中部東海お城巡りツアー2日目は、墨俣一夜城・岐阜城・犬山城・岡崎城

国宝犬山城

昨晩は、尾上菊五郎丈に連れて行ってもらった名古屋一の繁華街栄の高級クラブ「みゃあたにゃ」で座っただけで4万5000円というテーブルチャージを払って、世紀の美女とドンペリニヨンを痛飲しました。

と、日記には書いておこう。

墨俣(すのまた)一夜城と木下藤吉郎

「中部東海お城巡りツアー」は最終日。この日は残り4城を廻りました。

最初は、名古屋から岐阜県大垣市に向かい、秀吉が信長の家臣木下藤吉郎の時代に、稲葉城攻略の拠点として、一夜で建ててしまったという墨俣城。本当かなあ?

金華山山頂329メートルに聳え立つ岐阜城

次に向かったのが、岐阜城。ここは、金華山の山頂にあり、ロープウエイで行きましたよ。

山頂駅から降りても、かなりハードな山道でした。

先程の秀吉が稲葉城攻略のために一夜で建てたという墨俣城。この、稲葉城が何処かと思ったら、ナーンダ、この岐阜城だったんですね。

稲葉城を岐阜城と改名したのは、織田信長でした。信長は、当時「井の口」と呼ばれた地名を岐阜と改名していたのです。

だから、岐阜と信長は、切っても切れない縁だったんですね。地元の英雄ですから、「信長ワンカップ」から「信長せんべい」に至るまで、お土産屋さんで売ってました。

信長は、山頂の岐阜城に住んだわけではなく、金華山の麓に大豪邸宅を作ったらしく、目下、「信長公居館」は発掘調査中で、わざわざ滝が注ぐ池の庭園まで作っていたようです。

国宝犬山城

続いて訪れたのが、犬山城。個人的ながら、実に60年ぶりの再訪です。

60年前は、写真が残っているだけで、殆ど記憶がありませんが(笑)。

渓流斎先生が御幼少の砌、訪れた犬山城

400年以上昔に建てられた木造建築がそのまま、残っていたことから、「国宝」一号に指定されたようです。いな、残っていたというより、代々の城主成瀬家が守り抜いたからに他ありません。

今でも、建前上は、成瀬家所有となっているそうですが、財団法人化して、一般に公開するなどして、かろうじて維持しているようです。

国宝の城は現在、全国に5カ所ありますが、賢明なる読者諸兄姉の皆様方は諳んじておられることでしょう。序でに、重要文化財に指定されている城は、7カ所あります。こちらは分かりますか?

岡崎城

最後に訪れたのが岡崎城。徳川家康生誕の城のとして有名ですが、想像していたより、敷地も広大で天守も立派だったので驚いてしまいました。

家康は、幼少年時代は人質生活が長く、この岡崎城に戻ってきたのは、信長が桶狭間の戦いで今川義元を破ってからです。その後間もなくして、浜松城に移ります。

1590年の秀吉による小田原攻めと北条氏滅亡で、家康は、関東に移封され、この時、岡崎城主となったのが、関ケ原の戦いで逃げる石田三成を確保して手柄を立てた田中吉政です。

江戸時代となり、岡崎城主田中吉政は、筑後柳川36万石を与えられる大出世を遂げます。

田中吉政には世継ぎがいなかったため、筑後柳川は、久留米の有馬藩と柳川の立花藩とに分割されてしまいます。

私のご先祖様は、久留米藩の下級武士だったため、田中吉政にはかなり興味があります。

先祖が、播磨の有馬の家臣だったのか、それとも、もともと田中吉政の家臣だったら、岡崎から移ってきた可能性もあるからです。

良い参考文献等があれば、御教授下され。宜しゅう頼みまする。

中部東海お城巡りツアーを大決行=駿府城〜浜松城〜名古屋城編

名古屋城

ムフフフ…私は今、名古屋におります。

独り、栄(名古屋一の繁華街)で、追河君と同じような貴族の夜を存分に味わっております(笑)。

訳がありまして、「徳川家康を訪ねて三千里」。急に、家康馴染みのお城巡りを思い立って、一人で新聞広告に出ていたツアーに申し込んで、参加したのでした。

駿府城

かつて一度訪ねたことがあるお城もこのツアーの中に入ってましたが、訪ねたのがもう半世紀以上前の大昔だったり、自分では行った気ながら、初めてのお城だったりしたのもありました。

