「鎌倉殿の13人」NHK大河ドラマ館、鎌倉国宝館、鎌倉歴史文化交流館へ小旅行

 いざ、鎌倉へ。

鎌倉・鶴岡八幡宮 二の鳥居

 月刊「歴史人」の読者プレゼントで、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館の入場券が当選したので、平日に有休を取って、行って参りました。

 平日にしたのは、鎌倉は一大観光地であり、今年のNHK大河ドラマで鎌倉が舞台になっており、週末は相当混むと予想したからでした。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 案の定、「鎌倉の原宿」のような小町通りを始め、平日だというのに人混みでいっぱいでした。特に、中学生か高校生らしき少年少女が、秋の遠足か修学旅行で、団体でいっぱい押し寄せておりました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それに輪をかけたのは、9月14日(水)~16日(金)は鶴岡八幡宮の例大祭に当たっていたことです。一般の参拝者も多数詰めかけておりました。

 例大祭ということで、こうして、一の鳥居付近で、「鎌倉囃子」が演奏されていました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 取り敢えず、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館に向かいました。場所は、一の鳥居を入った八幡宮内の「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」にありました。

 入場は日時指定だったため、ネットで事前に申し込んでおきました。そのため、超満員ということはなく、ゆったりと落ち着いて見学できました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 個人的に、最近、大河ドラマ館によく足を運んでおりまして、2017年の「おんな城主 直虎」(井伊直虎=浜松市)、2020年の「麒麟がくる」(明智光秀=岐阜県)、2021年の「青天を衝け」(渋沢栄一=東京都北区飛鳥山)以来4度目です。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 これまた、個人的な話ですが、私がNHKの大河ドラマにハマったのはつい最近のことです。子どもの頃見ていたのは、「源義経」(1966年)と「天と地と」(1969年)と「樅ノ木は残った」(1970年)ぐらいでした。

 あとは、長じで、仕事として見ることになった「太平記」(1991年)だけです。後は、タイトルを知っていても、中身はほとんど見ていませんでした。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 それが、どういうわけか、大河ドラマにハマって見るようになったのは、2016年の「真田丸」からです。それ以降の「おんな城主 直虎」「西郷どん」「いだてん~東京オリムピック噺~」「麒麟がくる」「青天を衝け」「鎌倉殿の13人」と、7年連続、大体見ています。

 こうして振り返ると、月日の経つ速さには唖然としてしまいます。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 その、今年の「鎌倉殿の13人」ですが、正直、あまり、面白くありませんね。分析すれば、スタジオ撮影が多く、野外での合戦シーンがほとんどないせいだと思います。

 本来、源平合戦と内部抗争の話で、おまけに平泉での源義経追討の合戦も見どころだったはずなのに、弁慶の立ち往生もないのですから、拍子抜けしました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 大河ドラマ館は30分ほどで引き揚げて、鶴岡八幡宮に久しぶりにお参りすることにしました。

 鶴岡八幡宮は1063年、河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりと言われています。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それを現在にも残っているような若宮大路を整備し、鶴岡八幡宮を移して拡張したのが、1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。若宮大路は、妻政子の安産祈願も兼ねていたようです。

 八幡宮ですから、武運の神をまつっています。

 鶴岡八幡宮では、「応神天皇」「神功皇后」「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしています。

 八幡宮内では、流鏑馬や相撲や放生会などの「神事」が行われ、鎌倉の精神的、文化的支柱になっていたようです。

 私も、普段より多めのお賽銭を奮発し、ウクライナ戦争が早く終わるよう世界平和と万人の健康をお祈りし、またまた健康長寿のお守り(800円)を買い求めました。

鎌倉国宝館

 大河ドラマ館は、想像していた通りでしたが、大いに期待したのは、大河ドラマ館の入場パンフレットを提示すると、鎌倉国宝館(大人300円)と鎌倉歴史文化交流館(同)に無料で入場できることでした。そのため、事前にホームページで、両館の休館日をチェックして、日曜日と月曜日を避けることにしたのでした。

 この中で、鎌倉国宝館は大正解でした。館内での写真撮影は出来ませんでしたが、国宝、重要文化財の仏像(如来、菩薩、明王、天)や高僧像などがズラリです。私が特に感動したのは、本などの写真ではよく拝見していた「北条時頼坐像」(重文)を目の前で見ることができたことです。思わず、「えっ? これ本物?」と声をあげそうになりました。

