元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して

 本日、戦前から戦後にかけて「元祖アイドル」と言われた女優明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報に接しました。享年99。

 何よりも、まだご健在だったことに驚き、叶わぬことでしょうが、もしその事実を知っていたなら、生前にお話を伺いたかったなあ、と思いました。

 私が彼女の名前を初めて聞いたのは、30年ほど前です。戦前から戦後にかけて新宿にあった大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だったという話を佐賀の一馬叔父(父親の弟)から聞いたことでした。最初聞いた時は、随分変わった分かりやすい芸名だなあ、ということぐらいで、それ以上はどんな女優だったのか知る由もありませんでした。

 当時、一馬叔父さんは自分の九州の高田家のルーツ探しに非常に熱心で、戸籍やら曾祖父が残した書き物などを元に系図を作ったりして、コピーも送ってくれました。その中で、叔父の叔父に当たる高田茂期(私から見て祖父の弟に当たる大叔父)が、昭和7~8年に、このムーランルージュで座付き脚本家として活動したことがあり、ペンネームとして「高悠司」という名前を使っていたという話を聞いたのです。

 しかし、当時は今ほどネットに情報が溢れていたわけではなく、知る由もなく、「高悠司」という人がいたかどうかも不明でした。当時、私は演劇担当の記者をしていたため、その折に知遇を得た演劇評論家の向井爽也氏(古い民家の絵を描く著名な向井潤吉画伯の長男で元TBSのディレクター)に、高悠司について伺ってみると「聞いたことないなあ」と一言。その代わり、ムーランルージュ関係の本を1冊紹介してもらいました。その本のタイトルは忘れましたが(笑)、勿論、高悠司の名前などありませんでした。

WT National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua  明日待子さんの写真が著作権の関係で使えないので、リンク先でご参照ください。

 それが、最近、ネットで検索したところ、高悠司の名前が2件ヒットしたのです。1件は、大恥を晒しますが、私が2006年5月28日の《渓流斎日乗》に書いた記事(笑)。もう1件は、1933年に東京朝日新聞社から発行された「レヴュウ號」映画と演芸・臨時増刊(54ページ、50銭・26x38センチ判)の索引の中に出てきたのです。名前だけですが、有馬是馬 、春日芳子といった俳優のほかに、関係者(座付き作家?)として伊馬鵜平(太宰治の親友としても有名)、斉藤豊吉らとともに高悠司の名前が並んでいたのです。

 嗚呼、今は亡き叔父の言っていたことは本当だったんだ!実在していたんだ!と感激しました。いつか、この雑誌を国会図書館が何処かで閲覧させてもらおうかと思いました。

 さて、ウイキペディアの「ムーランルージュ新宿座」によると、明日待子さんは、上に出てきた俳優の有馬是馬に発掘されて1933年に入団、とあります。昭和7(1932)~同8(1933)年頃に在籍した大叔父高悠司と接点があったかもしれません。明日待子さんが存命と知っていたら、その辺りを聞いてみたかったのです。(一馬叔父の記憶では、高悠司は当時、湘南地方で起きた事件を題材に脚本を書いたところヒットして、二カ月のロングランになったらしい。また、彼はヴァイオリンも演奏したらしいですが、真相は不明です)

 明日待子さんは、デビューすると瞬く間に人気アイドルとなり、カルピスや花王石鹸、ライオン歯磨きなどの宣伝ポスターに引っ張りだこ。原節子、李香蘭と並ぶ「元祖アイドル」と言われる所以です。

 ムーランルージュには、座付き作家として、吉行淳之介のご尊父吉行エイスケや龍胆寺雄ら、俳優歌手には、左卜全、益田喜頓、由利徹らも関わっていたんですね。戦後生まれの私は勿論知りませんが、ボードビル風の軽喜劇もやっていたことでしょう。

◇ルーツ探し

 大叔父高悠司こと高田茂期の消息については不明な部分が多いのですが、旧制佐賀県立唐津中学(現唐津東高校)を中退し、佐賀新聞社に勤務。その後、兄である私の祖父正喜(横浜で音楽教師をやっていた)を頼って上京し、職を転々とした挙句にムーランルージュで脚本家の職を得たようです。そして、何かのツテがあったのか、そのムーランルージュも辞めて満洲に渡り、奉天市(現瀋陽市)で阿片取締役官の職に就き、その後、徴兵され、昭和19年10月のフィリピン・レイテ島戦役(フィリピンで俘虜となり、レイテ島に収容された大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しい)で戦死したと聞いています。享年33。

 長らく自分の「ルーツ探し」はサボって来ましたが、また復活したいと思っています。

岩槻大師~浄国寺~芳林寺=岩槻の英雄太田道灌

太田道灌公像

 最近、週末に時間があれば、関東近辺の「城巡り」を日帰りで蛮行していることは、このブログの熱心な愛読者の皆様には御案内の通りです。

 でも、先日、高野山に行ったおかげで、スイッチが入り、「寺社仏閣巡り」がそれに加わりました。お城と寺社は切っても切れない縁がありますから、まるっきり唐変木な話ではないのですが…(笑)。

岩槻大師

 そこで目指したのが、武蔵国岩付(現さいたま市岩槻区)にある「岩槻大師」です。大師が付きますから、当然、空海の真言宗の寺院です。ここの地下にある仏殿をお参りすると、四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという噂を小耳にはさんだので、行かないわけにはいきません(笑)。

岩槻大師

 この寺の正式名称は「光岩山釈迦院岩槻大師弥勒蜜寺」。パンフレットには「くしくも真言宗の宗祖弘法大師空海さまご誕生の年、光仁天皇の宝亀5年(774年)の草創と伝えられる」と書かれています。

