「戦時下の娯楽とメディア」=第55回諜報研究会

 12月9日(土)に東京・早稲田大学で開催された第55回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)に参加して来ました。お二人の研究者が登壇されましたが、今回の共通テーマは「戦時下の娯楽とメディア」でした。大変興味深いテーマで、実際、お二人とも清々しいほど面白い講演でしたが、参加者はわずか数人でした。オンラインで参加されていた方も何人かいらっしゃったようですが、それにしても「勿体ないなあ」と個人的には思いました。戦時下の古い話とはいえ、現代にも通じる話もあったからです。

 最初の講師は、都留文科大学・明星大学非常勤講師の戸ノ下達也氏でした。演題は「戦時下日本の娯楽政策ー『健全娯楽』の実像ー」でした。主に、1931年の満州事変から45年の終戦にかけての戦時体制下で、映画、演劇、音楽やダンスホール、バー、待合といった娯楽やその施設が徐々に検閲されたり、閉鎖されたり、上演、上映、レコード販売が禁止されたりする様を、歴史的に丹念に、その政策を逐次に追った報告でした。内容は、驚くほど大変マニアックでしたが、これ以上の漏れはないと思われるほど完璧で綿密な調査には圧倒されました。あまりにも内容量が多いので、このブログで御紹介できることはほんのわずかです。

 今、NHK朝のドラマで、笠置シヅ子をモデルにした「東京ブギウギ」をやっていますが、まさに戦時中が舞台で、上演が禁止されたり、風紀上の理由で直立不動で歌わされたりする場面が出てきたりしました。こういった娯楽の規制については、当時の文部省や内務省警保局の風俗警察、興行警察(こんなんのがあったとは!)、特高や、それに内閣情報部(局)が監督官庁として実際に取り締まりや政策を行って来ましたが、このような娯楽禁止や「弾圧」政策はほとんど「閣議決定」で決められていたというのです。

 これらは78年も大昔に終わった過去のことに過ぎない、と水に流すことは簡単ですが、講師の戸ノ下氏は、つい3年前の新型コロナウイルス感染拡大防止策として、第二次安倍内閣が行った学校休校や劇場や音楽ホールなどでの上演、演奏自粛などを閣議決定で決めたことを思わせる、と発言していました。小池百合子都知事による「三密」政策なんかもありましたね。慮ってみれば、善い悪いという話は別にして、平時でなくなれば、時の権力者や当局者がいとも容易く国民をコントロールできる仕組みを強調したかったのではないかと思われました。

 ただ、緊急の戦時体制ですから、為政者だけでなく、大衆の中には「ぜいたくは敵だ」との当局の口車に乗って、娯楽を営業する「非国民」を密告したり、為政者に協力した人もいたようですので、日本人らしい生真面目さといえば言えなくもありません。先のコロナ禍でも、マスクをしなかったり、ワクチンを接種しなかった人に対して、私も含めて白眼視してきましたからね(苦笑)。いわゆる同調圧力です。

 いやはや、戸ノ下先生の講演から少し外れてしまいましたが、敵性音楽となったジャズやタンゴの演奏やレコード販売の禁止の話はよく聞いていましたが、能や文楽や歌舞伎など日本の伝統芸能まで、演目によっては上演が禁止されていたことは今回初めて知りました。実は、これは私が会場で質問したものでしたが(笑)、戦前の国家主義といいますか、全体主義は「芸術家受難の時代」と言ってもよく、とても当時に生きたいとは思えませんね。判断基準が「不健全」とか「風紀を乱す」といった恣意的な理由ですが、実際は、反戦思想や国体護持に違反する思想を取り締まって、1億総国民を全て戦争に協力させることが目的ですから、表現の自由なんかあるわけありません。(もう少し書きたいのですが、戸ノ下氏の講演はこの辺で終わりにします。もっと詳しく知りたい方は、戸ノ下氏の著書「戦時下日本の娯楽政策」(青弓社)をお読みください。)

 続いて登壇したのは、元NHK放送文化研究所研究員の大森淳郎氏で、演題は「戦時ラジオ放送を聴く」でした。大森氏は、テレビディレクターだったので、人前で講演するのは「今回が初めて」と吐露されていましたが、落語家のような味のある噺し方をされる方で、暗い話も随分と緩和されました。また、大森氏が今年6月に出版した「ラジオと戦争」(NHK出版)が今年の第77回毎日出版文化賞を受賞されました。

 私自身、この本は未読でしたが、大森氏は「なるべく本に書かなかったことをお話しします」と始めたので、拍子抜けしてしまいました(笑)。大森氏のお話で私が一番驚いたのは、あの天下無敵のNHK(当時は社団法人日本放送協会)さんが、戦時中の音源を一切所蔵していないという事実でした。戦前は勿論、テレビはなく、ラジオ放送だけでしたが、文字通り、「放送=送りっ放し」だったわけです。

 それが、今回、当時、ラジオ放送された「サイパン島陥落」を伝える大本営発表や、鹿児島県の知覧飛行場からの「特攻隊出撃」の実況放送などの音源を聴かせてもらうことが出来ました。えっ?どうしたことでしょう?ー実は、それらは、当時、高校生だったタカハシ・エイイチさん(耳で聞いただけなので、漢字が分からず済みません。大森さん教えてください)という方が、いわゆる「ラジオ少年」で、部品を買い集めて録音機まで自分で作ってしまい、その奇跡的な貴重な音源をNHKの大森氏がタカハシさんからお借りして来たものだと明かしておりました。いつお借りしたのか分かりませんが、タカハシさんが御存命なら現在、90歳代後半です。「無名の少年」が残した貴重な歴史的音源ですから、もっと世間に知られても良いと思いました。