 北条時頼は第五代執権で、三浦泰村一族を滅ぼすなど得宗独裁政権を確立した人でもあります。一方で、仏教、特に禅宗に信仰が篤く、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を建立しています。

 晩年は出家して、最明寺の入道とも呼ばれ、日蓮が「立正安国論」を献本したのがこの最明寺の入道であり、能の「鉢の木」や「徒然草」などでも登場します。

鎌倉歴史文化交流館

 次に向かったのが、「鎌倉歴史文化交流館」です。地図で見ると、若宮大路の二の鳥居辺りで、西に進み、小町通りを突っ切り、東海道線の踏切も渡り、くねくねした軽い坂道を登ったところ(扇が谷)にあるようでした。

 9月半ばだというのに、30度の暑さで、辿り着くだけでふうふうでした。

鎌倉歴史文化交流館

 館内では、「吾妻鏡」の原本(写本)らしきものが展示されていたり、大佛次郎、川端康成ら「鎌倉文士」の足跡を辿るビデオが流れたりしていました。

鎌倉「カフェ ミルクホール」

さて、昼時になったので、一度行きたかった鎌倉「カフェ ミルクホール」を目指しました。

今は便利な時代になり、スマホのグーグルマップで検索して、「徒歩」を押すと、自動車のナビゲーターみたいに、「次を右折して」とか「次を左折して」とか言ってくれるのです(笑)。

 いやはや、本当に便利な時代になったもんです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セット 1300円

 鎌倉「カフェ ミルクホール」のお目当ては、白クリームのオムライスであるこの店の名物「オペラライス」です。随分昔に、何かの雑誌か、テレビで知ったもので、いつか一度、チャレンジしたいと思っていたのです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セットの珈琲とデザート 1300円

 オペラライスは上品な味でしたが、量はそれほど多くないので、若い男性諸君では物足りないかもしれません。

 が、私のような年配者なら大丈夫です。昭和初期のミルクホールというより、大正ロマンを感じさせる店の雰囲気は何物にも代えがたく、ゆっくり落ち着けました。

古代律令制の崩壊と中世武家社会の誕生=荘園を通して考える

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、鎌倉幕府、延いては、中世史に興味を持つようになりました。NHKの影響力は恐ろしい。

 と思ったら、博報堂系列会社の調査(今年1、2月、15~69歳男女652人回答)によると、生活者の1日当たりのメディア接触時間の平均が、2006年の調査開始以来初めて、スマホがテレビを抜いたというのです。スマホは1日、146.9分、テレビは143.6分だったとか。テレビよりも、スマホの影響力の方が大きくなった、ということです。(6月15日付日経朝刊)詳細は分かりませんけど、若者は圧倒的にスマホで、高齢者は、まだまだテレビかもしれませんけど。

 いずれにせよ、テレビの影響で、鎌倉幕府を勉強し直したら、これが滅法面白い。中世は、日本史の中でも特異な時代で、思っていた以上に大変革期の時代でした。でも、源頼朝が鎌倉幕府を開いたとか、承久の乱で、天皇の権威が失墜して武家政権の時代が確立した、といった政治面の話だけでは満足できず、たまたま会社の近くの書店で立ち読みして面白そうだった武光誠著「荘園から読み解く中世という時代」(KAWADE夢新書、2022年1月30日初版)という本を購入しました。(この書店は、築地の東劇ビルにあった「リブロ東銀座店」でしたが、5月末で閉店してしまいました!こうした偶然的な本との出合いがなくなってしまい、誠に残念です)

 この「荘園」の本は、古代から中世にかけて、日本人の経済的基盤となった荘園について詳述したもので、荘園というキーワードで日本の歴史を読み解いていくと、表に出てきた紛争や戦乱、政権交代などの原因がよく分かるのです。所詮、人間というものは、経済(=石高や金)によって動く生き物だということなのでしょうね(笑)。

 まず、702年に大宝律令が施行され、朝廷(=天皇)に租庸調の税金を納める律令制度が始まります。が、743年に墾田永年私財法が制定されたことで、租税だけで済むようになり、貴族や寺社が原野を切り開いて「初期庄園」(平安時代半ばから荘園)を始めるようになります。