今朝は、朝5時に目覚まし時計をかけていたつもりでしたが、目覚ましが「オン」になっておらず、もう少しのところで遅刻するところでした(笑)。

団体ツアーですから、遅刻していたら、アウト!このように皆様に御報告することは、不可能でした。

今の日本の縮図を反映して、見事に老男女46人もの人が参加しました。せめて30人くらいかと思っていたのに、バスはギュウギュウ詰めです。特に、後期高齢者が大きな声を出して一番元気でした。

ホモ・サピエンスですから、雌種の皆様は、バスの中で、1秒も休まずお喋りに費やして周囲に騒音を撒き散らし、朝早くて眠い小生なんかは、非常に不快でした。

駿府城

最初に訪れたのが、静岡市の駿府城。大河ドラマ「直虎」で何度も出てきたので、とても近しく感じていたのですが、これほど広大で立派な城だとは思いませんでした。

もともとは、室町時代の守護職今川氏の城でした。今川と言えば、一番有名なのが、今川義元です。

家康は、この義元によって、人質となり、幼年時代から少年時代をこの駿府城で過ごします。

そして、今川義元が桶狭間の戦いで、織田信長軍によって敗れると、家康は、今度は城主としてこの駿府城を拠点とします。

なおも、関ヶ原の戦いを経て全国統一して江戸幕府を開いてから、家督を二代家忠に譲ってから、家康は、またまた、「隠居」と称しながら、「院政」を敷いて、駿府城を拠点にします。だから、駿府城はこれが三度目です。

家康は、余程、駿府城が好きだったんでしょうね。

現在、天守(閣)を発掘、復元中で、完成すれば、また、素晴らしい観光資源となることでしょう。

浜松城

次に、バスで向かったのが浜松城です。

普通なら、駿府城から浜松城までバスで1時間もあれば楽勝ですが、今日は、桜が満開の日曜日と重なって、駐車場を求めて、道路が大渋滞で、2時間半はかかってしまいました。

浜松城は、家康が29歳から45歳までの元気な青年、中年期を過ごした城で、ここで、武田信玄との三方原の戦いで惨敗したりしますが、一番脂の乗り切った時代でした。後に「出世城」とも言われ、江戸中期、老中にまで出世した唐津城主水野忠邦らは、志願して国替えで浜松城主になったりしました。

個人的ながら、浜松城は、昨年訪れたばかりなので、飛び抜けて感動できませんでしたが、意外に敷地が広く、城下町もかなり工夫して築き上げていたことが分かりました。

名古屋城

この後、名古屋城に行きました。

名古屋といえば、以前、仕事と遊びで何十回も行っているのに、名古屋城を訪れるのは生まれて初めてだったということが、今日分かりました。当時、名古屋球場での中日戦のナイターの取材が終わると、栄で飲み明かしていたので、二日酔いの頭で行った記憶もないのです。

「尾張名古屋は城でもつ」と昔から言われていたのに、何で、これまで行かなかったのか?若い頃は、さほど城に興味がなかったのか、お城はあまりにも当たり前過ぎて、近くにあって、いつでも行けると思っていたのか、どちらかなんでしょうけど、いやあ、今日は感動しましたねえ。

名古屋城は、大阪城、熊本城と並ぶ三大名城なんですってね。(ちなみに、全国には、城跡まで含めると、3万ぐらいの城(跡)があり、今のコンビニより多かったとか)