 あれっ?真言宗とは、唐に留学した空海が恵果和尚(けいか・かしょう)に灌頂された密教を806年に日本に帰国して伝えたのではなかったのでしょうか?真言宗が成立したのも、高野山を開祖した816年という説が有力です。

 ま、堅いことは抜きにして、例の四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという「地下仏殿」にお参りしようとしたら、ちょうどその日に「得度式」なるものが本堂で行われていたため、お参りできませんでした。残念。

 そこで、前回書けなかった高野山のことを付記します。空海(774~835年)は60歳9カ月で入定しますから、高野山の壇上伽藍は、金堂や大塔などを建てただけで、未完成のままでした。そこで、壇上伽藍を完成させたのが、弟子の真然(804~891年)でした。真然は、空海の甥に当たり、空海の実弟である真雅(801~879年)から灌頂を受けました。

 東寺長者だった真雅は、清和天皇の信任が篤く、摂政藤原良房と結び貞観寺を創建し、死後、法光大師の諡号(しごう)を受けています。古代中世近世の政治史は、天皇、藤原家、武士だけでなく、仏法僧の世界が分からなければ理解できないことがこれで分かります。

  真然は、貞観18年(876年)、東寺長者真雅から「三十帖冊子」(空海が密教の典籍を書写した冊子)を借覧し、高野山に持ち帰ったので、これが後に、高野山と東寺との間に紛争が生じ、高野山が荒廃する原因となりました。

 真言宗を復興した中興の祖の一人と言われるのが平安中期から後期にかけて活躍した蓮待(れんたい=1013~1098年)で、全国を行脚した高野聖の先駆とみられ、「南無大師遍照金剛」という大師宝号を最初に唱えた僧侶だとも言われてます。

 ということは、真言宗の宝号である 「南無大師遍照金剛」は、空海が唱えたのではなく、空海入定後200年も経って生まれたことになります。

 ま、細かいことはこの辺にしておきます。。。

浄土宗 浄国寺

 次に訪れたのは、浄国寺です。

 実は、東武野田線岩槻駅の観光案内所で頂いた地図を手掛かりに岩槻大師を探したのですが、方向音痴の私は、道を間違えて、かなり時間をロスしてしまいました。

 が、岩槻大師から浄国寺への道順は迷わず行けました。境内はなかなか広かったです。

 何で、このお寺を訪れたかと言いますと、関東の寺社仏閣の来歴について、こと細かく書かれているネットサイトの「猫の足あと」に「関東の名刹寺院」として紹介されていたからです。

 浄国寺は「関東十八檀林」の一つのようですが、詳細は上の写真をお読み下さい。岩槻藩主を務めた阿倍家の墓もあります

曹洞宗 芳林寺

次に向かったのは芳林寺。岩槻駅の観光案内所で、「是非行かれるといいですよ」と勧められたのが、この芳林寺でした。

太田道灌ゆかりの寺だというのです。

太田道灌公像

 太田道灌は、この岩槻城だけでなく、河越(川越)城、江戸城を建てた戦国武将(扇谷上杉氏の家宰)で、特に江戸城を引き継いだ徳川家康らによって神格化されました。

太田道灌御霊廟

 太田道灌像は、東京の日暮里にもありますが、岩槻にもあるとは知りませんでした。

 岩槻市民も太田道灌への思慕が強かったですね。

 道灌の事績については、上の碑文によくまとめられています。

 今回は、ちゃんと「城巡り」と「寺社仏閣巡り」が一致しました。

謹慎中の武士が町人と僧侶と一緒にどんちゃん騒ぎ=かつての身分史観は間違っていた?

 (昨日からの続き)和歌山県 丹生都比売神社

 座禅に相当する 真言宗の瞑想は「阿字観」といいまして、梵字の「阿」の字に向かって、雑念を振り払って、心を空にして瞑想します。

 梵字は古代インドで誕生し、仏教とともにアジアに広まります。空海が日本に伝えたともいわれています。お墓の卒塔婆などでも使われていますが、現代は、インドや中国では廃れてしまい、主に日本だけしか使われていないというのです。これは知りませんでしたね。仏教自体が本家インドで、そして中国でも衰退してしまいましたから、梵字も同じ運命を辿ったのでしょう。

 「空海」(新潮社)を書いた高村薫さんによると、高野山は内紛で、空海入定後、わずか80年で無人になって荒廃してしまったというんですね。真言宗がその後、日本全土に普及するのは、難解な真言密教を通してではなく、空海を「弘法大師」としていわゆる偶像化して平易な現世利益を広めた多くの無名の「高野聖」の活躍があったといいます。

  空海に、弘法大師の諡号(しごう)がおくられたのは、天台宗の開祖最澄や円仁らと比べてもかなり遅く、実に死後87年目のことで、著者の高村さんは「意外なことに、空海の名声は比較的早い時期に一時下火になってしまったと考える」とまで書いていることを改めて追記しておきます。

 さて、今、大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社、2019年4月25日初版)を読んでいます。なかなか面白い。「江戸時代は士農工商のガチガチの身分制度だった」というこれまでの歴史観が引っくり返ります(笑)。

 絵日記の作者は、幕末の忍(おし)藩(今の埼玉県行田市)の下級武士だった尾崎石城(本名隼之助、他に襄山、華頂などの号も)。熊本県立大学の大岡名誉教授が分かりやすく解説してくれています。

 忍藩は江戸から北に15里(約60キロ)離れた人口約1万5000人の城下町です。忍城には、いつぞや私も栗原さんと一緒に行ったことがありますが、石田三成の水攻めにも屈しなかった堅城です。忍藩は、江戸時代になって、松平信綱や阿倍忠秋ら多くの老中を輩出したことから、「老中の藩」とも言われ、幕政の要になった親藩でもありました。

