Amazonプライム解約運動の影に三浦瑠璃氏あり

 世界最大のネット通販「Amazon」のプライム会員の解約運動がSNSを通して国内で広がっているという記事を読みました。

 私はアマゾンのプライム会員でも何でもないので、正直、関心がなかったのですが、今朝(8月18日付)の毎日新聞朝刊の記事を読んで興味を持ちました。

 Amazonプライムのテレビコマーシャルに国際政治学者三浦瑠璃氏とタレントの松本人志氏を起用していることに対する抗議、だったのです。この二人が何をしたのか、私は二人に関心がないので全く知りませんでした。

 この記事によると、タレントの松本氏は昨年、民放テレビの番組内で、川崎市の児童殺傷事件の容疑者について「不良品」などと発言して批判を浴びたこと。国際政治学者の三浦氏については、著書で徴兵制導入を論じたり、民放番組で「スリーパーセル(潜伏中の工作員)」という言葉を使って、「今結構大阪は(北朝鮮工作員が活動していて)やばいと言われて」などと発言したとされています。(スリーパーセルは、3パセールparcel なのかと思ったら、スリーパーsleeper・セルcellだったんですね。駄目ですねえ=笑)

 度々、舌禍事件を起こしているお笑いタレントの松本氏は、ソフトバンク携帯のCMなどにも大々的に出演していますが、ソフトバンクに対するボイコットが聞かれないことから、恐らく、標的になった中心人物は三浦氏だと思われます。

 彼女は、若くて容姿端麗で頭が良く、髪の毛も長く、弁も立つことから、メディアに引っ張りだこで、東京のM氏を含めて特に中高年のインテリおじさんたちからの受けがいいという評判を聞いたことがあります。中高年のインテリと言えば、テレビのディレクターやプロデューサーも入りますからね。彼女は、著書やテレビなどで自身の少女時代の「悲惨な体験」を告白して大いに同情を買っているという話も聞いたことがあります。(関心がない割には、よく知っていること!)

 でも、彼女の思想信条はかなり過激で、テレビ番組で「戦争したくないならお年寄りと女性に徴兵制を導入すべき」と発言して大きなテロップになっている画面をネットで発見して、思わずのけぞってしまいました。これでは、中高年の瑠璃ちゃんファンも目が覚めてしまいますね。三浦氏は1980年生まれということですから、両親は「戦争を知らない子供たち」である団塊の世代なので「戦争を知らない子供たちの子供」です。

 8月15日の終戦記念日を前後して、国内では戦争もののテレビ番組が多く放送されますが、私も結構見て、色々と考えさせられました。例えば、ノモンハン事件を起こした関東軍参謀の辻政信(陸軍少佐)、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将…。彼らは、陸士、陸大を卒業した超エリートで、ずば抜けて頭脳明晰のインテリです。最高学府の東京帝大生より賢かったことでしょう。でも、彼らは血の雨が降り、内臓がもがれた戦死者も見ることなく、安全地帯の作戦室で図面を引いたりしている軍人というより高級公務員なので、現場の苦しみや悲惨さを知りませんでした。もしくは、見て見ぬふりをしました。

 NHK映像の世紀「独裁者 3人の狂気」では、イタリアのファシスト党を率いてヒトラーにも多大な影響を与えたムッソリーニは、師範学校を首席で卒業し、英語、ドイツ語など数カ国語を自由に操る超インテリだったと紹介されていました。そう、先の大戦の指導者は全て聡明なインテリですが、学業成績の良い点数主義に勝ち残った賢いインテリこそが、結果的に国家を誤らせたわけです。記憶力抜群の頭の良い人間が、天衣無縫で理論的にすべて正しく、指導力があるという考えは偏見であって、結果的に頭の良い人間が、自己責任を放棄し、多くの民衆を犠牲にして国を亡ぼしていたのです。

 三浦瑠璃氏を見てても、容姿端麗の美しさを隠れ蓑にして、現場の悲惨さを知ろうとしない点数主義で勝ち残ったインテリの傲慢さを垣間見てしまいます。彼女は自分だけは「特別」だと思っているでしょうから、自ら徴兵制を敷いても、自分だけは一兵卒として最前線には行くことはないでしょう。

「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見ての印象記

昨晩はNHKスペシャル「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見てて、本当に嫌になってしまいました。

作家司馬遼太郎が、ノモンハン事件を題材にして小説を書こうと膨大な資料を集め、関係者にもインタビューしながら、あまりにも無謀で無責任な陸軍首脳部に幻滅して、「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した経緯があることは、つとに有名です。

ノモンハン事件は、「事件」とは言いながら、実態は戦争でした。「ハルハ河国境戦争」という歴史家もいます。1939年5月から9月に起きた、当時日本が実効支配していた満洲とソ連の衛星国だったモンゴル国境のノモンハンで起きた紛争です。日本の関東軍は2万5000人。対するソ連軍は5万7000人。しかも戦車(200両)や航空機まで引き連れてきました。