名古屋城は、築城名人の加藤清正が関わったから、三大名城に選ばれたらしいですが、本当に感銘しました。駿府城も凄かったし、昨年行った小田原城も素晴らしいと思いましたが、この名古屋城と比べると、美空ひばりと坂本冬美ほどの違いがあります。京洛先生の真似ですが(笑)。

それほど、名古屋城は桁違いに素晴らしかったです。

本当です。

「尾張名古屋は城でもつ」の格言は嘘ではありませんでした。

この名古屋城。400年前にできた国宝の本物は、アメリカ軍が昭和20年に焼夷弾を落として焼却したことを今の日本人は殆ど知りません。(今の名古屋城は、昭和34年に復元。しかし、今年のゴールデンウィーク明けから、再び天守は、耐震工事などが行われ、非公開になるそうです。見るなら、今でしょう)

日本は、アメリカから、バーミヤンの石仏と同じくらい貴重な歴史的文化遺産の建造物を破壊する蛮行をされながら、そして、今のトランプ政権からは、鉄鋼とアルミニウムの関税を、ヨーロッパやカナダや同じアジアの韓国まで除外しながら、「同盟国」日本はモロに標的にされながら、多くの日本人は、いまだにアメリカを敬い、尊崇し、コカコーラやマクドナルドやケンタッキーやディズニーやプレスリーやリーバイス・ジーンズを受け入れて平伏しているという、この現状。

世界的にも特別に優秀な日本の官僚が、この真実を知らないわけがない。

右翼だの、左翼だの、政治的イデオロギーの問題じゃないのです。歴史的文化遺産の話です。

※おっと、オキシトシンかセロトニンが出過ぎたようです(笑)。明日は、岐阜城、犬山城、岡崎城などを巡ります。

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他人の不幸は蜜の味なのか?

トルファン・ベゼクリク千仏洞  Copyright par Matsouoqua-sausai

今話題の中野信子著「シャーデンフロイデ   他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)を読了しました。

著者は、テレビで売り出し中の「美人脳学者」で、出版広告も彼女のアップの顔写真が掲載されて、思わず手に取ってみたくなります。

それにしても、「シャーロンフロイデ」、じゃなかった、「シャーデンフロイデ」って何ですかね?

以前、これまた「美人公認会計士」として売り出された女性が著書を山のように出版して、「セレンディピティ」なる煙に巻くような言葉を流行らせましたけんど、そんな類いの言葉なんでしょうか?(今、あのマヨラーでしたっけ?美人公認会計士さんは、最近メディアに出なくなりましたね。どうしちゃったのかしら?)

いやはや、シャーデンフロイデの話でした。何やら、ドイツ語で、直訳すると「毒の喜び」となるらしく、誰かが失敗した時に、思わず湧き起こってしまう喜びの感情なんだとか。

「他人の不幸は蜜の味」と訳せばいいのかもしれません。まあ、妬みや嫉妬などの感情から来る復讐心みたいなもんかもしれませんが、彼女は、心理学者ではなく、脳学者ですから、そんな感情が何処から来るのか冷静に脳を解剖、いや分析してます。

それは、愛情ホルモンとか、幸せホルモンなどと俗に呼ばれる「オキシトシン」という物質が、毒の喜びに関係しているというのです。

話せば長くなってしまいますので、なるべく早く簡潔に書きたいのですが、(ご興味のある方はこの本を読まれればいいと思います)オキシトシンが厄介なのは、「人のため」とか、「社会正義のため」などといった感情になって、公共交通機関の中で暴行を働いたり、ネットで匿名という安全地帯にいて罵声を発したりするという複雑なものだというのです。

二律背反、絶対的自己矛盾の西田哲学みたいです。

芸能人や政治家の不倫に関しても、社会的に抹殺しかねないほどのブーイングが巻き起こるのも、それを認めてしまえば、社会秩序や倫理や道徳が保てないという危機感から来るというのです。

