和食、洋食、中華、何でもござれ=「日本外食全史」(亜紀書房)

 ここ数週間、ずっと阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房、2021年3月22日初版)を読んでいました。3080円と、私にとってはちょっと高めの本でしたが、ちょうど銀座の資生堂パーラーや煉瓦亭など「銀座ランチ」を食べ歩いていたので、参考になるかと思い、思い切って購入したわけです。

 まあ、色んなことが書かれています。「買った者の特権」と誤解されたくはないのですが、ちょっと「ごった煮」状態で、引用が多いカタログ雑誌のような感じでした。見たことも聞いたこともないテレビドラマや漫画やアニメ、映画で使われた「グルメ」を書かれても、あまり漫画やドラマは見ない者にとってはピンと来ませんでしたし、「えっ?」と思うぐらいネット記事からの引用も多く、「今の時代の本って、ブログみたいになってしまったなあ」というのが正直な感想です。勿論、この書物の価値を貶めるつもりは毛頭ありませんし、こんな個人の感想を遥かに越えた労作です。

 戦後の外食ブームは、1970年の大阪万博がきっかけらしいのですが、とにかくよく調べています。和食、中華、洋食、何でもござれ、といった感じです。何しろ、本文、索引を入れて659ページという長尺ですから、ほんの一部、印象に残ったものだけご紹介致します。

 タチアオイ Copyright par Keiryusai

 その一つが「伝説の総料理長サリー・ワイル」です。スイス人のワイルは1927年、関東大震災復興のシンボルとして開業した横浜のホテルニューグランドの外国人シェフとして招聘された調理師でした。20世紀初頭にフランス料理を確立したエスコフィエの正統料理のほか、ドイツの地方料理も得意としたといいます。日本料理界の伝統だった、後輩に教えない悪弊を廃止し、料理人の服装や態度、飲酒、喫煙まで細かく指導して近代的システムを導入したといいます。(この本では、後に帝国ホテル第11代料理長になる村上信夫が、若き修行の皿洗い時代、鍋底に残ったスープやタレの味を隠れて覚えようとすると、先輩から、塩を掛けられたり、洗剤に浸けられてしまう逸話などが出てきます)

 ワイルは多くの弟子を育て、ナポリタンやプリン・アラモードなどを考案したホテルニューグランド二代目料理長入江茂忠、ホテルオークラの総料理長を務めた小野正吉、帝国ホテルの第四代料理長内海藤太郎、アラスカの飯田進三郎、レストランエスコフィエのオーナーシェフ平田醇、レストランピアジェの水口多喜男、東京プリンスホテルの木沢武男、札幌パークホテルの本堂正己、そして1964年東京五輪選手村の総料理長を務めた馬場久らがいます。

 先程の、若い頃に相当苦労して修行を積んだ帝国ホテル料理長の村上信夫は、NHKの「きょうの料理」で有名になった人で、私でもお名前だけは知っていました。1921年生まれの戦争世代ですから、先輩から「お前はどうせ戦争で死ぬんだから秘密は漏れない」と、やっと料理のコツを教えてもらったそうです。1942年に召集されて中国戦線へ。戦後、シベリアに抑留され、帰国できたのが1947年ということですから、恐らく満洲だったのでしょう。前線で4回も負傷し、体に残った銃弾と地雷の破片を取り出したのは1988年のことだったとは驚きでした。

◇巨人・辻静雄

 もう一人、この本で章立てて紹介されているのが、辻調理師専門学校を創立した辻静雄です。著者は「日本の特にフランス料理現代史を考える上で彼の存在は大きい」巨人と紹介しています。もともと大阪読売新聞の記者でしたが、結婚した辻勝子の父辻徳光が経営していた人気料理学校の後継ぎとして見込まれ、新聞社を退職します。早稲田大学で仏文学を専攻したので、仏語文献の翻訳を手掛け、フランスに料理修行にも行った関係でポール・ボキューズらと知り合い、1950年代末のヌーベル・キュイジーヌの勃興に立ち合うことになります。逸話に事欠かない人でしたが、1993年に60歳の若さで亡くなっています。

 でも、特に平成以降になると「辻調理師専門学校卒」の有名料理人が続出します。ミシュラン三ツ星を取った大阪HAJIMEのオーナーシェフ米田肇、「里山料理」で世界的評価も高いNARISAWAの成澤由浩、大阪の名店で「きょうの料理」でおなじみのポンテ・ベッキオの山根大助、志摩観光ホテル総料理長の樋口宏江らです。

 あ、料理そのものの話から外れて、人物論の話になってしまいましたね(笑)。勿論、北大路魯山人も登場しますが、彼はあまりにも有名なので省略します。

Copyright par Keiryusai

 私自身は、この本に出てくる高級料理よりも、ラーメン、カレー、餃子といった大衆料理の歴史の方が興味があり、面白かったです。例えば、東京・蒲田の有名な羽根つきギョウザを作り出した(1983年)のは「你好(ニーハオ)」の八木功(1934~)で、この方は旧満州旅順生まれの日本人で、苦労して引き揚げてきた中国残留者だったんですね。この人の波乱万丈の生涯は一冊の本になりそうです。(失礼!実際に本が出版されていました)