 サイパン島陥落は、昭和19年7月18日午後5時に大本営が発表した原稿でした。サイパンの最高指揮官である南雲忠一海軍中将を始め、全員が戦死したことを伝えるとともに、サトウキビ栽培などで移住していた2万人の邦人市民も「おおむね将兵と運命をともにせるものの如し」と発表していました。しかし、大森氏によると、住民の半数は米軍によって収容されたといいます。

 興味深いことは、このサイパン陥落報道から間もなくして、大木惇夫作詞、山田耕筰作曲で「サイパン殉国の歌」(木下保、千葉静子歌)が作られ、SPレコード(ニッチク)も発売され、戦意高揚のため、毎日、ラジオ放送もされたというのです。サイパン玉砕を予測した軍部が、随分前にあらかじめ作詞作曲を依頼したのではないかと思わせるほどの手早さです。

 大森氏は、ラジオ放送の歴史を綿密に調べ上げておりました。NHKは最初から政府べったりの「御用放送」かと思っていたら、放送が開始した大正14年(1925年)から数年は、講演会を放送し、中には軍事費を増強する政府を批判する講演まで放送していたといいます。それが、軍国主義が台頭していく中で、次第に軍部に協力するようになったといいます。 

 一般の人にはあまり知られていませんが、NHKは戦前は、ニュース報道の取材はしていませんでした。専ら国策ニュー通信社である同盟通信社(現電通、時事通信、共同通信)の配信するニュース原稿を読んで放送していました。それが、大森氏らが発掘した戦時中のニュース原稿のゲラを見たら驚きです。同盟通信の原稿を大幅に削除したり、加えたりして、より戦意が高揚するように書き換えて放送していたのです。

 こういう史実は語り継がれなければならない、と思いました。

 

我々はタイ人だったのか?中国人だったのか?とにかく混血ですが衝撃的な結末です=NHK「日本人とは何者なのか」

 先日、NHKBSで放送された「フロンティア」第1回「日本人とは何者なのか」は、この《渓流斎日乗》の愛読者の皆さんには必見の番組でした。ちょっと制作者側のわざとらしさが目に付きましたが、内容はひっくり返って驚くほど衝撃的でした。(NHK総合で、12月18日午前0時25分から再放送あり)

 私はせっかちなので、結論を先に書いてしまいますが、我々日本人はもともとタイ南部に今でも狩猟採取を続けるマニ族(東京大学の太田博樹教授によると、タイやラオス周辺に住んでいる「ホアビニアン」と呼ばれる民族)の流れを汲む1000人の勇気のあるフロンティアが北上して3万年前に日本列島に住み着いて「縄文人」となり、その後、3000年前に大陸の北東中国から渡来した「弥生人」との混血が進み、これまでの定説ではその「二重構造説」でお仕舞いでした。しかし、次世代シーケンサーと呼ばれる最新のDNA解析により、3世紀の古墳時代に東アジア全域から渡来した民族との混血、つまり、「三重構造説」だったということが分かったというのです。これは驚きです。

 要するに、DNA解析により、今の日本人の多くには、東アジアから渡来した「古墳人」が半分、「弥生人」が4分の1、「縄文人」が4分の1の割合で混血したDNAが残っているというのです。(縄文人の流れを色濃く残すアイヌ民族と沖縄人は除きます)ただし、この肝心要の「古墳人」については、まだ研究の最中なので、どんな人たちなのか、何故、3世紀になって大量の東アジアの民族が日本列島に渡来したのかはまだ不明で分かっていません。東アジアの民族とは、中国だけではなく、ベトナムのキン族なども含まれているようです。中国には56も民族がありますから、日本人とそっくりの雲南省の白(ペー)族なども含まれているのではないかと思われます。(番組ではそこまで詳しくやってくれませんでした!)

築地

 我々の祖先であるホモ・サピエンスは20万~30万年前にアフリカで誕生し、7万年前にアフリカを出て西アジアに行き、そこから欧州に行く者と東アジアに行く者とに分かれ、日本列島には3万年前に辿り着いたといいます。それが、先述したホアビニアンの1000人です。3万年前は、まだ氷河期で日本列島と大陸は、くっついていたといわれます。南は対馬と九州が、北は北海道が大陸にくっついていたので、歩いて渡って来ることが出来たのでしょう。

 それが、1万8000年前に氷河期が終わり、温暖化で海面が上昇し、日本列島は孤立状態となります。お陰で、列島に閉じ込められた人たちが縄文文化(1万6000年前~3000年前)を1万3000年間も花咲かせます。なあんだ、鎖国じゃん、と突っ込みたくなります(笑)。あの火炎土器も奇妙な宇宙人のような土偶も、鎖国の産物だったとは!