本人は、正義感でやっているので、糾弾や攻撃行動は終息するまで止むことはありません。

例によって、以下に備忘録として換骨奪胎で列記します。

・心理学者バリー・シュワルツは「選択肢が多いと迷ってしまい、幸福度が下がる」と主張。人間の脳は「考えたくもないけど、間違いたくもない」と虫のいい働きをする。

→皆んながやっているから、人気があるから、多くの人が選んでいるから、有名だから、などといった理由で人は簡単に物事を決めてしまうんですね。

・本当かどうか確認しようのないことでも、占い師に言われたことをそのまま実行したり、高額セミナーにはまったりするのは、「自分が進むべき方向を自分で決めたくない」という思いが根本にある。

・「神の名のもとに」ある教義に判断を任せれば、自分は考えなくて済むし、自分の行動に責任を取らなければならないという不安や恐怖を肩代わりしてもらえる。

→ 止むことないテロも宗教の名を借りる傾向が強いのはそのせい?

・長らく米作地域だった日本は、集団を尊重する志向性の高い人々が淘汰の結果、生き残った。麦作地域のように合理的で冷たい判断は、いかにそれが正しくとも集団にとっては正しくない。火山大地のため米作に適さなかったり、米作よりも海運が盛んだった薩摩や長州が、より合理的な意思決定をして大きな節目を作ったのは示唆的。

・脳内のセロトニンは、不安を感じにくくする物資で、セロトニントランスポーターの密度が高い人は、楽観的な判断を下す傾向がある。日本人の98%は、このセロトニントランスポーターの密度が低い。つまりは、セロトニンが低く、不安を抱きやすい。これは、自然災害が多い日本という環境で、心配症の方が予防対策を講じて有利で、生き延びやすかったからではないか。

・セロトニンが多い人間は、思い切った投資をしたり、遊びにも大胆にお金を使うことができる脳を持っている。しかし、セロトニンが少ない日本人は不安を抱きやすく、老後を心配したりして、大胆にできる人が少ないと考えられる。

→ このように、脳科学的に分析してくれると、毒の喜びも、社会正義心も、そして大胆な行動が取れないのも、「なあんだ、脳がそうなっているだけで、俺のせいじゃなかったのか」と安心してしまい、思考停止になりそうですね(笑)。

速水御舟が描いた二曲一双の屏風「名樹散椿」

こんにちは、京洛先生です。
 春のお彼岸の時季に、奥多摩では、遭難騒ぎがあったようですね。テレビのニュースでは、雪が降って、男女13人が下山出来ず、7人が、ヘリで救助された様子を空撮で流していました。ヘリコプターの救助は大掛かりで、相当お金もかかります。携帯電話で、救助を求めたそうで、”スマフォの時代”では、携帯電話も登山の必需品になっているのですね。しかも、遭難騒ぎには「外国人」も居て、すべて時代の合わせ鏡、写し絵です。
 
 ところでこの写真は何だか分かりますか?
 「これから、桜の季節に、京洛先生、椿ですか?」と反応があるかもしれませんが、茅屋の傍にある、通称「椿寺」こと、浄土宗「昆陽山 地蔵院」の散椿です。
 まだ、三分咲きですが、これから、4月上旬頃までが、見頃ですね。
 近代日本画の巨星、速水御舟が描いた二曲一双の屏風「名樹散椿」(「山種美術館」所蔵)は、この地蔵院の境内に咲き誇った、樹齢400年の椿を描いた作品です。
 昭和4年(1929年)に、御舟が描いた椿は、天正年間(1573年~92年)に、豊臣秀吉が、このお寺に寄進した椿で、原木は加藤清正が朝鮮から持ちかえったと言われていました。残念ながら、昭和57年(1983年)に枯れてしまい、写真の椿はその二代目です。それでも樹齢120年も経つ古木です。
 先代の椿も、今の椿も、紅、白、桃、紅白絞りと多彩で、五色八重の散り椿です。
 速水御舟は、昭和4年(1929年)に、屏風を描きましたが、近砂子(金の細粉)を撒き散らした、独自の画法で出来上がっていて、椿の華麗さがよく分かります。「名樹散椿」は昭和52年(1977年)に、昭和期の作品として初の「重文」指定されています。如何に名品、名画であるか分かるでしょう。
 渋谷区広尾の「山種美術館」に出向いて、時間のある時に、この作品をじっくり眺められてはどうですか。
 同美術館には、やはり御舟の作品「炎舞」も所蔵していますが、同美術館にとっては、御舟のこの2作品だけで、十分、その存在価値があると思いますね。
 桜を愛でる前に、二代目ですが、美しい椿の色を愉しんでみてくだされば幸いです。
 以上
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退陣6日前の麻生内閣が官房機密費2億5000万円も引き出して何に使ったのか?

