「地名は災害を警告している!」はとても参考になる=「歴史人」1月号「地名の歴史をたどる」特集

  「歴史人」2022年1月号(ABCアーク)の「地名の歴史をたどる」特集は、本当に勉強になりました。

 こんなに賢くなっていいのかしら?と思うぐらいです。

 「地名が分かれば、人名が分かる」ということで一石二鳥です。日本人は、地名に由来する名字が多いからです。地名由来の名字でよく使われる字として、「山」「川」「池」「田」「沢」 「塚」「窪」が挙げられていましたが、例を出すまでもなく、誰でもすぐ名字が思い浮かぶことでしょう。

 この本に出て来た地名などで、面白かった由来などを列挙してみるとー。

調布(東京)=古代の高句麗から渡来人が持ち込んだ麻の栽培が盛んで、麻を調(人頭税)として納めたことから名付けられた。

桑原=菅原道真の領地だった所で、桑原に一度も雷が落ちなかったので、「くわばら、くわばら」と唱えれば、雷は落ちないと信じられた。

一関市(岩手)、霞ヶ関(東京)、関市(岐阜)、下関(山口)…=古代から江戸時代にかけて関所があった所。

会津若松(福島)=蒲生氏郷が会津黒川から改名。

福岡=黒田長政が曽祖父高政が備前国(岡山)福岡に住んでいたことから命名。

赤坂見附四谷見附牛込見附などの「見附」は、見張り番所が置かれた所を指すが、見付には「水付き」の意味もあり、静岡県磐田市見付は、古代はこの辺りまで海水が湾入していたことから付けられた。

・東京の駿河台は、徳川家康付の旗本(駿河衆)が家康の死後、駿府から移り住んだ台地という説と、ここから駿河国の富士山を遠望できたからという説がある。

両国(東京)=明暦大火後、隅田川右岸の下町(武蔵国)と左岸の本所(下総国)を結ぶ橋が架けられ両国橋と呼ばれ、界隈の地域を両国と呼ばれるようになった。「忠臣蔵」の吉良上野介は、浅野内匠頭の殿中事件の後、江戸市中の邸から本所に移転された、という史実は、下総国に配置転換されたということになり、何か幕府の隠された意図があったかもしれない。

鎌倉 浄智寺

 この本で一番参考になったのが、「地名は災害を警告している!」という記事でした。

 過去に水害があったり、崖崩れがあったり、起きやすかったりした所にはそういった地名が付けられていたのです。

 例えば、「落合」は川の合流点という意味で、水害があったか、起こりやすい地域。東京には上落合とか下落合とかいった地名があります。

 「窪」「久保」は、土地が低い窪地ということで、水害があったか、起きやすい所。東京には荻窪(善福寺川)や恋ヶ窪といった地名があります。

 このほか、水害関連の地名として、「芝浦」「柴又」「巣鴨」「銚子」「鶴巻」「幡ヶ谷」「灘」「沼田」「弘前」「舞鶴」「野洲」「龍ケ崎」「龍ノ口」「十和田」「岸和田」などを挙げています。

鎌倉 浄智寺

 崩落や土砂災害に関連した地名として、「阿波(安房)」、「我孫子」、「嵐山」、「有馬」、「柿の木」、「喜多方」、「駒込」、「駒場」、「巨摩」、「信濃」、「苗場」、「野毛」、「日向」、「茗荷谷」、「桃山」、「雪谷」、「鷲津」などが挙げられています。

 これらの地域は、過去に災害があっただけで、現在は安心できるかといえば、そうでもなさそうです。例えば、2018年の西日本豪雨で51人が犠牲になるなど甚大な被害を蒙った岡山県倉敷市の真備地区の川辺集落は、過去に何度も被害に遭っていました。「川辺」は川の側を意味し、明治の頃は、周囲を囲む堤があったほどだったといいます。同地区の「箭田(やた)」も低湿地を意味し、「桑の市」の「桑」は土砂災害や氾濫が起きやすい所として全国的にも使われています(桑名、桑江、桑野など)

日本人のルーツを求めて考えたら頭が混乱してしまいました

 退職金約6000万円が貰える東京高検・前検事長の黒川弘務氏は、週1~2回、多い時は週3回、遅い時は夜中の2時まで賭けマージャンに興じていたということです(「週刊文春」6月4日号)。そんなことをしていたら、本を読んだり、勉強したりする暇があるのかしら?-なんて、浅はかな私なんかは思ってしまいました。黒川氏は、超エリートのインテリですから、法律の知識は豊富でしょうが、社会常識や教養には欠けているのかもしれません。