 でも、今から3000年前に北東中国から渡来した「弥生人」たちは、稲作と金属器をもたらしました。恐らく、高度な造船と航海術を身に付けていたからこそ、渡来できたのでしょう。縄文人と混血します。

築地

 そして、残るは「古墳人」です。3世紀となると、日本はもう卑弥呼の時代でした。中国では漢王朝が滅亡して魏呉蜀の三国時代などになりますから、内乱続きで不安定なため、日本列島に「亡命」する人が溢れたのではないかと推測されます。職人や技術者や技能者だけでなく、手に職を持たない一般庶民も多く渡来したようです。現代日本人のDNAの半分も「古墳人」が占めているといいますから、相当大量の民族が海を渡って日本にやって来たことは確かです。この時の「日本人」と言っても、容姿や皮膚の色が違い、お互いに言葉が全く通じない、現代以上に国際色豊かだったと考えれています。(「人類の起源」の著者篠田謙一国立科学博物館館長

 最新のDNA解析って本当に凄いですね。古墳人を中心にもっともっと解明されていけば、日本人とは何者なのか、分かっていきます。これは大いに楽しみです。皆さんも一緒に長生きしましょう(笑)。

英国人捕虜を連行した憲兵軍曹大山勉は東京外語仏語部出身だった=インテリジェンス研究所特別研究員名倉有一氏の業績(その2)

 全く意図しておりませんでしたが、昨日、この渓流斎ブログに書いた「日本軍捕虜の英国人遺族の娘が78年ぶりに来日した物語=インテリジェンス研究所特別研究員名倉有一氏の業績」の続きのような読み物を本日書くことになりました。

 あれから、また名倉氏から「資料」が送られてきたのです。「駿河台分室物語 対米謀略放送『日の丸アワー』の記録」です。昨日、添付しようとしたら、容量が大きすぎて添付出来なかったことを書きましたが、同じ「駿河台分室物語 対米謀略放送『日の丸アワー』の記録」の中でも、これは別物で、対米ラジオ放送の協力を拒否した英国人捕虜のウィリアムズさんを東京憲兵隊本部へ連行した大山勉・憲兵軍曹の履歴に絞った資料でした。

 送られて来た資料を読んで驚きました。大山勉憲兵は、1939年に東京外国語大学仏語科(当時は、東京外国語学校仏語部文科)を卒業した人で、小生の大先輩に当たる人だったからです。

 こちらの資料は、容量がそれほど大きくなかったので、うまく添付することが出来ました。名倉氏が、小生にわざわざ「大山勉」の資料を送ってくださったのは、私が東京外国語大学のフランス語科のOBだということを存じ上げていたからのようでした。

 東京外語大の仏語科出身の歴史的人物といえば、無政府主義者の大杉栄や詩人の富永太郎、中原中也、それに作家の石川淳らがおり、いずれも、「反体制派」の烙印を押されてもおかしくない人ばかりです。いや、むしろ、体制に準じない反骨の精神を誇りに思っている人が少なくないと言っても良いでしょう。私自身も含めて(笑)。このほか、東京外大出身で、反骨精神に溢れた人物として、作家の永井荷風(清語)、新美南吉(英語)、二葉亭四迷、島田雅彦(露語)を挙げておきます。

 嗚呼、それなのに、体制派べったりの憲兵さんが先輩にいたとは! 勿論、語学力を生かして、外務省に入省したり、総合商社に就職したりする「体制派」の方々も多いのですが(笑)、憲兵さんとなるとどうも異色です。

 名倉氏から送られた資料には、大山勉の学友(同級生)で満鉄東京支社調査室に勤務したこともある武博宜氏の書簡も掲載されていますが、「(大山勉と)私とは昭和10年から14年まで東京外語の仏語部で一緒でした。旧制中学は当時名門だった府立四中(現都立戸山高校)でしたから勉強はよく出来ました。時折、改造社辺りから出版されたブハーリン、トロツキーなどの書籍を小脇に抱えていたのを覚えています。後年、憲兵になったー恐らく志願したのでしょうーことを思い合わせると違和感を覚えます。」と証言するほどでした。

赤羽

 その一方で、池田徳真著「日の丸アワー―対米謀略放送物語 」(中公新書)にはこんなエピソードが紹介されています。

 また時には大山憲兵の部屋にいって、話し込むこともあった。彼の部屋をみるとこれまた不思議である。フランス語の本がずらりと並んでいて、彼自身はゾラやモウバッサンの小説をフランス語で読んでいる。それは私たちの憲兵のイメージとだいぶ違うので聞きただしてみると、彼が言うには「私は仏文卒で、フランス語の勉強を命じられているのです」とのことであった。

 恐らく、仏印などに派遣された時に、現地で尋問や通訳・翻訳としてフランス語を使う場合もあるので、大山も上司に命じられて仏語の勉強を続けていたということなのでしょう。(実際、大山は、日米開戦後は、仏印サイゴンの憲兵隊に転勤した。)

 戦後、憲兵だった大山が、公職追放されたのか、そして、どんな生活を送ったのか、この資料だけでは不明ですが、晩年は宇都宮に住んでいたようです。戦後まもなく、大山は、富士山麓の農民の先頭に立って、米軍の実弾射撃訓練に反対する行動を指導していたという噂があった一方、大山の同級生の武氏は「戦後、大山君が『反米』『反戦』の立場を取っていたかどうかについては、全く心当たりがありません。彼との間でその種の話を交わした記憶はありません」(1998年3月24日付、名倉氏宛て書簡)と証言しています。