中国・興城 Copyright par Matsouoqua-Sausai

別に、私のような小物が憤ったり、騒いだりしても泰平の世の中は変わりはしませんけど、官房機密費には驚きましたね。

2009年9月10日、自民党麻生内閣退陣わずか6日前だというのに、河村建夫官房長官が、「政策推進費」と称して2億5000万円もの大金を引き出していたというんですからね。

しかも、領収書不要!2億5000万円を何に使おうが、為政者のやりたい放題。だから、行方不明。いや、追跡不明です。

何が、政策推進費なんですかねえ?わずか、あと6日でこと切れるというのに、政策推進も何もないでしょう。こんなことが未だに白昼堂々と行われていたとは!鎌倉幕府か、南北朝時代じゃあるまいし。

官房長官経験者の密告によると、領収書のいらない機密費は、情報提供者への謝礼や飲み食い、お土産代などにも使われるようですね。前川・前文科事務次官の情報も提供者にたっぷりお金が支払われたのかもしれません。

先日亡くなった野中広務元官房長官は、機密費は首相に渡しただけでなく、野党工作にも使ったと暴露しています。なーんだ、野党だってしっかりおこぼれに預かっているんじゃん。

そもそも、機密費の原資は、国民の血税ですよ。他人の金だから好き勝手に使えるというのが人間の性(さが)なんでしょうけど、こんなことは、情報開示を求めて訴えた市民団体がいなければ、闇の中に葬り去られていた事実でした。

官房機密費は、なくせと言っても為政者はなくさないでしょうから、せめて、退陣が決定した内閣が、火事場泥棒か、一寸詐欺か、板場稼ぎか分かりませんが、飲み食いやお土産代に使えないよう法律を改正してもらいたいものです。

まあ、無理でしょうけどね。

「前川事件」の真相は、都合の悪い人間を抹殺する目的か?

中国・興城 Copyright par Matsouoqua-saousai

読者の皆様から「しーちゃんか、はーちゃんか知りませんが、1合2千円も3千円もするようなお酒を飲ます店に行ってはいけませんね。月報酬が10万円程度の人間が行く店じゃありませんよ。もし、どうしてもそういう店に行きたいのなら野球帽にジャンパー、ズボン姿で『こんちわ!』と、日本酒、洋酒空き瓶回収やビール瓶のケース運びに行くことですね。店の表の顔、裏の顔がよく見えますよ。渓流斎さんには、やはり『大五郎』が似合います」との温かいメールを頂きました。どうも有り難う御座いました。

ところで、前川喜平・文科省前事務次官が名古屋の市立中学校で講演したことで「いかがなものか」と文科省の課長補佐が市の教育委員会に二度にわたって長いメールで糾弾していた問題。

当初は事実関係が分からず、モヤモヤしていたのですが、やっと役者が出揃って、全容が判明しました。

前川氏は既に、退官した民間人です。天下り問題の責任があり、出会い系バーに出入りしていたという「事実」は過去の話なのに、そのしつこさには背筋が凍るほど恐怖を覚えましたが、「照合者」が分かれば、何てことはなかったんですね。