 この庄園で働いていた農民の中には、農作物を貯め込んで裕福になり、「富豪層」と呼ばれ、その多くが10世紀に最下級の武士になったと考えられるといいます。同時に中央の上流貴族(公卿=左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)社会から排除された中流貴族が地方に移住し、朝廷とのつながりを保つために自領を荘園にします。また、上流貴族から「卑しいもののふ」と蔑まれていた桓武平氏、清和源氏などの軍事貴族も郡司に代わって村落の小領主を束ねるようになったといいます。一方、朝廷から任命された国司は、現地に赴任せず、地元の小領主らに租税を納めさせ、その領収書を受け取るだけだったことから、「受領」と呼ばれたりしました。

 いわゆる摂関政治は、藤原道長、頼通親子でピークを迎え、頼通は日本最大の荘園の領主となります。しかし、この頼通とその弟の教通(のりみち)が皇室に送り込んだ后に、皇女しか生まれなかったことから、天皇の外戚として権勢を振るっていた藤原氏による摂関政治は崩壊します。この機会を逃さなかった後三条天皇は、息子の白河天皇に譲位して、自らは上皇として院政を敷こうとします。つまり、摂関家という母方から、上皇という父方によって、天皇の権威と影響力を取り戻そうとしたというのです。いやあ、この著者の武光氏の解説は、目から鱗が落ちるように、院政がスッと理解できました。後三条上皇は院政を始める直前に病没してしまいますが、この後三条天皇から日本の中世が開始するという学説が今は最も支持されているようです。

 院政を始めた白河上皇は、院領荘園の設置に取り掛かります。この時、源義家や平正盛・忠盛親子らは、警備を務める北面の武士の一員として白河院に接近し、その院の引き立てによって国司(受領)となり、財力をつけたことから、荘園は、武士台頭の経済的基盤になったわけです。そして、彼らの子孫である平清盛や源頼朝が、天皇や上皇を差し置いて、政権を握るようになります。

 承久の乱で、天皇らの荘園も没収されて、関東の御家人に分配されたので、鎌倉武士が獲得した領地を荘園とは呼ばないと思いますが(いや、御家人たちは、戦利品で獲得した荘園を所領地とした、という言い方の方が正しいので)、この荘園制度は、細々ながらも鎌倉、室町、戦国時代と引き継がれ、豊臣秀吉による「太閤検地」で終焉を迎えました。この古代から長い歴史のある荘園制度を終わらせた秀吉は、所領を守るために武装化した農民から「刀狩り」もしたわけですから、やはり、革命的な凄い人物だと改めて思いました。

【追記】2022・6・16

 鎌倉時代初めまで、京都の朝廷が最新の技術と学問と文化を独占していたといいます。それが、地方にまで技術や文化が浸透していったのは、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など鎌倉新仏教の僧侶のお蔭だった、と著者の武光氏が書かれていたことを追記するのを忘れておりました。

 これまでの旧仏教(南都六宗)は、あくまでも、天皇皇族や貴族のための宗教で、国家鎮護が目的でした。それを、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、苦行をしなくても、庶民でも救われるという革命思想を唱えたのが法然でした。地方に布教した僧侶たちは、読み書き、算盤まで庶民に伝えたのではないでしょうか。

 日本にお茶を伝えたのが、臨済宗の開祖栄西だといいますから、それに伴う生け花やわびさびなど現代にまで伝わる日本文化を広めたのも新仏教の僧侶だったわけです。

 

比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=「鎌倉殿の13人」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が1月9日にスタートし、初回の視聴率が17.3%(関東)で、「そんなに低いのか」と思っていたら、16日の2回目は14.7%と2.6ポイントもダウン。最近、「見逃し配信」で見る人も多いので、視聴率に反映されませんが、2回目で視聴率が下がるのは6作連続らしいですね。1987年の「独眼竜政宗」(主演渡辺謙)が記録した最高視聴率39.7%は、夢のまた夢で、もう実現することはないかもしれません。

  「鎌倉殿の13人」 は、二代執権北条義時(小栗旬)が主人公で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を支え、頼朝の死後は、承久の乱で、約650年続く武家政権の礎を築いた武将の物語ですが、何となく通好みのような気がします。何しろ、戦前は、義時は承久の乱で後鳥羽上皇を隠岐に配流するなどしたため、「逆賊」「悪党」扱いでしたから、とても小説や舞台の主人公になりえませんでした。