 物静かな人だったらしいので、指導者の噂は眉唾ものだったと思われます。依然と、大山憲兵軍曹の履歴は謎に包まれていますが、もし彼が戦争がない時代に生まれていれば、フランス文学者になっていたのかもしれません。

 日本軍捕虜の英国人遺族の娘が78年ぶりに来日した物語=インテリジェンス研究所特別研究員名倉有一氏の業績

 《渓流斎日乗》は、ブログながら「メディア」を僭称させて頂いております。日本語で言えば「媒体」ですので、たまには他人様のふんどしで相撲を取らせて頂いても宜しゅう御座いますでしょうか? 報道機関と呼ばれる新聞社の記者も取材と称して、政治家や専門家の話を聴いて活字にしているわけですからね(笑)。

 本日取り上げさせて頂くのは、インテリジェンス研究所の特別研究員である名倉有一氏の「業績」です。名倉氏はアカデミズムの御出身ではなく、堅いお仕事を勤め上げながら、一介の市井の民として地道に研究活動を続けておられる奇特な方です。

 彼の業績を一言で説明するのは大変難しいのですが、第一次世界大戦の敗戦国ドイツや、第2次世界大戦の連合国(米、英、蘭など)の捕虜たちの日本での収容所の記録を収集し、今日的意義を研究しています。このほか、太平洋戦争中、対米謀略放送「日の丸アワー」などを放送していた東京の参謀本部駿河台分室(1921年、西村伊作らによって創立された「文化学院」が、戦時中に摂取されて捕虜収容所になった。現在は、家電量販店ビックカメラ系の衛星放送BS11本社があるというこの奇遇!)に関する研究もあります。

 このほど、名倉氏から送付された「記録」を以下にご紹介します。

 

 続いて、もう一つ、二つ、名倉氏編著による「駿河台分室物語 対米謀略放送『日の丸アワー』の記録」などを添付しようとしましたが、容量が重すぎて、この安いブログに添付掲載することが出来ませんでした。残念!!(ITに詳しくないのですが、そのため、このブログに写真を掲載する際、容量をオーバーしないように、私はわざと画質を落として掲載しています。)

 仕方がないので、朝日新聞ポッドキャストに掲載された以下の3話をご視聴ください。これは、日本軍の捕虜になった英国人チャールズ・ウィリアムズさん(1918~94年)の遺族である娘のキャロライン・タイナーさんが、今年9月、父親が日本人から譲り受けた半纏を78年ぶりに「返還」した感動の物語です。

 名倉氏は捕虜収容所研究の大家ですから、今回、英国人のキャロラインさんと日本を橋渡しするコーディネーター役として活動されました。(名倉氏は、キャロラインさんの父ウィリアムズさんとは生前に英国でお会いしています。)

 ・ある捕虜の足跡① 「亡き父が大切にしていた1着の上着 敵国の男性からの贈り物だった」 

 ・ある捕虜の足跡② 「『命は保障しない』それでもNOを貫いた イギリスの若者はなぜ長野へ」(名倉有一氏も登場します。)

 ・ある捕虜の足跡③ 「秘密の戦争ビラづくり、家族にも言えなかった 脳裏に残る彼のこと」 

 上記、引用添付には音声のポッドキャストだけでなく、関連記事も掲載されていますので、お読みになって頂ければ幸いです。

🎬「ナポレオン」は★★★

 最近、どうも映画づいてしまい、毎週のように観に行っておりますが、今週は、今、派手に宣伝しているリドリー・スコット監督作品「ナポレオン」(ソニー・コロムビア)を観て来ました。

 私は、自称「フランス語屋」ですので、大いに期待したのですが、仏皇帝ナポレオンなのに「英語」でガッカリです。これは、ユダヤ資本の米ハリウッド映画なので最初から分かっている話ですけど、世界的に一番「売れる」作品としてのマーケット戦略が見え隠れします。それに、一大戦争スペクタクル映画なので、巨額の製作費が掛かっているはずです。今、調べたところ、2億ドルらしいので、約300億円です。これでは、恐らく、今のフランス映画界では製作できないことでしょう。仏語での興行収入を回収できるかどうか見込めないという意味でも。

 「ブレードランナー」「グラディエーター」で知られる名のある巨匠リドリー・スコット(86)だからこそ、投資できる映画だと言えます。ですから、フランス人から見たナポレオンではなく、英国人リドリー・スコットから見たナポレオンが描かれています。そして、監督は、肝心要のナポレオン役に、「ジョーカー」で米アカデミー主演男優賞を受賞したホアキン・フェニックスを起用しましたが、どう見てもナポレオンに見えない!今、旬のフランス人の世界的映画俳優が見当たらないせいかもしれませんけど、もし、アラン・ドロン(88)がもう少し若くてナポレオンを演じたら、ギトギトした野心家の面を彼なら自然に出せたんじゃないかと思いました。

 映画の宣伝コピーにあるように、「英雄と呼ばれる一方で、悪魔と恐れられた男」の話にはなっておりますが、実に人間臭く描かれています。英雄ナポレオンは、天下国家を論じたり、領土拡大の野心を語るのでもなく、不逞を働く妻ジョゼフィーヌとの関係に悩む「弱い男」丸出しです。