東京・駒込「東洋文庫」

林芳正文科相によると、文科省に働きをかけたのは、自民党の赤池誠章参院議員と池田佳隆衆院議員のようです。

赤城参院議員(56)は、甲府市出身。明大卒。自民党の文科大臣政務官。日本会議国会議員懇談会、神道政治連盟国会議員懇談会などに所属し、憲法改正、国防軍設置を主張されております。

池田衆院議員(51)は名古屋市出身、成城大卒。自民党。赤城議員と同じように日本会議国会議員懇談会、神道政治連盟国会議員懇談会などに所属し、安倍首相に心酔して国会議員になったようです。

うーん、となると、どうも、前川氏の過去の経歴の中で、読売新聞の特ダネだった「出会い系バー」や「天下り問題」が問題だったわけではなく、加計問題で「行政がゆがめられた」と発言して、時の政権に対して弓を引いた前川氏の言動が問題視されているのではないかと勘繰りたくなってきましたね。

なぜなら、出会い系バーは、取材で行ったといわれ(別に遊びで行ったとしても構わないと思いますけれど)、天下り問題は、歴代事務次官の「申し送り事項」で、前川氏一人だけの問題ではないからです。

それより、背筋が凍る思いをさせられたのは、官房機密費か何かで興信所か何かを使って、個人の素行を24時間監視しているというジョージ・オーウエルの「1984」の世界が実際に行われていたフシがあることです。

今回の件で、手足になって働いたのは「優秀」で「忠実」な文科省の官僚で、出世のために阿っているかもしれませんが、命令したのは権力を持った本派本命の為政者ですからね。

自分たちに都合の悪い人間は社会的に抹殺しようという彼らの魂胆が見え隠れします。

しーちゃんの割烹着店でランチ、そして落合陽一さんのこと

今日のお昼は、例の東京・銀座の割烹着居酒屋のランチに行ってきました。あの「しーちゃん」のお店です。(と書いても以前の記事を読んでいない方は分からないと思いますが。。。。このブログ内で「しーちゃん」と検索すると出てきます=笑)

接遇係の女性の割烹着姿は、夜だけかと思ったら、お昼もそうだったんですね。

とっても狭いお店でした。

詰めれば12人ほどが座れるカウンターと4人掛けの椅子とテーブル1組といった感じで、接遇係の割烹着の女性が2人。それでも、「主任」さんクラスの女性は、どういうわけか本日は(も?)てんぱっていて、その緊張感がこちらにも伝わってきました。

サバ塩定食910円を注文しましたが、残念ながら、魚はそれほど新鮮という感じじゃなかったですね。

それより、目の前に張ってあった夜の居酒屋のお酒ー1合か2合か知りませんが、1200円とか、2000円とか、3000円とかあって、ちょっと驚き。私のような大貧民では夜は無理だなあということが分かりました(笑)。

で、話は変わりますが、今、若者のカリスマ的存在と言われている学者落合陽一さん。30歳という若さながら、筑波大の学長補佐を務められております。

デジタルメディアがご専門のようで、最近、陸続と本を出版され、結構、ベストセラーの上位になってます。

この方、あの国際ジャーナリストで作家で、知る人ぞ知る落合信彦さんのご子息だったんですね。これには本当に、椅子から落ちるほど魂消てしまいました。

色んな噂がある方のようで、私にとっては専門外で、それほど興味が沸かない分野なので、まだ彼の本を読もうとは思いませんが、将来の日本をたって、しょうような大物なのかもしれません。

落合信彦さんに関しても色んな毀誉褒貶がありましたから、そのご子息となると当然注目され、今はメディアで引っ張りだこです。

もし、彼の本を読んだり、彼について詳しい方がいらっしゃいましたら、コメントしていただくと嬉しいですねえ。

「修道士は沈黙する」は★★★

久しぶりに、若者の街渋谷に行って、映画を見てきました。都内に一体いくつの映画館があるか知りませんけど、単館上映のため、首都圏ではここでしかやっていなかったからでした。