 もうキリがないので、この辺でやめておきますが、166ページの「佐多啓二」(佐田啓二のこと?)と212ページの「JR埼京線の赤羽」(間違いではないのですが、赤羽は他に高崎線や宇都宮線なども通り、一つだけ線路を書くとしたら「JR京浜東北線の赤羽」というのが関東育ちにはしっくりいく)はちょっと気になりました。あと、中華料理の歴史で、長崎、神戸、横浜の中華街の話は出てきますが、周恩来ら中国からの留学生目当てに中華料理店街になった神田神保町のことももう少し詳しく触れてほしかった。もう一つ、ファミレスの「すかいらーく」の名前は、1962年に横川兄弟が東京・保谷町のひばりが丘団地前に開いた乾物屋「ことぶき食品」が原点なので、その場所のひばり(スカイラーク)から取ったものだと聞いたことがあります。それも触れてほしかった。私が不良の中学生だった頃、よく、ひばりが丘をフラフラしていたので、個人的な理由です(笑)。

 何か、自分が「あら捜し」の小舅になったような気がしましたが、この本が「永久保存版」になってほしいので、敢えて書きました。よくぞ茲まで書いてくださいました。

(一部敬称略)

調理師M氏と15年ぶりの再会

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、小生が北海道の帯広に赴任していた頃に知り合ったM氏と実に15年ぶりに再会しました。M氏は、カレー屋さんの御主人でした。昭和というより明治時代に近い旧い古物商を、飲食店用に炊事場を設置するなど改築した雰囲気のある店でした。当時住んでいた自宅から近かったので、多い時には毎週のように通いました。

 仕事が終わって、夜8時ぐらいになることが多く、お客さんはほとんどいなかったので、次第に世間話をするようになり、一人暮らしだった私も彼と会話をするのが楽しみで通った感じでした。特に彼は、ブルースが大好きで、店内ではいつもブルースを掛けていました。私は、ブルースといえば、B.Bキングとマディ・ウォーターズぐらいしか知りませんでしたが、ライトニング・ホプキンスやアルバート・キングら通好みのプレーヤーを彼からたくさん教えてもらいました。

 で、15年ぶりの再会です。帯広から離れた後は、年賀状をやり取りする程度で、お互いのプライバシーまでは話すことはなかったのですが、今回は色んな話ができました。彼も随分苦労していたことが分かりました。まず、私が帯広を離れた翌年に、お店がつぶれてしまい、奥さんともうまくいかなくなり、別れてしまったというのです。でも、帯広市内のホテルの調理場での職を得て、その頃に知り合った美しい女性と再婚することができ、住まいも北海道から関東に移したというのです。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 彼は調理師ですから、包丁一本さらしに巻いていれば、どこでも働くことができるらしく、関東に来て約10年経つ中、もう10回ぐらい転職したそうです。ほとんどホテルの調理場ですが、長くても2年、短いと数カ月といったところでしょうか。苦労したんですね。

 彼からは「調理師の世界」を色々と伺いました。彼が料理を勉強したのは、あの有名な大阪の辻調理師専門学校で、設立者の辻静雄(1933~93)は、もともと読売新聞の記者だったんですね。知る人ぞ知る話ですが、私は初めて知りました。辻は、欧米に料理修行に出かけ、特にパリの高級レストラン「ピラミッド」の経営者ポワン夫人に可愛がられたおかげで、同僚になった若き頃のあの著名なポール・ボキューズとも親交を結ぶことができたそうです。その際の逸話もありますが、ここでは書きません。まだ東洋人に対する偏見が強い中、辻静雄も相当苦労したようでした。

 最近、パリ在住の日本人シェフの小林圭さん(42)が ミシュランの三つ星を獲得して大きな話題になりましたが、M氏は「確かに立派ですが、その前に、日本人として初めてミシュランの一つ星を獲得した中村勝宏シェフのことを覚えておかなければいけませんね。彼は70歳を超えていますが、今でも飯田橋のホテルメトロポリタンエドモントで働いていると思います。北海道洞爺湖サミットの際に総料理長を務めた人です」。あ、そうか、そう言われれば、名前だけは聞いたことがありました。

 このほか、1964年の東京五輪の選手村の料理長に抜擢された帝国ホテルの村上信夫シェフには、高橋さんという有能なライバルがいたにも関わらず選ばれたといった話や、盛んにテレビなどに出て名前を売って有名になったシェフや料理人は、かなり政治力を発揮している話なども聞きました。確かに、私も、名前につられてそうしたレストランや料理店に行ったことがありますが、高いだけで大して美味いとは言えませんでしたからね。

 あと、調理師は国家資格ですが、てっきり、中華、和食、洋食と別れているかと思っていたら、「いやジャンル別はないのです。免状があれば何でもできるんです。逆に言うと、日本で最も『甘い国家資格』とも言われてます。地方の田舎の高校教師なんか、箸にも棒にも掛からぬ生徒には『自衛隊に行け、さもなくば調理師になれ』と言うぐらいですよ」と、微妙なことまで発言してました。

 M氏は現在、関東のホテルの調理場で勤務していますが、本当はカレー屋さんを続けたかったらしいのです。しかし、帯広はカレーの激戦区で、あの有名な「coco壱番屋」も数年で撤退したそうです。

 M氏が作るカレーを食べながらブルースを聴いていた、いや、ブルースを聴きながらカレーを食べていたあの頃が本当に懐かしくなりました。