 尾崎石城は、天保12年(1841年)、庄内藩の江戸詰め武士だった浅井勝右衛門の子として生まれ、18歳の弘化3年(1846年)に忍藩の尾崎家の養子に入っています。庄内藩と忍藩とは縁もゆかりもなさそうですが、江戸時代はこういう「養子縁組」は当たり前のように行われていたんでしょうね。

 この石城さん、理由は詳らかではありませんが、度々、藩から咎めを受けて「蟄居」処分を受けます。最初は、23歳の嘉永4年(1851年)です。

 あれっ?大岡敏昭名誉教授の解説では、生まれた年が合いませんね。1846年の時点で18歳、1851年の時点で23歳が満年齢だとしたら、石城は1828年生まれ、つまり、 天保12年(1841年)ではなく、文政11年生まれでなければおかしいのですが。。。

 ま、堅いことは抜きにして、とにかく、石城さんは、何度も蟄居処分を受けますが、その度に自邸から抜け出して友人の家に行ったり、料亭「大利楼」などに行ったり、馴染みの和尚さんがいる寺院に行って酒を飲んだりしているのです。

 しかも、身分の差を越えて、武士と町人と僧侶が一緒になってどんちゃん騒ぎしているんですからね。その様子を、江戸の絵師福田永斎の門人として修行し絵ごころがある石城さんが、見事に挿絵として活写しているのです。本の表紙にもあるようにほのぼのとした雰囲気の絵です。

 絵日記は、二度目の咎めによる強制隠居の時の文久元年(1861年)6月から翌年4月まで書かれています。石城さんの生まれが文政11年(1828年)だとすると、33歳頃となります。蟄居ながら、独身という自由な身であることから、頻繁に寺院や友人宅を訪ねて、酒盛りする姿が描かれています。

◇大酒呑みの僧侶

 驚くほどのことではないでしょうが、ここに登場する僧侶は大酒呑みばかりで、料亭にも足繁く通ってます。大岡名誉教授の解説でも、「大蔵寺の宣孝和尚=酒好き、女好きで愉快な人物」「龍源寺の猷道和尚=この和尚も酒好き、女好き」と解説するほどです。(酒のことを「般若湯」、馬肉を「桜」、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉「紅葉」と誤魔化して、僧侶たちは、今で言うジビエ料理を楽しみ、しっかり肉食妻帯していたわけですから、「聖職者」とは程遠い感じです。人間的な、あまりにも人間的なです。)

 忍藩は、海のない藩なのに、蜆や鰯や鮪、鯔など石城さんはしっかり海産物を食べています。恐らく、お江戸日本橋の魚河岸から川による水上交通で運ばれて来たのでしょうね。

 石城さんの生活費はどう工面していたかと言いますと、妹邦子夫婦と同居し、邦子の夫である進は、石城の養子になり、石城さん蟄居中は、進が忍城に登城していました。また、石城は絵を描くので、掛け軸や行灯などの絵を頼まれ、近所の子どもたちには「手習い」を教えていたようです。呑み代が足りないと、帯を質に入れたりします。

 ◇武士の身分とは

 長くなるのでこの辺にして、この本の中に出てくる「武士の身分」についてだけは書いておきます。

【知行(土地)取り】家中(かちゅう)、侍、士分

・上級武士(300石~数千石)=家老、奉行、御勘定頭

・中級武士(50石~200石台)=番頭、寄合衆、御目付、御用人、御馬廻

【扶持取り】徒(かち)、給人(きゅうにん)、足軽、中間 / 小人、同心

・下級武士(二人扶持~二十人扶持)=元方改役、御鉄砲、御小姓、表坊主

※十人扶持の場合、1年に食べる10人分の米が支給される。一人一日五合として、年に一石八斗、10人分で十八石。また、切米(きりまい)という現米を年俸として支給されることもある。例えば、五石二人扶持とは、年に切米五石と、二人扶持(三石六斗)の計八石六斗の米が支給される。

 時は幕末。尾崎石城は、どうやら水戸の過激思想にかぶれて藩政批判したことから蟄居の身となったのではないか、と大岡名誉教授は推測しています。忍藩は幕政の要の親藩ですから、重罪です。尾崎家は当初、200石の御馬廻役でしたが、蟄居で知行を取り上げられ、石城は中級武士から下級武士に降格されたようです。それでも、絵日記には全くと言っていいくらい悲壮感がありません。

 それに、三度目の咎めの理由だけは分かっており、「謹慎中の隠居の身でありながら、勝手に出歩き、しかも町人町に家を借りたりして実にけしからん。寺への出入りも禁止する」というもの。大いに笑ってしまいました。

真言宗の最高儀式「後七日御修法」

高野山 大門

 先週、高野山に初めて参拝する機会に恵まれたため、真言密教に、より興味を持つようになりました。真言宗については、このブログでも何度か取り上げておりますが、自分が書いたものでもすぐ忘れてしまいます(苦笑)。

 真言宗には「豊山派」や「智山派」など色々な「派」がありますが、不勉強のせいか、その経緯については詳しく知りません。

 そこで、調べたところ、私が1年に1度は訪れている京都にある東寺(教王護国寺)は、真言宗の総本山だということは知っていましたが、有名な仁和寺も醍醐寺も真言宗だったんですね。恥ずかしながら、宗派は少しも気にせずにお参りしておりました。

 もう一つ、自分の恥を晒しますが、関東では、川崎大師や佐野厄除け大師は、初詣に多くの参拝者が訪れ、「大師」が付くので真言宗の寺院だということはよく知っておりましたが、成田山新勝寺も真言宗(智山派)だったとは、意識しておりませんでした。駄目ですねえ。