 勿論、史実に基づいて描かれていますが、映画ですから脚色されています。ナポレオンの弱さを強調する辺りは、歴史上の人物というより、「リドリー・スコットのナポレオン」と言っても間違いないでしょう。

 ナポレオン・ボナパルト(1769~1821年、51歳没)の時代は、日本で言えば十代将軍徳川家斉(1773~1841年)の時代に当たります。日本は一応安定した江戸時代ですが、フランスは、仏革命後の粛清の嵐と戦争に明け暮れた時代でした。残酷なギロチンの場面も出て来ます。

 映画のエンドロールで、ナポレオン戦争での戦死者が450万人にも上ったことを数字で明らかにしていました。これだけの犠牲者を出したわけですから、ナポレオンは英雄視される一方、今でも、「コルシカ人」の彼のことを憎悪する欧州人がいるのは納得せざるを得ません。映画では、有名なアウステルリッツの戦いや最後のワーテルローの戦いなど数々の戦争シーンが出て来ますが、恐らくCGも使ったことでしょうが、実に圧巻で、観客も、まるで戦場に立たされているような感じでした。

 この映画では、モスクワの「冬将軍」に遭遇する場面や「百日天下」などが再現されますから、世界史を齧った人なら、「うまく描いているなあ」と納得しますが、ハイライトは、ダヴィッドが描いた有名な「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」(パリ・ルーヴル美術館)を再現した場面かもしれません。まさに、あの絵画を参照して映像化したことが読み取れます。まるで、歴史ドキュメンタリーのような感じですが、やはり、ドラマは、まるでその場を見てきたような「リドリー・スコットのナポレオン」になっています。

🎬北野武監督作品「首」は★★★

 今年5月の仏カンヌ国際映画祭のプレミア部門で上映され、熱狂的な歓迎を受けた北野武監督の6年ぶりの新作「首」を、日本の田舎の映画館で観て来ました。

 「本能寺の変」前後の織田信長とその家臣団との間の血と血で洗う、マフィアの跡目争いのような抗争です。まさに「首」が飛び交うグロテスクな場面も描かれ、「15歳未満お断り」に指定されていました。

 個人的な感想としましては、部分、部分でとても迫力が良い場面が多かったのですが、全体的、特に、「物語」の面では、腑に落ちない面が多々ありました。ご案内の通り、この辺りの歴史には精通していますからね(笑)。

 まず、良かった場面は、合戦場面です。特に長篠・設楽原の戦いで、武田軍の騎馬隊と信長・家康連合軍の鉄砲隊とが戦う場面や何百本の弓矢が空中で飛び交うシーンは迫力満点で、黒澤明監督を思わせました。

 羽柴秀吉をビートたけし、黒田官兵衛を浅野忠信、明智光秀を西島秀俊、徳川家康を小林薫が演じていましたが、何と言っても秀逸だったのが、織田信長役の加瀬亮でした。狂気じみた独裁者信長が名古屋弁で理不尽なことばかり命令しながら、多くの面前で家臣を殴り倒したりしますが、恐らく、実際の信長もああいう感じだったのではないか、と思わせました。とにかく、台詞を尾張言葉と言いますか、名古屋弁にしたことは大成功でした。

 北野監督の30年の構想ということで、かなりの自信作なのでしょうが、光秀と荒木村重(遠藤憲一)との関係が本能寺の変につながったという説はどうも違和感がありました。勿論、壮大なるフィクションなので、エンターテインメントとして楽しめば良いかもしれませんが。

 秀吉の参謀で弟の秀長役を大森南朋が演じておりましたが、彼は大河ドラマ「どうする家康」で、家康の四天王の筆頭、酒井忠次役を演じ、その印象が強過ぎて、何か変な感じがしました(苦笑)。ついでに言えば、大河ドラマでさえ、多くの家臣が登場するのに、例えば、光秀の家臣として登場するのは斎藤利三ぐらい、秀吉の家臣も目立つ家臣は蜂須賀小六と宇喜多直家ぐらいで、加藤清正も福島正則も石田三成も登場しません。合戦前の軍評定に家臣が二人ぐらいしか登場しないのはあり得ない(笑)。

 でも、北野監督がスポットライトを浴びせたかったのは、木村祐一演じる曾呂利新左衛門だったかもしれません。元甲賀忍者で密偵として働く「芸人」という役柄で、ビートたけし自身を反映させたかったのかもしれません。

 エンドロールで大竹まことが出ていたので、「あれっ?いたっけ?」と思い、家に帰って調べてみたら、千利休(岸部一徳)に使える間宮無聊役でした。分からなかったなあ~。

大英帝国の最盛期を築いたヴィクトリア女王=「映像の世紀 イギリス王室の百年」

 先日放送されたNHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」で、「イギリス王室の百年」をやっておりました。

 120年以上昔に亡くなったヴィクトリア女王(1819~1901年)の生前の貴重な動画(フィルム)や、女王崩御後、その子孫が大英帝国やドイツ帝国などで王位を継承して、第一次世界大戦では、ヴィクトリア女王の孫たちが敵味方に分かれて「骨肉の争い」となり、第二次大戦でもまた孫と曾孫が敵味方に分かれて戦った様を「映像」で再現しておりました。そんなフィルムが残っていたとは!まさに驚くほかない番組でした。

