してしまいました。別に驚くことはないんでしょうが、歴史学者は、時空を超えて、同時代人として経験しないことまでも、膨大な文献を読みこなしたり、関係者に取材したりして身近に引き寄せて、経験した人以上に詳細な知識と分析力を持ち得てしまうことを再認識致しました。

占領期の検閲問題=三浦義一論文も削除、木下順二は検閲官だった?-第34回諜報研究会

Pleine lune, le samedi 27 fevrier Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日27日(土)は第34回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研共催)にオンラインで参加しました。ZOOM参加は二度目ですが、どうも苦手ですね。どこか後ろめたい気持ちになり(笑)、こちらの機器と体調の関係で聞き逃したり、聞き取りにくかったりして、どうもいかんばい。あまりご参考にならないかもしれませんが、印象に残ったことを少しだけ翻案して書き留めておきます。

 報告者はお二人で、最初は短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員の中根誠氏で、演題は「GHQの短歌雑誌検閲」。同氏には「プレス・コードの影ーGHQの短歌雑誌検閲の実態」(2020年、短歌研究者)という著作があり、今回の諜報研究会司会者の加藤哲郎一橋大名誉教授も「占領下の検閲で、短歌のジャンルでの研究は恐らく初めて」と発言されておりましたが、私も全く知らないことばかりでした。

◇右翼から左翼まで幅広く

 この中で、GHQは、短歌雑誌を(1)right (右翼)(2)left(左翼)(3)center(中道)(4)conservative(保守的)(5)liberal(自由主義的)(6)radical(急進的)ーの6種類に分類して検閲したことを知りました。

 例えば、(1)の右翼に当たる短歌雑誌「不二」の場合、国粋主義的、天皇の神格化・擁護、神道主義的、軍国主義的などの理由で、何首も雑誌掲載が削除されています。この雑誌の昭和22年4月号に掲載される予定だった右翼界の大立者で、後に「室町将軍」と畏怖されたあの三浦義一氏の「璞草堂残筆」という論文もdelete ではなく、suppressedという強い表現で全面削除されている資料写真を見たときは、感慨深いものがありました。

(2)の左翼的雑誌として代表される「人民短歌」の場合、共産主義の宣伝、連合国軍司令部批判、検閲への言及などで何首も削除されています。

 この他、「フラタナイゼーション」といって、米兵が占領国民と交わる場面を詠んだ短歌も削除の対象になっています。(前島弘「町角に進駐兵と語る女の顔の堪へがたき卑屈さ」=「日本短歌」)

 私は右翼でも左翼でもありませんが、こうして見ると、占領軍の容赦ない一方的な傲慢さが垣間見えると同時に、GHQは占領を「正当化」するのに必死で、民衆の反乱を抑えるのに苦心惨憺だったということが惻隠されます。(極めてマイルドに表現しました)

2・26事件で襲撃された東京朝日新聞社の85年経った跡地に建つ有楽町マリオン=2021年2月26日

 続く報告者は、インテリジェンス研究所理事長の山本武利氏で、演題は「秘密機関CCDの正体研究ー日本人検閲官はどう利用されたか」でした。山本氏は最近、「検閲官ー発見されたGHQ名簿」(新潮新書)を上梓されたばかりで、この本に沿って講演されておりましたが、小生はまだ未読だったため、残念ながら質問すらできませんでした。ということで、この後は、自分の疑問も含めた中途半端な書き方になってしまうことを御了承くだされ。

◇木下順二は検閲官だのか?

 まず、CCDというのはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内に設立された秘密機関「民間検閲局」のことで、2万人余の日本人を使ってメディアや郵便、通信などの検閲を行っていたところです(第4区と呼ばれた朝鮮半島南部では朝鮮出身者を採用)。山本氏は「検閲で動員されるのは英語リテラシーのある知的エリートで、彼らは戦争直後の食糧難と生活苦から逃れるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた」と断罪されておりました。当時の検閲者名簿リストを入手し、この中に、Kinoshita Junji(1946年11月~49年9月、試験で90点の高成績) という名前があり、「夕鶴」で知られる著名な劇作家木下順二ではないか、と、先程の著書「検閲官」の中でも問題提起されており、今回もその衝撃的な発言をされておりました。

 木下順二本人は、著作の中ではGHQとの関係について、一切書いていないので、別人説もあり、山本氏も「百パーセント確実な証拠はない」としながらも、木下順二と関係が深かった出版社の未来社の関係者や木下順二の養女らから山本氏が直接聞いた証言(中野好夫の紹介でCCDで働いていた)などから、「本人ではないか」と結論付けておりました。

 講演の後の質疑応答で、「木下順二の世界」などの著作がある演劇研究家の井上理恵氏から「木下は熊本のかなり古い惣庄屋の出で、裕福だったので、生活苦などで協力するのは考えられない。当時は『オセロ』の翻訳が終わり、自分の作品を書いている時期で、生活が大変だったとは思えないし、関係者の証言もどこまで信用できるかどうか…。これから私自身も調べていきます」などと発言されていました。

Mont Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 このほか、CCDは、「ウオッチ・リスト」といって右翼、左翼かかわらず「要注意人物」のブラックリストを作って、彼らの郵便物や通信を監視していたようですが、私自身が興味を持ったのはメディア検閲でした。全国に検閲場所があったようですが、大阪では朝日新聞大阪本社がその会場だったとは驚きでした。朝日新聞社自体はその事実に関してはいまだ非公表を貫いているようですが、朝日の社員も検閲に協力していたということなんでしょうか?

 東京での新聞雑誌などメディア検閲の場所は、日比谷の市政会館だったようです。ここは、戦中の国策通信社である同盟通信が入居していた所で、戦後すぐに同盟が解散して、占領期は共同通信社と時事通信社が同居していた時期に当たります。ということは、英語ができる共同と時事の社員もGHQの検閲に協力していた可能性があります。これらは、後で、質問すればよかったかな、と思ったことでした。

【追記】

早速、山本武利理事長からメールが送られて来まして、朝日新聞も共同、時事両通信社も場所を提供しただけで、社員による検閲はなかったのではないか、という御見解でした。

 東京の市政会館には全国紙だけでなく、全ての地方新聞が集まって来ますし、大阪の朝日新聞にも相当数の新聞雑誌が集まってくるので、GHQの CCDにとっては、メディアを検閲するのに大変都合が良かったので、もしかしたら半ば強制的に選んだのかもしれません。

とはいえ、新聞社、通信社側も同じビル内なので、何らかのメリットが色々あったのではないか、というのが山本理事長の推測でした。