 少し話を脱線しますと、成田山新勝寺は、江戸時代以来、歌舞伎役者市川団十郎が篤く信仰し、屋号も「成田屋」にしていることは御存知の通りです。高野山の奥之院にも初代市川団十郎の墓所がありました。ところで、近く団十郎を襲名する市川海老蔵の若くして亡くなった奥さんの旧姓は小林麻央(まお)さんでした。海老蔵は真言宗の開祖空海の俗名が佐伯真魚(まお)ということを知ってましたから、初めて麻央さんと会った時に、ピンと来て、結婚に踏み切ったといいます。

高野山

 本題に戻します。真言宗の「派」でした。これは「真言宗十八本山」といって、真言宗には主要な派として16派18総本山あるというのです。主なものを挙げると、高野山の総本山・金剛峰寺が「高野山真言宗」、京都の東寺(教王護国寺)が「東寺真言宗」、京都の智積院が「智山派」、京都の仁和寺は「御室派」、 覚鑁(かくばん)上人が開山した和歌山県の根来寺が「新義真言宗」、奈良県の長谷寺が「豊山派」などです。皇室ゆかりの寺院として知られる泉涌寺は「泉涌寺派」、大覚寺は「大覚寺派」とそのままですね。

 最初に「自分が書いたものをすぐ忘れる」と書きましたが、京都にお住まいの京洛先生から「毎年1月に後七日御修法(ごしちにち みしほ)の記事と写真をお送りしておりましたが、覚えていないのですか?」との御下問がありました。

 えーと、何でしたっけ?その後七日御修法とかいうものは?

 駄目ですねえ。

  後七日御修法とは、毎年新年1月8日~14日までの7日間執り行われている真言宗の最高儀式で、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に会します。平安時代初めの承和元年(834年)、仁明天皇が空海の進言で宮中で始めた「国家安泰」を祈願したことが始まりと言われています。途中で断絶したこともありますが、1000年以上続いている儀式です。

 後七日御修法に毎年選ばれる高僧は15人で、その資格は70歳以上です。その中で、さらに大阿闍梨(導師)になれるのは、何回も、後七日御修法に選ばれて出仕した高僧だけです。しかも、御七日御修会が行われる灌頂院の堂内は寒いので、昔は、ここで亡くなった方も居られたといいます。

 ーということなどを、今年も昨年も一昨年もこのブログに書いていたんですね。すっかり忘れておりました(苦笑)。

【ご参考】2018年1月15日「京都・東寺の「後七日御修法」で取材敢行=京洛先生登場」、2019年1月15日「京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀

 

高野山の修旅=如是我聞(下)ー三鈷杵

宿坊「天徳院」の朝食

「高野山の修旅」も3日目、今回が最終回です。

伽藍の東塔

 3日目最終日は7月13日(土)、再び壇上伽藍に行きました。初日のナイトツアー、2日目は個人的に夕方歩いて回りましたので、これで3日連続3回目です。

すっかり慣れました。自分の庭のように歩き回ることができました(笑)。

 静謐で厳かな雰囲気は何事にも代え難いものがあります。

伽藍の金堂

 上の写真の金堂は、もともと2階建てでしたが、大正天皇の法事の際に、ろうそくの不始末が原因で焼失してしまいました。

 昭和7年(1932年)に再建され、高村光雲作の薬師如来像が本尊として安置されました。

 内部の菩薩などの壁画は、木村武山の筆によるものです。

根本大塔

 高野山の象徴的存在となった根本大塔は、高さ48.5メートル。日本最高の成田山新勝寺の塔50メールに次ぎ、2番目の高さです。

 大塔内部は、初日の回(上)で書いた通り、金剛曼陀羅を具現化したもので、本尊は、手指を輪にする胎蔵大日如来です。一方、西塔は胎蔵曼陀羅を具現化したもので、本尊は、印を結ぶ金剛大日如来と逆でしたね。

 胎蔵大日如来は優しい母性を、金剛大日如来は厳しい父性を表すと言われています。

大塔内壁に描かれた真言八祖像や花鳥は、堂本印象画伯の筆によるものです。

伽藍 六角経蔵

 六角経蔵の基壇付近にある把手を持ちながら一回りすると、一切経転読の功徳があると言われています。

 もちろん、ツアー参加者全員が一周しました。

清浄心院の豊臣秀吉が御手ずから植えた傘桜

 壇上伽藍参拝の後、清浄心院に向かいました。ここの住職は円満院住職も兼ねているので、門には二つの寺院の名称が掲げられていました。

 この寺には、豊臣秀吉自ら植えた傘桜があり、この樹の周囲で酒宴が開かれたそうです。

豊臣秀吉筆

 この酒宴の後に、興に乗った秀吉が書いた詩文が上の写真です。

 この直筆が、本物か複製か分かりませんが、実に独特な筆致で芸術の域に達していることが分かります。天下を取るはずです。

 本尊は運慶作の仏像で、国宝級でしたが、寺では申請していないようです。申請して国宝と認定されると、温度と湿度の管理、それに盗難防止用のセキュリティもしなければならず、結局、経済的にできないと、博物館に召し上げられてしまう恐れがあるからだそうです。

 高野山の寺院巡りはこれで終わり。標高900メートルの山を下りました。

慈尊院

 山を下ってツアー最後のコースの寺院が慈尊院でした。何でこの寺に立ち寄るのか、最初分からなかったのですが、空海の母親が息子の安否を気遣って、讃岐から出てきて滞在した寺だというのです。

慈尊院の塔

高野山は女人禁制ですから入山できません。

慈尊院を創建した空海は、母親に会いに、片道9キロの道程を月に9回出掛けたので、この辺りを九度山と呼ばれるようになったといいます。

 また、高野山参りの道しるべとして、「町石(ちょういし)」と呼ばれる石造りの卒塔婆が、山麓から奥之院にかけての約24キロを、1町(約109メートル)ごとに置かれましたが、その山麓の基点がこの慈尊院だったのです。