週末のせいか、相変わらず、ウンザリするほど混沌とした人混みで、渋谷は好きになれませんね。序でに、池袋も新宿も嫌いです。やはり、東京なら銀座か神保町、もしくは大塚、王子、三ノ輪、千住辺りの城北が好きです。

映画は、ロベルト・アンドー監督・原案・脚本の「修道士は沈黙する」です。アンドー監督は、フェデリコ・フェリーニ監督らの下で助監督を務めたイタリア映画界の王道を行く人らしいですが、安藤さん、いや、アンドーさんの作品を観るのはこれが初めてです。

ドイツの高級リゾートホテルで開催されたG8財務相会議の内幕の話で、社会派ミステリーと称してますから、内容に深く立ち入ることはやめておきますが、正直言って、原案、脚本まで務めたアンドー監督の限界を見てしまった感じです。

つまり、アガサ・クリスティーほど緻密に構築された社会派ミステリーになりえなかったし、アンドーさん自身が国際金融市場の知識がさほど豊富ではないせいか、フィクションにしても玄人に「もしかしたらあり得るかもしれない」という錯覚に陥りさせてくれる「夢心地」さえ味わせてくれない、というのが正直な感想でしょうか。

つまり、 謎めいた陰謀が、陰謀らしく見えないし、マイケル・ムーア監督の作品のように、国際社会の不正が暴かれる爽快感が少ないのです。それに、観客サービスのためのアダルトなお愉しみも中途半端かな?(笑)

G8財務相会議ですから、日本人も出てきますが、この俳優が日本人に(もしくはそれらしく)見えないし、出てくる各国財務相役の俳優さんも、とても財務大臣にも銀行家にも見えない。

唯一、「沈黙する」修道士サルス役の俳優だけが、それらしく見えないことはないのに、何か最後まで怪しくて、没入できない感じでした。

ありゃ、全くいい所がない映画になってしまいましたね(笑)。そんな意図がなく書き始めたのに、いつのまにかそうなってしまったのは、見る前に、陰謀の奥深さとそれらが暴かれる爽快感をかなり期待していたからでしょう。

でも、かなりの映画賞を獲得している作品ですし、試写会を見た日本人の俳優さん、経済アナリストさんらもかなり高い評価でしたよ。タダで見させてもらった代わりのべんちゃらか、宣撫活動かもしれませんけど。

しかし、こういう映画はボディーブローのように効いて後から深い感銘が押し寄せて来るかもしれません。着眼点は素晴らしいのですから。

映画がはねて、せっかく渋谷に来たのですから、行きつけの「麗郷」に久し振りに行ってきました。もう20年以上昔かもしれませんが、この店で、今は亡き大島渚監督ら著名人を結構お見掛けしたことがあります。

この店自慢の腸詰や蜆、空芯菜炒めは美味しかったですが、店主が無愛想で感じ悪いところは昔と変わっていませんでしたね(笑)。

大阪浪華の宝、折口信夫、木津勘助

おはようございます。大阪の浪華先生です。

渓流斎さん、色々、時間をつくって、東京や小田原や埼玉周辺を探索されて居られますね。健康のためにも良いことです。

ブログでは、谷川彰英著の「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)を読んで居られるそうで、休日は、川越まで足を運ばれた、という事ですが、色々、歴史の足跡を確認されて、教養を深められて、何よりです。