 何で欧州諸国同士の戦争が孫や従兄弟同士の骨肉の争いになるのか? ーそれは、列強諸国同士が政略結婚で自分の王女を他国の王子に嫁がせたりしているからです。日本でも戦国時代は特に、戦略結婚が政治や外交の基本にさえなっていたと言ってもいいでしょう。美濃の斎藤道三の娘濃姫と尾張の織田信長との結婚、信長の娘五徳姫と徳川家康の嫡男信康との結婚など枚挙に暇はありません。

 第一次世界大戦とは、1914年から18年にかけて、主に同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国など)と連合国(英、仏、露など)との間で行われた戦争でしたが、「最高指揮官」であるドイツ帝国のヴィルヘルム2世と大英帝国のジョージ5世は従兄弟で、ヴィクトリア女王の孫同士という関係でした。つまり、ヴィルヘルム2世は、ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアとドイツ皇帝フリードリヒ3世との間の嫡男、ジョージ5世は、ヴィクトリア女王の長男エドワード7世から継承した英国王ということになります。

  また、連合国側のロシア皇帝ニコライ二世は、ヴィクトリア女王の孫と結婚したことにより、英国王室と縁戚となります。ヴィクトリア女王の孫とは、ヴィクトリア女王の王女アリス(ヘッセン大公妃)の娘アレクサンドラです。第一次大戦の最中にロシア革命に遭遇し、ニコライ二世は英国に逃れようとしましたが、ジョージ5世から認められず、母国で家族もろとも処刑される悲劇を生みます。(ジョージ5世とニコライ2世は、風貌と体格がそっくりだったので、衣服を替えて周囲を驚かせたという逸話が残っているにも関わらず、ジョージ5世にはロシア赤軍との戦争を回避したい思惑があったようでした。)

 第一次大戦から約20年後の第二次世界大戦では、英国はジョージ5世亡き後、長男ディヴィッドが、エドワード8世として即位したものの、「シンプソン事件」でわずか325日の在位で廃位となり、弟のアルバートがジョージ6世として即位し、はとこ(また従兄弟)に当たるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(オランダに亡命し、客死)と対峙します。(実際は、独ヒトラーと英チャーチルとの戦いでしたが)

ジョージ6世は、映画化された「英国王のスピーチ」でも知られるように吃音を克服して、戦時中、ナチスによる空爆で損害を受けた英国民を鼓舞しました。昨年亡くなったエリザベス2世の父君に当たる人です。

エリザベス女王は、我々と同時代の人ですが、ヴィクトリア女王は歴史の教科書でしか知らない遥か大昔の人だと思っていました。でも、番組で彼女の動画を見たりすると、「つい最近の人だったのか」と思ってしまいます。不思議なものです。

クロード・ハウザー、ピエール=イヴ・ドンゼ編「駐日スイス公使が見た第二次世界大戦―カミーユ・ゴルジェの日記」を翻訳した鈴木光子氏=大学同窓会で講演

 11月19日(日)は、東京・大手町で開催された大学の同窓会「第28回サロン仏友会」にオンラインで参加しました。毎年、この時期に開催されるのは、ボージョレ・ヌーヴォーが解禁される「飲み頃」を狙ったものですが、会場参加出来なかったので、恩恵に預かれませんでした(苦笑)。

 今回のゲスト講師は、元スイス政府観光局次長で旅行作家、翻訳家の鈴木光子氏でした。御高齢ということで、彼女もオンライン参加でした。お話は、今年3月に、足かけ5年の歳月をかけて翻訳出版したクロード・ハウザー、ピエール=イヴ・ドンゼ編「駐日スイス公使が見た第二次世界大戦―カミーユ・ゴルジェの日記」(大阪大学出版会)の完訳までの苦労話が中心でした。

 日記を書いたカミーユ・ゴルジェ(1893~1978年)は、スイス・ジュラ州(フランス語圏)出身の外交官で、日本には1924年から26年にかけて、当時、国際連盟事務局次長だった新渡戸稲造の推薦を得て外務省法律顧問として初来日し、40年から45年にかけて駐日スイス公使を務めた人です(その後、ソ連やデンマークなどの公使も歴任)。最初の来日は、大正デモクラシーの自由な世界で、公使を務めた時は、軍国主義の戦時体制でしたから、あまりにもの違いに驚くことが日記に書かれています。(未読なので、そのようです)

 日記は戦後10年経って公表されましたが、今回は、スイス・フリブール大学のハウザー教授が、カミーユ・ゴルジェの子息に連絡を取って、出版の許可を得て、大阪大学のドンゼ教授と連携して編纂し、前書きと後書きを執筆したというものです。1938年生まれの鈴木光子氏は、先の大戦で空襲の体験があることから、「歴史と記憶」を大命題とし、「太平洋戦争の記憶が薄れていく現代で、何が歴史として残るかを問う著作」として綿密に翻訳作業に取り組んだといいます。

 鈴木氏によると、日記には、皇室への憧憬、大国と小国の席の序列など外交界での身分格差、戦時下の一般庶民の投げやりな日常、スイス外交団の軽井沢への疎開など、貴重な歴史的証言が描かれているといいます。邦訳は583ページにも及ぶ大作で、「持つと重さ1キロもありますが、多くの人に読んで頂きたい」と鈴木氏は話しておりました。