 鎌倉時代に慈尊院から伽藍の大塔まで180基、大塔から奥之院まで36基の町石が造れたといいます。

 当時は神仏習合ですから、空海は慈尊院の隣といっても、急な階段を100段近く上らないければなりませんが、丹生官省神社も同時に創建しました。

 空海の庇護者として金塊を与えてくれた例の丹生氏を神さまとして祀った神社です。

丹生官省府神社

 空海は、6月15日生まれで、唐に留学した時の師、恵果和尚(けいか・かしょう)のそのまた師である印度の不空上人が6月15日に入滅したことから、恵果は、空海が不空師の生まれ変わりと認め、20年掛かる留学期間をわずか2年で許しました。

 しかし、空海は日本に帰国しても、20年の約束だったため、京の都に戻れず、数年間は九州に滞在することになります。

 この時、空海は、宗像大社近くに鎮国寺と福岡市博多区に東長寺を創建します。高野山より古いので、これらの寺は、今でも「日本で一番古い真言密教の寺」として任じています。

 ということで、今回の旅行会社が立案した高野山の寺社仏閣巡りはすべて重要な拠点ばかりで、大変素晴らしい内容でした。感謝申し上げます。

【高野山霊宝館のパンフレットより】弘法大師さまの右手に持っているのが三鈷杵。衆生救済のために、変な持ち方で、衆生に三鈷杵を向けて、邪気を打ち払っています。

 最後に、気になっていたのが、三鈷杵(さんこしょ)です。

 古代インドでは確かに武器として使われていましたが、仏具としては、邪気や悪や、己の弱き心まで打ち祓うために使うのだそうです。

 何だか、私も欲しくなってしまいました。

南無大師遍照金剛

「政友会の三井、民政党の三菱」-財閥の政党支配

やっと、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書、2018年3月10日再版)を読了しました。

 先日、「昭和恐慌と経済政策」(中村隆英著)などに出てきた「帝人事件」などを話を友人の木本君に話したら、「この本にも『帝人事件』のことが出てきたよ。読んでみたら」と、貸してくれたのでした。

 中村教授の本が経済の側面から昭和初期をアプローチしているのに対して、筒井教授の本は、日露戦争終結直後の「日比谷焼き打ち事件」に始まり、昭和初期の「統帥権干犯問題」「天皇機関説事件」など、政治的、社会的事件を扱ったものです。

 筒井教授の著書は、タイトルの「ポピュリズム」にある通り、大衆の群集心理とそれを煽るマスメディアとの関係を描いていますが、ちょっと大衆デモと新聞報道との因果関係を強調し過ぎている嫌いがあります。

 大衆は、インテリ階級が考えているほど無知蒙昧でもなく、案外したたかに計算しており、新聞は、学者が思っているほど堅忍不抜ではなく、また、確固とした主張もなく時流に流され、自分たちの影響力を認識していないケースが多いからです。

 前半では、1905年の日比谷焼き打ち事件、1914年のシーメンス事件にからむ山本内閣倒閣運動、1918年の普選要求と米騒動など、今から100年ぐらい前の事件が登場しますが、100年経っても、世相はあまり変わらないなあと思ってしまいました。

 米国ではトランプ大統領が当選して、移民国家なのに、早速、本人は移民排撃政策を掲げましたが、移民排斥は今に始まったわけではなく、1924年5月15日には、「排日移民法案」が上下両院で可決されています。よく働く日系人たちは、「移民先では脅威と感じられた」からだそうです。この歴史的事実は、今の現代日本人はほとんど知りませんが、当時の反日運動の中で、プールでは「日本人泳ぐべからず」との看板が掛けられたのでした。(日本はその後、1930年代の上海租界で、同じような看板を立てました)

 カリフォルニア州の日系移民排斥の立て看板には「JAPS DONT LEAVE THE SUN SHINE ON YOU HERE   KEEP MOVING」と書かれました。「鬼畜日本人よ ここではお前たちに太陽の恵みを与えてやるものか とっとと出ていけ」とでも訳されることでしょう。つい最近、わずか95年前の出来事です。

 これに対して、日本では同年5月に米大使館前で抗議の切腹自殺が行われたり、東京と大阪の主要新聞社19社が米国に反省を求める共同宣言を発表したり、翌6月には帝国ホテルに60人が乱入して、「米国製品のボイコット」「米人入国の禁止」などを要求したビラを散布したりしました。これも、そのわずか95年後の現在、どこかの国で日本製品のボイコットが叫ばれたりして、何となく、既視感を味わってしまいました。

 さて、1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満洲事変が勃発します。それまで、一貫して「反軍部」と「軍縮」を主張していた朝日新聞が、大旋回して社論を180度変更します。これまで陸軍批判の急先鋒だった(大阪朝日新聞主筆の)高原操は、10月1日の大阪朝日新聞紙上で「満洲に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」とすっかり「転向」します。

 この背景には、著者は、朝日の不買運動があったことを挙げています。「満洲事変後、『朝日』に対する不買運動は奈良、神奈川県、香川県善通寺などで拡大、『3万、5万と減っていった』という。これに対して、『大阪毎日』は拡張していった。朝日の下村海南副社長は『新聞経営の立場を考えてほしい』と発言し、10月中旬の重役会で『満洲事変支持』が決定した」といいます。会社ですから、ビジネスを重視したわけです。

 こうして、大新聞は「軍神物語」を書きたてて、1945年8月15日の終戦まで、イケイケドンドンと大衆を煽り立てたわけですね。

◇反対党の家の消火はしません

 この本では、昭和初期の二大政党だった政友会のバックには三井が、民政党のバックには三菱がついており、財閥が政党を支配していたことが書かれています。こんな調子です。

 大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 なるほど、こんな極端のことが起きていたんですね。これを読んで、クーデターを起こした青年将校や右翼団体員たちが、財閥とともに、政党政治を批判していたことがやっと分かりました。

あと、細かいことですが、この本では、満洲事変の前に起きた1931年8月に公表された有名な中村大尉事件のことにも触れていますが、最後まで中村大尉で押し通して、名前が書かれていません。(実際は、中村震太郎大尉)この他にも、何カ所か、名前の姓だけしか表記されていないところがありました。

また、高原操のように、氏名だけしか書かれておらず、相当の知識人や研究者ならすぐ大阪朝日新聞社の主筆と分かるかもしれませんが、大抵の読者はピンと来ません。せっかく一般向けの教養書として書かれたのなら、もう少し簡単な説明や一言が欲しい気がしました。

童話「オズの魔法使い」は経済書だった?