4カ月に及ぶ戦闘で日本の死傷者は2万人(ほとんど全滅)。ソ連は2万5000人。ノモンハンは今でも人が住んでいない広大な草原地帯で、約300平方キロメートルという大阪市に匹敵する広さに何千、何万という塹壕がいまだに残っており、ソ連の戦車や薬莢、手榴弾などが散乱し、日本兵と思われる遺骨まで残っていたことには驚かされました。

◇◇◇

番組では、恐らく日本初公開のロシア国立映像アーカイブのフィルムのAIによるカラー化した記録動画や、米南カリフォルニア州立大学で保管されていた150時間に及ぶ関係者インタビューテープや、ノモンハン事件の生き残り兵士で、今年101歳になる柳楽林市(なぎら・りんいち)さんらのインタビューなどがあり、見応えがありました。

21歳でノモンハンに参戦した柳楽さんの部隊166人はほぼ全滅。「兵隊を鉄砲の弾だと思っていたのだ」と、柳楽さんは79年経って今でも悔しさを滲ませていました。

「兵隊は鉄砲の弾」と思っていたのは、無謀なノモンハン戦争を立案した関東軍参謀の辻政信少佐かもしれません。周囲の上官の反対を押し切って、十分に敵の戦力を知ることもなく無謀な戦争を遂行します。司馬遼太郎が書けなかったノモンハンを、彼の編集者として取材にも同行し、遺志を継いで「ノモンハンの夏」を書き上げた作家の半藤一利氏も、辻政信を実際に取材して「絶対悪」という印象記を書いたほどでした。

番組では辻政信の次男が取材に応じて、辻政信の「父は断じて卑怯なことはしていない」という手紙を見せながら、「父は(当時)少佐ですよ。中佐や大佐や少将や中将や大将がいるので、少佐が好き勝手なことできますか?」と弁明してました。この親にしてこの子ですな。確かに卑怯なことはしていないでしょう。でも、軍人としてノモンハン2万人の戦死者の責任は誰が取るのでしょうか。

◇◇◇

150時間の肉声インタビューには、東京の大本営の作戦課長だった稲田正純参謀(大佐)、関東軍参謀だった島貫武治少佐らが登場します。「辻の声がでかくて、あいつの主張が通ってしまった」などと戦後回顧してますが、まるで他人事で責任があいまいです。ソ連軍の戦車がシベリア鉄道で大量に国境近くまで運び込まれているのを目撃したソ連駐在武官の土居明夫大佐が、辻政信に「やるべきではない」と忠告したにも関わらず、辻政信を買っていた関東軍司令官の植田鎌吉大将も、東京の板垣征四郎陸軍大臣までも黙認してしまいます。

唖然としたのは、大元帥の昭和天皇が、国境紛争にまで拡大するな、と叱責したというのに、関係者の処分もあいまいだったことです。昭和3年の満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)、昭和11年の二・二六事件では、昭和天皇の怒りを買い、関係者の処分がされたのに、この時点ではもう軍部独走で、天皇陛下の権威が失墜していたことが分かります。これで、2年後の太平洋戦争に突入し、結果的に戦争責任があいまいになってしまうのです。

◇◇◇

番組では井置栄一中佐の悲劇も明らかにしてました。井置支隊800人は、北方フイ高地で奮戦していましたが、水食料から弾薬まで尽き、通信も遮断されたことから、残った200人余りが撤退を余儀なくされます。しかし、「無断撤退」ということで、井置中佐は、第23師団長の小松原道太郎中将や辻少佐らによる「暗黙の了解」で目の前に拳銃を置かれ、自決を余儀なくされます。

井置中佐の妻は、夫の最期が知りたくて関係者に問い合わせますが、ほぼ全員が「知らぬ、存ぜぬ」と逃げてしまいます。

作戦を立てるだけで、弾丸が飛び交って死屍累々となる最前線には行かずに安全地帯にいた辻政信ら関東軍参謀の責任はなぜ問われなかったのでしょうか。彼らは、ソ連のスターリンは、西に仇敵ドイツを控えているので、これほど大量の兵器と装備をノモンハンにまで注力できるわけがないと高をくくって、情報さえ収集せず、しかも、土居武官の忠告まで無視するのですから無謀です。

辻政信は陸軍大学を首席級で卒業した超エリートで、天才と言われたそうですが、もし、そうなら、天才というのはいかに人迷惑なのでしょう。

軍人とは言いながら、所詮、兵隊に命令するだけで、人と人が殺しあう最前線に行くことがない陸軍省の文書お役人だったということでしょう。

見てて途中で嫌になってしまいました。

平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

◇◇◇

昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。