 時代は変わるもので、最近の歴史研究では、当初は、朝廷に対して弓をひくことなど考えもしなかった義時で、むしろ、無理難題を押し付けて挑発した後鳥羽上皇側の方に無理があったという学説に傾いているようです。つまり、義時の評価が見直されたわけです。

 いずれにせよ、私自身、北条氏といえば、まずは「尼将軍」政子であり、あとは初代執権の時政か、御成敗式目を制定した三代泰時か、元寇を退けた八代時宗ぐらいがキーパースンだと思っていましたから、義時についてはあまりよく知りませんでした。でも、私は真面目ですから(笑)、ここ数年は鎌倉にまで出掛けて義時所縁の寺社仏閣巡りをしたり、関連本を読んだりして勉強しました。

 そして、今月は、大河ドラマに便乗した「歴史人」(「鎌倉殿と北条義時の真実」特集)(ABCアーク)と「歴史道」(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)の2冊も宣伝に乗せられて買ってしまいました。

 今は「歴史人」の方を読んでいるのですが、非常にマニアックで、正直、読むのに難儀しています。なかなか頭に入ってくれません。

 大学入試の「日本史」で、「頼朝の死後、『13人合議制』になったが、その有力御家人13人を全て書け」という問題が出たら、全員は書けませんね(苦笑)。

 しかしながら、この13人の曲者同士が仲良く末永く穏便に暮らせるわけがなく、凄まじい、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられます。最終的には、父親である初代執権の北条時政を追放した義時が最高権力者の座(二代執権)に就くことになるのですが、その間、例えば、頼朝の「右腕」として鎌倉幕府成立に粉骨砕身した梶原景時は、御家人66人からの連名で「糾弾訴状」を突き付けられて失脚します。景時は、目付役として義経を貶めた人物とされ、御家人の監視役として恨みを買ったと言われます。一方で実務に長けた優秀な人材だったという説もあり、権力闘争に巻き込まれた形で、嫡男景季から九男景連らを含む梶原一族33人は殲滅され、路上で首を晒されたといいます。怖ろしい。

 他に、殲滅された有力御家人の中には和田義盛や畠山重忠(居城は埼玉県武蔵嵐山市の「菅谷館」)らもおりますが、本日は比企能員(ひき・よしかず)を取り上げます。

 比企能員は、源頼朝の乳母だった比企尼の甥で、その養子になった御家人で、源平合戦で鎌倉方の幕僚として活躍します。(比企氏が一帯を支配した武蔵国は、埼玉県比企郡として今も名を残しています。比企氏は大資産家でしたが、北条氏によって比企氏の事績や勲功が「吾妻鏡」から削除されたため不明な点が多いといいます)。比企能員の娘の若狭局が後の二代将軍頼家の妻となり、長子一幡(いちまん)を生んだことから、能員は二代将軍の義父、三代鎌倉殿候補(一幡)の外祖父として強大な権力を握ることになります。

 これに危機感を持った北条時政が、比企能員に謀反の疑いがあるという謀略を仕組み、時政の自邸に招いて部下の天野遠景、仁田忠常に殺害させ、息子の北条義時には、比企氏の館を襲撃させて、幼い一幡もろとも比企一族を殲滅します。時政は、比企氏の血が濃い一幡よりも、娘の政子が生んだ千幡(せんまん=頼家の弟で、一幡の叔父に当たる。後の三代将軍実朝)を将軍にしたかったためでした。(慈円「愚管抄」)

鎌倉・妙本寺

 この北条氏によって滅ぼされた比企一族の館跡には、妙本寺が建立され、私もお参りしたことがあります。この寺は、比企能員の末子で、事件当時は京都で勉学中だったため生き延びた比企能本(よしもと)が文応2年(1260年)に日蓮宗に帰依して建立したものです。

 境内には比企一族の供養塔もあります。当時の比企館の一部でしょうが、妙本寺は広大な敷地でした。鎌倉時代は想像した以上に血なまぐさい武力闘争が頻発していたことを改めて思い起こしました。

 1980年代の往年のアイドル歌手で、今も女優として活躍する比企理恵さんは、比企一族の末裔と言われ、御先祖を意識して、全国の寺社仏閣巡りを心掛けているという話を聞いたことがあります。