 最近、いろんな本を読んでいると、これまで長く生きていながら、知らなかったことばかり見つけます。

 例えば、万有引力の発見で知られる英国のアイザック・ニュートン。彼は、科学者だとばかり思っていたら、実は経済とも関係があり、英国造幣局の長官を務め、1717年に金と銀の価値比率 を1:15.21とする「ニュートン比価」を定めた人だったんですね。(ただし、ニュートンは市場の銀の金に対する相対価値を見誤ったようで、その後、英国を金本位制に移行する要因にもなったとも言われています)

 もう一つは、世界中の子どもたちが一度は読んだことがある童話「オズの魔法使い」です。1939年に、ジュディー・ガーランド主演で映画化され、知らない人がいないほどの作品です。

 それが、実は、子ども向けの童話ではなく、様々なことが隠喩、暗喩された経済書として読めるというお話なのです。何しろ、オズOZとは、金の重量の単位オンスと同じですからね。知らなかった人はビックリ。御存知の方にとっては「何で今さら?」というお話です。

  著者は、米国人児童文学作家ライマン・フランク・ボーム(1856~1919年、享年62)。この本は、1900年秋の大統領選挙前の5月に出版されました。大統領選は、共和党マッキンレーと民主党ブライアンとの闘いで、1896年に次ぎ、二度目です。 ボームが支持していたブライアンは、金銀複本位制の復活を主張しますが、またも敗れて、マッキンレーが再選します。

 この大統領選挙戦の最中に執筆された「オズの魔法使い」は、19世紀の米国経済が如実に反映されているというのです。

  経済史家らによると、カンザス州の自宅が竜巻でオズの王国に吹き飛ばれた主人公の少女ドロシーは、米国の伝統的価値観を代表し、子犬のトトは、米国禁酒党(Teetotalers)を象徴しているといいます。

 旅の途中でドロシーが出会ったカカシは、黄色のレンガの道で何度も転ぶことから、カカシは、金本位制(黄色のレンガ道)によってデフレに苦しんだ農民の象徴。ハートがないブリキの木こりは、工業労働者を意味し、臆病なライオンは、民主党大統領候補のブライアンのことだといいます。

 このほか、東の悪い魔女は、農民を圧迫するウォール街の金融や工業界を象徴し、第25、27代クリーブランド大統領を示唆し、 西の悪い魔女は、西部の鉄道王、石油王を象徴し、第28、29代マッキンリー大統領を示唆しているそうです。

 さらに、オズ王国には東西南北の4カ国があり、米国に類似しているといいます。それぞれ色によって分類され、東部は工業地帯のブルーカラーから青、南部は赤土から赤、西部はカリフォルニア州で金鉱が発見されたことから黄色。エメラルドの都となる北部ワシントンD.C.はドル紙幣の色から緑で表現されるといいます。

 最後に、ドロシーは、銀の靴の魔力でカンザスへ帰ることができますが、途中で靴をなくして「二度と見つからなかった」。これは、ボームが支持していた金銀複本位制が次第に衰えていく様子を暗示したといいます。

 誠にうまくできた話ですが、児童文学研究者のほとんどは、「ボーム自身はそこまで言っていたわけではない」と否定的な意見も多いようです。

 1973年に大ヒットしたエルトン・ジョンの「 グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード」は、「オズの魔法使い」に出てくるあの「黄色のレンガ道」から採られたといわれてます。…もう一度、聴いてみますか。

タモリに学ぶ人生の過ごし方

 人間の悩みの90%は、人間関係だと言われています。親と子、先生と生徒、上司と部下、男女のもつれ、夫婦関係、友人関係、親戚関係、嫁姑…、昨今、通り魔事件も多いですから赤の他人との関係も悩みの種ですね。

 私も人間ですから、嫌になる日が多々あります。思うに、毎日、政治や経済や社会など人間の問題のことばかりについて考えているからなのでしょう。他人は、正義心と自己主張の固まりですから梃子でも動きません。どうにもならないことで悩んでいるわけです。

 そんな時は、宇宙のことを考えます。今から、138億年前に突然「ビッグバン」が起きて、何もなかった所に、急に時間と空間と重力とエネルギーが生まれて宇宙が出現した、なぞという話を聞かされても、俄かに信じがたいのですが、眩暈で気絶したくなるほどです。

 地球が誕生したのは46億年前で、宇宙の歴史を1年のカレンダーにすると、8月30日に当たるそうです。(ビッグバンを1月1日とする)

生命(タンパク質や核酸の生成)の誕生が40億年前(9月15日)。

 少し飛ばして、恐竜の誕生が3億年前(12月23日)

 その恐竜の絶滅が6500万年前。(12月29日)

 やっと、我々の御先祖さまとつながる新人類ホモ・サピエンスが誕生するのが20万年前。(12月31日午後11時37分)

 農耕牧畜の始まりが1万年前(12月31日午後11時58分)

 となると、宇宙から見れば、人間の歴史などたかだか一瞬に過ぎないんですね。それに比べて恐竜さんは、実際、地球上で2億年近くも繁栄していたのですから、大したものです。