 他人様のことですから、どうでもいいのですが、国民の税金が彼に使われているので、一言諫言を述べたかっただけです。私自身は専門知識もない、インテリでもない、ただの凡夫ですから、他人様から後ろ指を指されないように、麻雀もパチンコも競輪競馬も競艇も、博打はせずに只管、寸暇を惜しんで勉強するしかないのです。自粛生活でここ何カ月も友人たちにも会っていないし、飲みにも行かず、遊んでいないなあ~。

◇澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」

 さて、古代史は面白いが、むつかしい。-というのが、澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」(新泉社、2004年6月20日新装版第2刷)を読んだ感想です。古代大和朝廷は、朝鮮半島からの「渡来王朝」だったという大胆な結論を導きだしています。

 この1週間以上、この本に掛かりっきりでしたが、どこまで信用したら良いのか、頭が混乱してなかなか読み進むことができませんでした。そりゃそうでしょう。「文武天皇は新羅の文武王のことだった」「天武天皇は新羅の王族金多遂(キムタジュク)だった」(佐々木克明「騎馬民族の落日」)「壬申の乱は、百済・新羅の代理戦争だった」などと言われれば、「えっ?どういうこと?」になりますよ。

 1927年生まれの著者は、第一高等学校から東大法学部卒業後、都立高校の社会科教師を長年勤め、教頭を最後に定年退職し、その後、在野の古代史研究家になった人です(政治、経済関連の書籍も多く出版。2014年死去)。この本は、通説、俗説、異論、独自解釈…を集めたような感じで、学会で認められている「正史」ではなく、いわば「稗史」となるのかもしれませんが、無暗に読み捨てておけないところがありました。正直、途中で読むのが嫌になることもありましたが…(笑)。(秦の始皇帝はユダヤ人だった、という説には引っ繰り返り、源義経はジンギスカンだったという説を思い出しました)

 何しろ、日本の古代史の最も重要な文献である「古事記」や「日本書紀」(以下記紀)には、歴史的事実をそのまま叙したとは言えない創作的な神話があることはよく知られていますが、日本の歴史だというのに、やたらと朝鮮半島の百済や新羅や高句麗の情勢が登場することはあまり知られていません。(記紀を原書で通読した現代人は果たして何人いるのかしら? 私も記紀は、現代語訳でしか読んだことがありません)

 例えば、「日本書紀」では舒明天皇について、「十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。」(即位13年冬10月9日。舒明天皇は百済宮で崩御された。18日、宮の北で殯(もがり=葬送儀礼)が行われた。これを百済の大殯と言う。)といったことが書かれています。何故、日本の天皇(この時代は大王と呼ばれていましたが)なのに、百済式の殯が執り行われたのでしょうか?…。

 記紀がこういう書き方だと、古代史学会による正統な歴史解釈のほかに、在野の研究者や好事家らによる独自解釈も数多あります。特に、「万世一系の天皇制」を論議することがタブーとされていたことが、敗戦後に一転して自由な研究が解放されましたからね。

 もう少し例を出すと、本書では、645年の乙巳の変(大化の改新)は、「百済系」の蘇我蝦夷・入鹿「政権」に対する「新羅系」の中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターだったというのです。中大兄皇子と鎌足の背後には、革命の正当化を訴えた南淵請安(みなぶちのしょうあん)らがいたといいます。彼らは、遣隋使で新羅経由で帰国して親・新羅派になったといいます。(南淵請安は、昭和初期の血盟団と五・一五事件の海軍青年将校らの精神的支柱だった農本主義者・権藤成卿が最も影響を受けた人物の一人。権藤は、大化の改新の理論的指導者だった請安に倣い、昭和維新を唱えたといいます。南淵請安は、渡来人である東漢氏=やまとのあやうじ、後漢の霊帝の末裔が帯方郡から3世紀頃に渡来=出身だといわれています)

 (新羅派のはずだった中大兄皇子は、天智天皇として即位すると、百済系渡来人を重用し、壬申の乱後に即位した天武天皇は、新羅系で二人は兄弟ではなかったと書かれていましたが、何か、よく分からなくなってしまいました)

赤は百済と平氏、白は新羅と源氏

 この本では、新羅系は白旗がシンボルで、清和源氏に受け継がれ、百済系は赤旗で、桓武平氏に受け継がれ(桓武天皇の生母高野新笠は、百済系渡来人の末裔だった=「続日本紀」)、平安以降、鎌倉幕府の源氏の源頼朝から平氏の北条氏に変わり、それが室町時代になると源氏の足利尊氏、その後、平氏の織田信長~豊臣秀吉となり、江戸幕府を開いた徳川家康は源氏と交互に政権が交代したという説を展開しています。

