世界史的に見ても稀有な超大物スパイ=オーウェン・マシューズ著「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」を読了しました

 「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み終わりました。途中で図書館で予約していた本が2冊も届いたので、途中何度か休止していたので、読了するまで25日間掛かりました(苦笑)。人名索引まで入れれば、540ページ以上ありますから熟読玩味すればそれぐらい掛かるでしょう。

 私は校正の仕事もしておりますので、どうも誤字脱字に関しては、小姑のように指摘したくなります。職業病だと思って、堪忍してください。何カ所かありましたが、特に気になったのは、129ページで「地政学雑誌」編集者の名前が、クルト・フォヴィンケルになっていますが、135ページ以降ではクルト・ヴォヴィンケルになっているのです。「フォ」と「ヴォ」の違いですが、日本語では別人になってしまいます。

 そう言えば、思い出すことがあります。私は映画監督のルキノ・ヴィスコンティが大好きなのですが、彼の代表作に「神々の黄昏」があります。楽聖ワーグナーのパトロンである狂王のバイエルン王の話です。その主人公の名前がタイトルになっていますが、当初は「ルードウィッヒ」でしたが、そのうち訂正されて「ルートヴィヒ」となりました。ドイツ語の Ludwigをどう発音するかですが、当初は英語読みしていたのかもしれません。やはり、現地語読みが正しいはずです。日本の映画配給会社にドイツ語が堪能な方は少ないかもしれませんが、頑張ってほしいものです。

 私は学生時代にフランス語を専攻した「仏語屋」なので、本書で335ページで気になる箇所がありました。ヴーケリッチが東京で勤務した通信社アヴァスがありますが、ここでは「ハヴァス」と誤記されているのです。アヴァス通信社は現在のAFP通信社に引き継がれた近代通信社では世界最古(1834年創業)と言われ、ここから英国のロイター通信(1851年創業)などが独立しています。アヴァス通信の創業者はCharles-Louis Havas で、フランス語のH(アッシュ)は発音しないので、Havasは「ハヴァス」ではなく、「アヴァス」と発音します。

 やはり、小姑のように細かくて失礼しました。

 内容については、英国人の父とロシア人の母を持つオックスフォード出身の英国人ジャーナリストが書いた現在手に入るゾルゲ伝の最高の出来と言えそうですが、日本人の研究者から見ると少し物足りない感も無きにしも非ずです。ロシアの公文書館での資料分析はなかなか日本人は出来ませんが、最近の日本では、みすず書房の「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻(小尾俊人編集)の「定番」に加え、思想検事・大田耐造が遺した「ゾルゲ事件史料集成」全10巻(不二出版)なども公開されるようになり、事件に関する「新発見」も表れているからです。

 ゾル事件に関して、日本人は、やはり、満洲やノモンハン事件、対ソ戦戦略、対米戦争について一番関心がありますが、欧州のジャーナリストの手になると、当然のことながら「独ソ戦争」の話に重点が置かれている感じがしました。これは、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、独ソ不可侵条約を締結しているにもかかわらず、「バルバロッサ作戦」と極秘に計画されたソ連侵攻(41年6月22日)ですが、オット駐日ドイツ大使に深く食い込んだ「ジャーナリスト」ゾルゲが見事にスクープするのです。もっとも疑心暗鬼の塊の「粛清王」スターリンからは信用されませんでしたけど。

 でも、この独ソ戦争は、世界史的に見れば特筆に値するほど壮絶で悲惨な戦争でした。何しろ、ドイツ軍の戦死者は約350万人、ソ連軍約2700万人で合わせて約3000万人もの死者を出しています。特にソ連の戦死者は人口の約16%。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶのも無理もありません。

 この独ソ戦の最中に、大日本帝国軍が北進してシベリアに攻め込んだりしたら、歴史にイフはありませんが、恐らくソ連は崩壊していたことでしょう。それほど、日本軍が「北進するか南進するか」はソ連赤軍第4部のスパイ・ゾルゲにとって最大の関心事でした。これも、近衛内閣嘱託で政権の中枢にいた元朝日新聞上海特派員の尾崎秀実によって「南進情報」が齎され、ソ連軍にとってドイツ戦だけに集中できる多大な貢献をしたわけです。

 ゾルゲは確かに、ソ連赤軍第4部の情報将校ではありましたが、ドイツ新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」等の契約特派員とナチス党員を隠れ蓑に、ドイツ大使館に「特別席」が用意されるほど食い込みました。この本を読むと、ナチス親衛隊上級大将だったシェレンベルクやドイツ国家秘密警察ゲシュタポのマイジンガー大佐らはスパイではないかという疑いつつも、ゾルゲをドイツ大使館から追い出すことなく、銀座での飲み仲間になったりしています。さらには、何なのか具体的には書かれていませんでしたが、ゾルゲはソ連や日本の機密情報をシェレンベルクらに伝えたりしています。

 となると、ゾルゲはソ連のスパイではありますが、本人が好むと好まざるとにかかわらず、結果的にはドイツと日本を含めた三重スパイだったと私は思いました。何故なら、私も経験がありますが、ジャーナリストとして相手に取材する際、どうしても相手が話したがらない情報を聞き出したい時は、こちらが持っている極秘の情報を小出しにして教えて引き出すことが取材の要諦でもあるからです。だから、国際諜報団の一員であるヴーケリッチも尾崎秀実も宮城与徳らにも同じようなことが言えます。

 著者は最後に「ゾルゲは欠点だらけの人物だが、勇敢で聡明で、執拗なまでに非の打ち所なきスパイであった」と結論付けています。私もこの見解に賛同するからこそ、「三重スパイ説」は、疑いないと思っています。それが彼を貶めることはなく、世界史的に見ても稀有な、今後も出現することはない超大物スパイだったという威信は汚れないと思っています。