 「誰それがどうした」「誰それがあれした」などと、人間に拘っているから、毎日、鬱屈してしまうんですね。

築地「C」 おまかせ丼 1000円

 私はあまりテレビは見ませんが、NHKの「ブラタモリ」はよく見ます。この番組では、その土地の地殻変動や噴火した溶岩や堆積岩など地学、地質学の話がよく出てきます。それが10万年前の話だったり、100万年前の話だったりすることはザラで、中には人類が誕生するはるか大昔の何億年も前の話だったりするのです。

 人間が出て来ず、主人公でもなかったりするのです。番組進行のタモリさんは、学者並みに、異様に地質や地学に詳しいのですが、珍しい岩石に出合ったりすると、人に会った以上に感動したり興奮したりするのです。

 御本人に会ったことがないので断定できませんが、この方は、どうも人間関係はサバサバしていて、恐らく人間関係で悩んだことがない性格に見受けられます。まず、深い意味で、人類自体に興味を持っていない。結晶片岩や蛇紋岩の方がはるかに興味があると思われます。

 となると、人類の歴史の1万年のスパンというより、何千万年、何億年のスパンで物事を洞察しているんじゃないのかと思ったわけです。

 勿論、タモリさんにも悩み事はあるでしょうが、あまり人間だけに捉われていない。彼の目先に拘らない、長い年月のスパンでの物の見方も、見習いたいものだと思いました。

「昭和恐慌と経済政策」

 ここ半年ほど、1929年のニューヨーク株式大暴落に端を発する大恐慌について、興味を持ち、その関連本としては名著と言われる秋元英一(当時千葉大学教授)著「世界大恐慌」(講談社メチエ、初版1999年3月10日)を読破したのですが、今一つ、理解不足でした。ケインズやニューディール政策などが登場し、字面を読むことはできるのですが、知識としてストンと腑に落ちることができなかったのでした。

 そこで、同書に参考文献として挙げられていた(当然ながら名著の)中村隆英(当時)東洋英和女学院教授の「昭和恐慌と経済政策」(講談社学術文庫、初版1994年6月10日初版、底本は、1967年、日本経済新聞社刊「経済政策の運命」)を読んだところ、日本に特化した大正から昭和初期の話でしたが、すっきりと「経済史」として整理されていて、歴史的流れをつかむことができました。

 この本の主人公は、「金解禁」を実行した民政党の浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相です。私のような金融政策音痴の人間が言うのは大変烏滸がましいのですが、何で、世界恐慌最中の昭和5(1930)年1月に、井上蔵相は金解禁を実施したのか、という疑問でした。結局、この金本位制復帰のお蔭で、緊縮財政から銀行倒産など昭和恐慌が激しさを増し、同年11月に浜口首相の狙撃事件(翌年8月死去)が起こり、昭和6(1931)年12月に、政変によって政権についた政友会の犬養毅内閣の高橋是清蔵相によって、金輸出再禁止されたものの、井上準之助は翌7年9月に血盟団の団員によって暗殺されてしまいます。(19世紀以来、金本位制を牽引してきた本場英国は1931年9月21日に金本位制を停止。ポンド大英帝国の没落が始まります)

 考えてみれば、今、上述した浜口雄幸首相、井上準之助蔵相、犬養毅首相(5・15事件で)、高橋是清蔵相(2・26事件で)は全員、テロ襲撃に遭って暗殺されているんですよね。当時の政治家は生命を懸けていたことが分かります。

 しかし、果たして、暗殺した側の右翼国家主義の宗教団体にしろ、軍部の青年将校たちにしろ、知識人ではあっても、当時の国際経済や金本位制などの金融問題、複雑な為替管理操作や公債の発行などといった財政政策などを少しでも勉強したことがあったのだろうか、と疑問に思いました。

 恐らく、彼らは、不況や東北地方の冷害で、娘を身売りしなければならなかった惨状を見聞したり、三井などの財閥が、金輸出再禁止によって円の暴落になるのではないかという思惑でドル買いに走り、大儲けしたことを新聞で読んで義憤に駆られたりしただけで、複雑な経済問題を熱心に勉強していなかったのではないか、と思いました。

 つまり、表面的な政治問題や社会事件だけ見ていただけでは歴史は分からないのです。人間の下部構造である経済をしっかり押さえていなければ、深く理解できないと思ったのです。

 そういう意味で、こういった「経済史」関連本を読むことに大変な意義深さと価値を見いだしました。

 以下は、重複することが多々ありますが、備忘録としてメモ書きします。

・為替レートの維持が困難になった大正13(1923)年3月、東洋経済新報は、新平価解禁を主張した。…円の金価値を1割程度切り下げて解禁を行うべきだというのである。新平価によれば国内経済に打撃を与えないで金解禁を行うことができるというのである。…東洋経済の石橋湛山、高橋亀吉に小汀利得(おばま・としえ、中外商業新報記者)、山崎靖純(時事新報で金解禁反対を唱えたが追い出されて、読売新聞に移籍)を加えたいわゆる新平価解禁四人組の経済ジャーナリストだけが終始新平価解禁を唱えるのである。(50~51ページ)

・大正15(1926)年、大蔵大臣に就任した片岡直温は、金解禁を決意したが、銀行の内容の悪さを知って驚いた。…2億7000万円余の震災手形のうち、実に9200万円余が鈴木商店関係の手形であり、それに次ぐものが久原房之介関係の手形であった。また、震災手形を所有する銀行は、台湾銀行が1億円、朝鮮銀行1500万円をはじめ特殊銀行が1億2200万円、その他普通銀行が約8500万円だった。(56~57ページ)

