中野学校と「皇統護持工作」作戦

 東京・上野にある寛永寺。私も何度もお参りに行ったことがありますが、あまりにもの伽藍の狭さにがっかりしたものでした。

 正式名称は、東叡山寛永寺。天台宗の別格大本山で、最澄が創建した天台宗の総本山「比叡山」延暦寺の東にあるので、東叡山と名付けられ、徳川将軍家の菩提寺でもあります。

 しかし、がっかりしたのは、単なる自分自身の勉強不足のせいでした。本来、江戸時代の寛永寺は、今の上野公園の敷地がすっぽり入る超巨大な敷地だったのです。幕末の戊辰戦争、ここで、大村益次郎を中心とした新政府軍が、寛永寺に籠った幕府方の彰義隊を粉砕し(上野戦争)、焼土と化しましたが、明治6年に、日本初の恩賜公園として整備されたのは皆様ご案内の通りです。

 話はここからです。

 江戸時代、この東叡山主として、皇室から迎えることになります。1647年(正保4年)、後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し、1655年(明暦元年)に「輪王寺宮」と号し、それ以降、代々の輪王寺宮が寛永寺住職となるのです。

 先ほどの上野戦争では、彰義隊が、「最後の輪王寺宮」と言われる北白川宮能久(よしひさ)親王(1847~1895年)を「東武皇帝」として擁立し、京都の明治天皇に対抗しようとした動きがあったというのです。勿論、それは実現しなかったわけですが、もし、仮に、実現していたら、室町時代の「南北朝時代」のように、「東西朝時代」のようなお二人の天皇が存立していた可能性もあり得たのです。

 話はこれで終わりません。

ノンフィクション作家の斎藤充功氏が最近、自身の40年間の著作物を一冊にまとめて上梓された「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)を今読んでいるのですが、これまで歴史の表に出て来なかった驚愕的な事実が色々と出てきます。この「輪王寺宮」関係もその一つです。

 中野学校は、皆さん御存知の通り、諜報、防諜、調略、盗聴、盗撮、暗号解読、何でもありの情報将校を育成した名高い養成学校です。明治維新からわずか77年めに当たる1945年、大日本帝国は、米軍を中心とした連合国軍に惨敗して崩壊します。その際、日本は、「国体護持」などを条件にポツダム宣言を受け入れました。

 国体護持とは、天皇制の維持ということです。しかし、戦後のどさくで、占領軍であるGHQが、この条件を守ってくれるかどうか分かりません。そこで、中野学校の情報将校の生き残り組たちが、「皇統護持工作」なるものを計画するのです。

 簡潔に記すと、中野学校出身の広瀬栄一中佐らが、北白川の若宮殿下を新潟県六日町に隠匿し、万が一、昭和天皇が廃されたら、代わりに皇統を護持させるという作戦です。この北白川の若宮殿下とは、道久(みちひさ)王(当時、学習院初等科に通う8歳)のことで、「最後の輪王寺宮」こと北白川宮能久親王の曾孫に当たる人です。この作戦を計画した広瀬中佐は、道久王の父永久(ながひさ)王と陸士(43期)で同期だった関係で、北白川家に信頼されていました。ちなみに、永久王は、この時すでに、演習中の航空機事故で30歳の若さで殉職されておりました。また、永久王の母君である房子内親王は、明治天皇の第七皇女で、昭和天皇の叔母に当たる血筋です。

 結局、この 「皇統護持工作」 作戦は、成り行き上、日本に亡命していたビルマの首相バー・モウの隠匿作戦と並行して行われたりして、関係者が事前に逮捕され、また、マッカーサーも天皇と会見するなど国体護持の方向性を示したため、誰にも知られることなく歴史の闇の彼方に消えていきました。

 この本には、他にも色々な工作活動が出てきます。陸軍中野学校には「黙して語らず」という遺訓があるだけに、取材も大変だったことでしょう。627ページもある大著です。この数週間は、 斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社)に没頭しそうです。