 肝心のタイトルにもなっている「ヤマト国家は渡来王朝」というのは、天皇族は朝鮮半島の南端に古代にあった伽耶辺りから渡来してきたという説です。ただし、彼らは、現代の北朝鮮人や韓国人の祖先ではなく、北方からスキタイ系の騎馬民族が朝鮮半島南部に住み着き倭人と呼ばれた人たちで、そこから北九州などを経由して畿内に到達したというものです。となると騎馬民族説ですね。(スキタイ人は鉄器を匈奴や漢に伝え、鉄器は、朝鮮半島南部から日本に伝えられたので、そのような倭人がいたかもしれません)また、ヤマトに国譲りをした出雲も鉄器製作が盛んでしたが、出雲族は、もともと朝鮮南部の安羅からの渡来人の子孫だとする学者もいます(朴炳植氏の説)。

 古代は、現代人が想像する以上に遥かに多くの人が、大陸から、そして半島から、日本列島へ行き来していたようですから、古代人の間では、それほど国家や民族を意識することなく、混血が進んでいたことでしょう。(神話のスサノオノミコトも、出雲と朝鮮半島の新羅を行き来していました)

 そして、ヤマトが百済の王族を人質として預かったり、百済の要請でわざわざ朝鮮半島の白村江まで遠征して唐や新羅と何故戦ったのか、などについては、朝鮮半島南部に拠点を築いて住み着いた倭人がいなければ、理由が説明がつかないことでしょう。

 私自身は、「日本人はどこからやって来たのか?」という深い疑問の原点があって、古代史に興味を持ちましたが、「日本人とは何か」となると、この本を読むと、多少、混乱してしまいました。

◇日本全国に残る新羅、百済、高句麗

 とにかく、記紀には新羅、百済、高句麗が頻繁に登場します。同書によると、まず「新羅」については、新羅神社という名の社が、青森県八戸市、静岡県浜松市、岐阜県多治見市など全国に9社あり、全国に2760社ある白山神社も新羅に起源を有する神社で、その他、白木、白子、白石、白髭などの地名は日本に移住してきた新羅人が付けた名前だといいます。

 「百済」は、大阪府枚方市に百済寺跡があり、そこの隣接地に百済王神社がある。その他、各地に多くの百済神社があり、大阪市旧鶴橋町一帯は、もともと百済郷と呼ばれていたといいます。

 「高句麗」は、「続日本紀」の霊亀2年(716年)の記事に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以て武蔵国に遷し、初めて高麗郡を置く」とあり、現在も埼玉県日高市に高麗若光を祀る高麗神社・聖天院がある。この高麗氏から駒井、井上、神田、武藤、金子、和田など多くの氏族が派生し、東京には狛江市や駒場、駒場、駒込、駒沢など駒(高麗)が付く地名が多い。関東地方には高句麗系の渡来者がかなり多かったといいます。今は日本人として同化したということでしょう。

 これらは「説」ですから、歴史的事実かどうか分かりませんが、日本人のルーツは、朝鮮半島や中国大陸、そしてユーラシア、東南アジア、南太平洋等から渡来した人たちということになるのでしょう。

 もっと勉強しなければいけませんね。賭けマージャンをやってる暇はありません(笑)。

「倭の五王」は確定できず=1600年経っても全く変わらない東アジア情勢

 このブログで4月14日(火)に書いた「1970年の『レット・イット・ビー』から半世紀も経つとは…」では、全く個人的な音楽遍歴を遠慮しながら書いたのに、コメントとメールで意外にも多くの皆様から反響を頂きましたので、吃驚です。

 音楽の話はいいですね。またマニアックな話を書きたいと思っていますが、今日は一つだけ追加しておきます。10代の頃から洋楽ばかり聴いてきた、と書きましたが、邦楽も、レコードは買いませんでしたが、結構聴きました。私が中高生の頃は、フォークソングが大ブームだったからです。吉田拓郎や井上陽水といったメジャーだけでなく、深夜放送などで、頭脳警察やNSPなど聴いている変わり者でした。当時、大人気で「フォーク界の貴公子」と呼ばれたケメこと佐藤公彦さん(1952~2017)は今どうしているのか調べたら、65歳で亡くなっていたんですね。もう若い人は誰も知らないでしょうが…。

 ニューミュージックにしろJ-POPSにしろ邦楽が厄介なのは、死んでもいいくらいという熱烈なファンがいることです。いつぞや、何かの拍子に、会社の先輩に「僕は、ユーミンとか中島みゆきとか、あまり好きじゃないんですよね」と言った途端、彼は烈火の如く怒りだし、「ファンに失礼じゃないか!」と常軌を逸した怒り方で、私も殺されるかと思いましたよ。

 前置きが長くなりましたが、今日は、昨日読破した河内春人著「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(中公新書、2018年1月25日)を取り上げます。古代史に興味を持っていることを知った会社の同僚の矢元君が貸してくれたのでした。2年前の本ですが、凄い本でした。小林秀雄の真似をすれば「頭をガツーンと殴られたような衝撃」でした。古代史は不明なことが多く、最後は推測するしかないので、この本もミステリー小説のように、「この先どうなるのだろう」とハラハラ、ドキドキしながら読めました。