 ついでながら、鈴木氏はスイスの専門家なので、日本人が意外と知らない「スイス人」の著名人として、思想家のジャン・ジャック・ルソー(1712~78年、父親はジュネーブ共和国の時計職人)、建築家のル・コルビュジエ(1887~1965年、本名Charles-Édouard Jeanneret-Gris、タグ・ホイヤーなど世界的時計メーカーが本拠地を置くラショー・ド・フォン出身)、フランス6人組の一人である作曲家アルトゥール・オネゲル(1892~1955年、仏とスイスの二重国籍)らを挙げておりました。

「延安での毛沢東の日本人洗脳工作と戦後GHQの工作の関係性」=第54回諜報研究会

11月18日(土)に早大で開催された第54回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)に参加して来ました。共通テーマは「延安での毛沢東の日本人洗脳工作と戦後GHQの工作の関係性」でした。活発な議論が展開されて興味深い会合でした。 

 最初に登壇されたのは、インテリジェンス研究所理事長の山本武利早稲田大学・一橋大学名誉教授で演題は「捕虜洗脳には難解な本を読ませろ!」でした。先の大戦の日中戦争の最中、中国・延安で毛沢東から日本兵捕虜の洗脳を全面的に委任された野坂参三が使った教育用テキストを山本氏が古書店で「高価格で」入手し、その内容が報告されました。

 野坂参三は、毛沢東やコミンテルンなどからの支援を得て、1940年10月に延安に日本工農学校を組織し、校長に就任しました。この時、使った変名が「林哲」でした。その林校長も「時事問題」の講座を持ち、日本兵捕虜への洗脳に一翼を担ったことが分かります。

 具体的に使われたテキストとして、青年コミンテルン編「無産者政治教程ー資本主義社会の解剖」(延安日本工農学校出版部)といったオリジナルの書籍のほか、野呂栄太郎著「日本資本主義発達の歴史的諸条件」など難解な書物ばかりでした。野呂栄太郎は慶応大学の野坂参三の後輩に当たり、戦前の日本共産党の理論的支柱になった人でしたが、拷問がもとで病状が悪化し33歳の若さで亡くなっています。彼は、慶大卒業後、朝日新聞の入社試験を受けたものの、思想チェックと思われる理由で落選し、合格したのは後にゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実でした。(もう一人受験して不合格になった人が、尾崎秀実と東大大学院同期生の松岡二十世の可能性が高いことを、松岡将氏が「松岡二十世とその時代」に書いております。)

 話が少し逸れましたが、延安で使われたテキストが難解だったという話でした。報告者の山本氏は「日本兵捕虜たちの多くは小学校卒業程度の教育レベルだったにも関わらず、難解なテキストを使ったのは、『帝国主義』とか「労働搾取』とか、ちょっとかじっただけで、自分も革命の一翼を担えると洗脳する目的があったのではないか」と分析し、「また、集団の中で各自に自己批判をさせたのは、カルト宗教がやってきた手法と同じです。毛沢東率いる共産党のやり方は非常にシステマティックで凄いという言うほかない。その点、蒋介石率いる国民党は甘かった」とまで力説していました。

 次に登壇されたのは、山下英次大阪市立大学名誉教授で、演題は「日本列島全体を『洗脳の檻』と化した GHQ:また、米軍延安ミッションは何をもたらしたか?」でした。

 山下氏が展開する持論は、日本は戦後78年間、「非独立国」であり、GHQが仕掛けた「洗脳の檻」から抜け出していない、というものでした。その証拠に、独立国の三種の神器である①自前の憲法、②国防軍、③スパイ防止法に裏付けされた統合された国家情報機関がないからだといいます。

 1944年11月、米国は中国共産党の本拠地・延安に軍事顧問団を派遣し、その場で、野坂参三による日本兵の洗脳が大きな成果を収めていることに着目し、戦後、GHQによる日本人洗脳計画の手本として利用したといいます。

 山下氏は、GHQ洗脳作戦として、①押し付けた現行憲法、②約21万人の公職追放、③7000冊以上の禁書指定、④日本の伝統的な歴史・道徳教育の全面的禁止と偏向教育、⑤徹底した検閲を伴った言論統制ーなど七つの柱を提唱して列挙しておられました。

 確かにその通り、一々、ご尤もと頷いていたのですが、「教育勅語を見直して、修身の教育を復活させた方が良い」「GHQの検閲は、戦前の日本より酷かった」といった趣旨の話になったときに、段々、違和感を覚えてしまいました。

 ただ、その場では考えがまとまらず、会場で質問さえしなかったので、これは後出しジャンケンのようになってしまいますが、確かにGHQの検閲は、問題にならないくらい極悪非道の検閲ではありましたが、日本の方がましだった、というのは違うんじゃないかな、と帰りの電車の中で考えた次第です。作家小林多喜二の拷問惨殺事件でも分かるように、特高による治安維持を盾にした言論弾圧は身の毛もよだつほどでした。戦時中は、永井荷風も谷崎潤一郎も、そして江戸川乱歩でさえも発禁処分を喰らって、断筆を強いられました。