迂生は、「ウマズイめんくい村通信」の赤羽村長に対抗して、廉価で美味いものを探しに、大阪周辺を歩き回っています(笑)。
以前、「めんくい村通信」で、東京・浅草の「千葉屋」という、大学芋が美味しいとの評判記事が出ていました。
迂生も「大学芋」は大好きですが、上方には、気にいった大学芋を売っている店がほとんどありません。
もっとも、焼き芋、大学芋の店は、時代の流れで、消滅寸前です。大学芋は、デパートの総菜売り場で見かける程度ですが、小奇麗な陳列棚に並んでいる芋類はどこか気取っていていけませんね。
そんな折、京阪電車「京橋」駅の京阪百貨店の催事売り場で、美味い大学芋に出くわしました。
大阪市浪速区の「大国町(だいこくちょう)」にある、「大国屋」という大学芋の専門店で、パソコンで「大阪 大国屋」で検索するとHPが出てきます。
此処の大学芋は時間が経っても、いつまでもパリッとして、口当たりがよいことです。大体、大学芋は、時間が経つと、液状になって、飴が手にねばりついたり、ねばねばして、食べるのも面倒くさくなるものです(笑)。

そこで、暇つぶしに、地下鉄御堂筋線「大国町」駅そばの、その「大国屋」にまで行ってきました。梅田から地下鉄に乘ると「難波」から一駅先が「大国町駅」です。難波からでも、歩いて行ける便利なところでした。
そこで、ついでながら、この「大国町」周辺のぶらぶら歩きをしたところ、色々、歴史探訪になりました。


一つは、彼の有名な民俗学者で国文学者、歌人の折口信夫(釋迢空)の生誕の地を見つけたことです。
さらに、それより、はるか昔、神功皇后が、「三韓征伐」の凱旋のおりに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったという「敷津松之宮」(大国主神社)が大国町にありました。「古代」と「現代」が入り混じった、浪華の歴史が、あちこちに散見できることです。

”歴史の玉手箱”です。


折口信夫の生誕の地は、浪速区敷津西一丁目周辺で 今は鴎町公園の中にあり、大阪市が市制70周年を記念して記念碑を建立し、昭和58年に「十日戎」の詩の一文を刻んだ文学碑も建てられました。
記念碑には「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」と刻まれてありますが、「ほい駕籠」は、渓流斎さんお分りになりますかねえ?


東京、関東の人には、なじみのない言葉でしょう。「ほい駕籠」とは駕籠かきの掛け声です。
正月、同じ浪速区にある「今宮戎神社」の「十日戎」では、芸舞妓が「寶恵駕籠」に乗ったりするので、「ほえかご」とも言ったりしますが、当時の浪華の賑わいが、この歌からも伝わってきます。


また、「敷津松之神宮」の境内にも、折口信夫の記念碑が建っています。こちらは昭和53年11月に、折口の母校である「府立天王寺高等学校同窓会(旧制府立五中)」や「近畿迢空会」、「国学院大学院友会大阪支部」、折口が一時期、教員をしていた「大阪府立今宮高校自彊会」が協賛で記念碑を建てたものです。


「敷津松之神宮」の由緒は、神功皇后の時代に遡りますが、その後、江戸時代の延享元年(1744年)になって、神託を受けて、出雲大社の摂社として「大国主神社」になったため、鳥居と神殿が二カ所あります。「大国主神社」は、今宮戎神社と並んで、大阪商人の守り神とされています。「大国主神がお父さん」、「事代主神が子供」で、両方お詣りしなければ「片詣り」とも言われるそうです。初詣や、十日戎の時は、両方に参拝するする習わしになっている、という事です。


境内には「木津勘助」の大きな銅像もあります。
またまた、渓流齋さんは「木津勘助て、一体、何者ですか?」となるでしょうね(笑)。
木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明のようです。


通説では、本名は中村勘助。天正14年(1586年)に関東の足柄山に生まれた、と言われています。その後、大坂は木津村に住み、豊臣秀吉の配下になり、豊臣家滅亡後は、木津川の治水・堤防作りや新田開発事業に取り組んだ、と伝わっています。とくに、寛永16年(1639年)の大飢饉では、「お蔵破り」を決行して捕まり、葦島(現在の大正区三軒家付近)に流されました。その後、また、新田開発に関わり、万治3年(1660年)、75歳で亡くなったと言われています。

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「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。