 ただ、読後感がすっきりしないのは、結局、真相がまだ分からないせいかもしれません。倭の五王とは誰のことか、決定付けられないのです。しかし、逆にそれが古代史の醍醐味なのかもしれません。

 「倭の五王」とは、西暦421年から478年にかけて、中国南朝の「宋」に使者を派遣した讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人の大和朝廷の大王のことです。当時はいまだに「天皇」の称号は使われていませんでしたが、讃は、第15代応神天皇か第16代仁徳天皇か第17代履中天皇、珍は、第18代反正天皇、済は、第19代允恭天皇、興は第20代安康天皇、武は第21代雄略天皇という説が有力です。5世紀の「宋書」夷蛮伝倭国条(そうじょ いばんでんわこくじょう)に書かれ、本書では頻繁に引用されます。

 「説が有力」と書いたのは、日本の唯一の原資料である「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)と照合すると、当該天皇と在位年代が合わず、矛盾を生じるからです。しかし、倭の五王から約300年後に書かれた記紀に登場する天皇についても、実在が不確かな天皇(欠史八代など)がいたり、「万世一系」となっていながらも、疑問の余地があると主張する学説(崇神天皇と応神天皇と継体天皇の三王朝交代説)もあり、話が一筋縄ではいかないのです。

 倭の五王が使者を送ったのは、宋から爵位を得るためでした。雄略天皇と見られる五王最後の武は、「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられますが、その代わりに宋の皇帝に朝貢して冊封を受けるという形です。つまりは、宋の臣下になり、支配下に入ることで、宋皇帝の威信によってお墨付きを得ることです。(武=雄略天皇=ワカタケルとなると、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣にワカタケルと刻まれていることから、雄略天皇のことを記述しているとされていましたが、著者は、武とワカタケルを同一人とするのは慎重に考えるべきだと主張してます)

 倭の五王は中国の臣下だったということで、天皇神聖絶対主義の国家主義体制を敷いていた戦前では、タブーであり、倭の五王研究は戦後になって本格化するのです。(中国の史料を使って日本で最初に研究したのは室町時代の禅僧・瑞渓周鳳=ずいけい・しゅうほう=1391~1473年で、その後、江戸時代の松下見林、新井白石、本居宣長らに引き継がれます)

 3世紀の邪馬台国から150年もの長い間、中国との交信が途絶えていたのに、5世紀になって急に倭の五王が中国に使者を送ることになったのは、当時の東アジアの国際情勢が背景にあります。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権を争いが日本にも波及していたからです。大和朝廷は、朝鮮半島南部に鉄資源を確保するため任那や伽耶などを支配下に置き、百済と濃厚に結びつき、高句麗の南下攻撃で、百済の王子は日本に亡命したりしていました。中国南朝の宋は、北朝の北魏(鮮卑族)などと一触即発で対峙しており、朝鮮半島を味方につける戦略があったのでした。

 結局、宋は、高句麗を開府儀同三司(府を開く際にその儀を宰相の地位と同じくする)という最高の待遇を任じます。一方の倭は、この開府儀同三司に任じられることなく格下に甘んじることになりますが、479年の宋滅亡後は、倭は遣使を送らなくなります。

 ところで、倭の五王の名前は、何で一文字なのか気になっていたのですが、同書によると、百済の影響のようです。高句麗の長寿王は、宋に対して、高璉と名乗りましたが、姓の「高」は高句麗から取ったといわれます。百済の腆支王は餘映で、姓の「餘」は「扶余(餘)族」を標榜したことからと言われます。名の「映」は中国側の腆の書き誤りとも言われています。本当は、扶餘族は高句麗の出自で、百済とは関係ないとも言われていますが、対抗措置としてそう標榜したと言われています。

 これにより、日本の5世紀の五王の姓は「倭」ですが、名前を讃・珍・済・興・武と一文字に名乗ったわけです。本書で初めて知りました。しかも、いずれも「好字」と呼ばれる良い意味を持つ漢字を使ってます。3世紀の「邪馬台国」とか「卑弥呼」の「邪」と「卑」は、好字ではなかったことと比べると違いが分かる、という著者の指摘には目を見開かされました。

 本書では、もっともっと複雑なことが書かれています。ここまで分かりやすく書くのに大変苦労しました、と書き添えておきます(笑)。本の帯には「1600年前の『日本』の国家とは」と書かれています。宋は今の中華人民共和国、高句麗は今の北朝鮮、百済、新羅は今の韓国ですから、東アジアの国際情勢は、1600年経っても全く変わらないことが、これでよく分かるのです。