 それに、日本は、敵国の事情を知らなければならないはずなのに「敵性語」の使用を禁止し、野球のセーフやアウトを「良し」「駄目」とか言い換えたりして噴飯物です。精神論ばかり強調し、上層部は、元寇のように神風が吹くと思っていました。「軍人勅諭」なんか、「捕虜にならず、自殺しろ」と言っているようなもので、米軍とは正反対です。米軍は兵士に対して十分な食糧とデザートまで用意して兵站の観念がしっかりしていたのに、日本軍は非常に無責任で、食糧は現地調達で片道切符しか兵士に与えず、戦死者のほとんどが餓死者だったということで米軍とは対象的です。それでいて、インパール作戦の司令官だった牟田口廉也将軍のように、エリート軍事官僚は、兵士を虫けら扱いにして遺棄して、一人白骨街道の上空を悠々と飛行機で逃げ帰った史実もあります。

 確かに、戦後GHQの洗脳作戦が酷かったとはいえ、戦前の軍国主義の方がましだったとは言えません。

 GHQがやったことは全て悪かった、と全面否定することは簡単ですが、少しはましなこともやっています。例えば、「農地改革」により小作人たちは奴隷状態から抜け出すことができたし、「華族制度」廃止により、明治新政府という名の薩長軍事クーデター政権がつくった身分制度が廃止され、多額納税者である貴族議員という特権階級の廃止と「婦人参政権」により、表向きには民主主義が成立しました。いずれも、戦前の日本の軍事政権では出来ず、外圧によってしか成し得なかったことでした。

 結局、日本は「永久敗戦国」として、「思いやり予算」で米軍と基地を受け入れ、「核の傘」の中で戦後の高度経済成長を成し遂げました。今も占領が続いているのは確かで、米国の51番目の州みたいなものだということは多くの国民が自覚しているところです。それより、ソ連のロシアに征服されるよりマシだったかもしれないし、北朝鮮のような全体主義的軍事政権がそのまま続いていたよりマシだったかもしれません。

 そんなことを考えながら夜道を帰りました。

 

フランス語は18世紀でも人口の20%しか話されていなかった!

 いい年こいて、いまだに身に付かないフランス語を勉強しています。専らNHKのラジオ講座「まいにちフランス語」ですが。

 今放送されている応用編「フランコフォニーとは何か」(講師は西山教行、ジャンフランソワ・グラヅィアニ両氏)は、知らなかったことばかりで大変勉強になります。

 フランス語を勉強した人なら誰でも知っている格言があります。

 Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.(明晰ではないものはフランス語ではない。)

 18世紀のフランスの啓蒙主義作家アントワーヌ・ドゥ・リヴァロールの言葉ですが、確かにフランス語は文法がしっかりしていて、英語のような、どっちにでも意味が取れそうな曖昧さは微塵もありません。大袈裟な!

 そのせいか、フランス語は今より遙かに国際語として通用していました。フランス語を日常的に使っていた有名な外国人は、プロイセン(ドイツ)のフリードリッヒ2世、ロシアのエカテリーナ二世女王、米国の政治家・外交官ベンジャミン・フランクリン(仏語ではバンジャマン・フランクランと読みます)、女性遍歴で有名なイタリア・ベネツィアの作家カサノヴァらです。欧州全体でフランス語が使われていたのです。

 いや、これはさほど驚くべきことではありません。私が何よりも驚いたのは、18世紀のフランス本土で日常的にフランス語を使っていたのは、全人口のわずか20%しかいなかったという史実です。フランス語を使用していたのは、フランス王権のあるパリ近辺のイル・ド・フランス地方や北部のピカルディ地方などです。当時、83県のうち、15県しかなかったといいます。残りの80%はそれぞれの地域の言語ー例えば、バスク語やブルトン語やコルシカ語などを使っていたのです。

 そう言えば、日本だって、19世紀の江戸時代までは地域語が日常語であり、恐らく津軽藩と薩摩藩との間では言葉が通じなかったと思われます(笑)。

タコス・パーティー

 フランスではフランソワ1世(1494~1547年)が1539年、ヴィレル・コトレの勅令を発布し、行政、司法、教会等の文書をこれまでのラテン語からフランス語にするよう取り決めました。この勅令は、現代フランスでも有効といわれる最古の法とも言われますが、実質的な効力ではなく、象徴的な面が強いといいます。実際、2014年、当時のエロー首相は、閣僚が英語を多用しないようにこの勅令を参照したそうです。

 このように、16世紀にフランス語は公用語になったとはいえ、18世紀末になってもフランス語を話せるのは国民のわずか20%しかいなかったというのは、驚くほかありません。「まいにちフランス語」講師のグラヅィアニ講師によると、フランス語が仏全土に行き届くのは、19世紀の第三共和政(1875~1940年)になってからで、初等教育が義務化され、農村人口が都市に流れ込み、ラジオやテレビが普及してからだそうです。ただし、フランスとスペインに居住するバスク人の間でバスク語を使う人は300万人おり、フランスでバスク語しか出来ない人は現在でも2万人いるそうです。

 私はバスク人には大変興味があります。日本人なら誰でも知っている日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはバスク人ですし、仏作曲家のモーリス・ラヴェルも、キューバ革命のチェ・ゲバラ(アルゼンチン人)もバスク人だと言われています。

 何と言っても、スペインのバスク地方の街サン・セバスチャンは映画祭で有名ですが、何と言っても、三つ星のミシュラン・レストランが世界的にも多いグルメの街として知られていますからね。嗚呼、一度、行ってみたい!!