ヘイトクライムと大歓迎=わずか160年でこの違いー玉蟲左太夫「仙台藩士 幕末世界一周」

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 コロナのストレスで、今、米国ではアジア系の人々に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)がエスカレートしてます。口先で罵声を浴びせるどころか、何もしない、か弱い老人をいきなり押し倒して、殴ったり、けったり、好き放題です。ニューヨークでは日本人ジャズピアニストが暴漢に襲われて、大けがをしたこともテレビでやってました。泣き寝入りで終わるしかないんでしょうか?

 どういうわけか、奴らは柔道家や空手家は襲わないんですよね。アメリカは世界最先端の先進国のはずなのに、随分、おっとろしい国だなあ。

 でも、今からたった160年前の1860年。渡米した日本人は、米国人から大歓迎されていたんですね。日本人見たさに大群衆が、日本人を取り囲み、握手したり、頬に接吻したり、持ち物の交換を願ったり、見たこともない文字を墨で揮毫してもらうことを切望したりしていたのです。

 今読んでいる玉蟲左太夫著、山本三郎現代語訳「仙台藩士 幕末世界一周」(荒蝦夷)に、その話が出てきます。上の写真は、その本の310~311ページに掲載された1860年6月30日付「ニューヨーク・イラスト・ニュース」紙(右)と「フランク・レスリー・イラスト新聞」です。日米修好通商条約の批准書交換のため、渡米した幕府代表ご一行77人が、ワシントンからの帰りにニューヨークに立ち寄り、ブロードウェイをパレードした際、米軍隊8000人が動員され、沿道には10万人の観衆が押し寄せたことを伝えています。

 もうこの幕末の江戸時代に日本の日の丸の国旗はあったんですね。沿道やホテルなどに星条旗と一緒に掲げられていて、日本人としては感無量になります。

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 玉蟲左太夫は「仙台藩士 幕末世界一周」の中で、そんな米国人の異常な歓迎ぶりを書き残しています。

 ・およそ小銃隊が4000人、騎兵隊2000人、大砲車16輛、総計7500人という。これはアメリカ国開闢以来の警護だという。故に見物人の多いこと数里の間が雲霞のようだ。見るも愉快である。(308ページ)

 ・旅館から3,4丁行くが見物人が雑踏して私たちの行く手を妨げ、自由に徘徊することができない。(315ページ)

 ・かたわらに1軒の家があり、しばらくそこで休憩したが、シャンパン酒を振舞われた。(316ページ)

 ・旅館の近所で何かを買おうと思って密かに一人で歩くがアメリカ人たちが自分を見つけて四方から集まり、あるいは手を握り、あるいは物をくれたり実に親切である。(322ページ)

 勿論、米国人はこれまで見たこともない丁髷、和服姿のサムライが物珍しくてしょうがないから、といった理由に過ぎないでしょうけど、現代とはえらい違いです(笑)。

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 この本の中で、フィラデルフィアで、遣米使節ナンバー3の御目付・小栗忠順(おぐり・ただまさ)が、米国側と交渉して、貨幣基準の分析(改定)実験を行ったことが出てきます。例えば、実験の結果、文字小判は、その3分2は金、その3分の1は銀、また、1000分の667は純金だったことから、価値を5ドル95セントに当たる、とするなど為替レートを統一したりしたのです。

 この小栗忠順とともに、この分析実験に立ち会って、その模様を玉蟲左太夫に伝えたのが、玉蟲の友人となった佐野鼎(かなえ)という加賀金沢藩士でした。彼は西洋砲術の師範でもありました。佐野鼎は大変優秀な人で、万延元年の遣米使節の翌年の文久元年(1861年)の遣欧使節団にも一員として加わります。

 彼は、維新後の明治4年、神田淡路町に共立学校を創立します。惜しいことに明治10年に47歳の若さでで没しますが、校長を高橋是清が引き継ぎ、これが今の開成学園になるのです。

 この本を読むと、色んな所で繋がっていることが分かり、面白くてやめられません。