・日本が立ち遅れていた金本位復帰(金輸出解禁)を決意したのは、昭和4(1929年)7月、浜口民政党内閣が成立し、井上準之助が蔵相に迎えれたときからである。井上蔵相は、旧平価による金解禁後の国際競争の激化に備えて、財政支出を削減し、金利を引き上げ、国民に消費節約を訴えるなど、強烈な引き締め政策を実行した。このため、日本経済は29年秋から急激な景気後退に見舞われた。米国に始まる不況の波及はその直後のことである。昭和恐慌は、金本位復帰のための引き締め政策と、海外の恐慌という二重の原因によってもたらされたのであった。(219ページ)

・井上の悲劇は、…古典的な経済理論が現実から乖離しようとしているのにも関わらず、教科書通りの経済政策を強行しようとした点にあった。…井上の政策が破綻した何よりの原因は、全世界的な金本位制度が行き詰まりに直面している事実を正しく認識しなかったことである。…これに対して、高橋是清は、金本位制の意味をそれほど重くみていなかった。むしろ高橋にとっては産業の発展の重要性あるいは国民の所得水準の維持、向上という目標が強く意識され、金融や財政はそのために協力するべきだという強い考えを持っていた。…高橋は、ケインズの投資乗数理論を思わせるような波及効果をある程度実践したといってもいい。(201~205ページ)

 こうして、健全財政の守り神とされていた蔵相高橋是清は、軍事予算を削減するなどして軍部から反感と恨みを買い、結局、2・26事件で暗殺されるわけです。 

 嗚呼、何か、小難しいことばかり書いてしまいました。これでまた読者も離れてしまうなあ…(苦笑)。

日本工業倶楽部は超が付く社交クラブだったとは…

 皆様御存知の満洲研究家、松岡將氏が体調を回復されて、来月、満洲三部作(「松岡二十世とその時代」「王道楽土満洲国の『罪と罰』」「在満少国民望郷紀行」)を引っ提げて、日本工業倶楽部日本倶楽部で講演会を開催されるということで、おめでとう御座います。御同慶の至りです。

 日本工業倶楽部とは、何の会なのかよく知らなかったのですが、その会員の皆様を見たところ、日本を代表する超一流企業の重役さんや元社長さんらのお名前がズラリ。

 ちょうど、世間の裏情報に精通している経済ジャーナリストの油小路先生が通りがかったので、捕まえて聞いてみました。

 渓流斎 あ、どうも、油小路先生。例の松岡先生が、元気になって、今度、日本工業倶楽部とかいうところで、講演するらしいんですけど、どんな所ですか?日本記者クラブみたいな所ですか?

 油小路 馬鹿言っちゃいけませんよ。そんなものと比べたらいけませんよ。月とスッポンですよ。日本工業倶楽部は、経団連なんかよりずっと古い大正六年、当時の有力実業家らによって東京・丸の内に創立された団体ですよ。初代理事長は団琢磨。あの血盟団事件で暗殺された三井財閥の総帥です。

 へー、そうだったんですか。

日本工業倶楽部会館   屋上には二つの人物像が(同倶楽部のHPより)

 あなたは、何も知りませんね。 日本工業倶楽部会館の正面屋上には二つの人物像が置かれてます。男性はハンマーを持った坑夫、女性は糸巻きを手にした女工さん、当時の二大工業の石炭と紡績を象徴し、彼らに敬意を表しているのです。戦後、日本工業倶楽部の理事長になった日清紡の社長宮島清次郎(1879~1963)は知らないでしょうねえ。経営者として清廉潔白な人で、とても尊敬できる人ですよ。高度経済成長期に、会館の屋上にゴルフ練習場をつくろうという話になった時に、「労働者が働いている時に、経営者が昼間っから、ゴルフの素振りをするとは何事だ。練習場をつくるなら、俺は理事長を辞める」と啖呵を切った人ですよ。

 そして、宮島清次郎は、最後まで勲章を拒否した人でした。「人間はもともと農耕民か、漁民だったんだから、差別はいらない」という考えでした。

 へー、凄い話ですね。

 宮島清次郎は、東京帝国大学時代、吉田茂と同期生だった関係から、財界として資金面で吉田内閣を支えたのです。また、日清紡の社長に若き桜田武を指名したのも宮島です。ご存知の通り、桜田武は後に日経連の会長を務めるなど財界代表として活躍するわけです。

 いやあ、僕は財界について、何も詳しくないので、知りませんでした。

 かつて、日本工業倶楽部には「財界クラブ」があったんですよ。今は経団連ビルにありますけどね。そこで、財界の大物の記者会見があったりして、小生のような経済部の新聞記者たちが取材していたわけです。古参の先輩記者に聞いたら、 その記者クラブがあった所は昔、「車夫馬丁」の控え室だったというではありませんか。今は車夫馬丁は差別用語ですが、昔の新聞記者は車夫馬丁と同等の扱いだったということですよ。

 だから、日本記者クラブと日本工業倶楽部は似て非なるもので、月とスッポンだということですよ。ちなみに、明治の思想家中江兆民は、息子が将来、車夫馬丁になっても困らないよう、名前負けしないように、長男に「丑吉」と名付けたのは有名な話です。

 そうだったんですか。

 入会金も年会費も桁違いですし(法人は入会金50万円、年会費55万円、推薦者2人)、料理の質もレベルも全然違う。40年近く昔の話ですけど、日本工業倶楽部のカレーライスなんて、当時でも3000円ぐらいしましたよ。値段に違わず美味さは比べ物にならないくらいピカイチでしたよ。うまかったなあ~。大手新聞社の記者の中にはタダ飯を食うために来る者もいましたよ(笑)。

 3000円は大袈裟でしょう。本当ですか?

 ま、そんなもんです。あと、当時、日本工業倶楽部内にあった理容店は、「天皇の理髪師」と言われた人がやっていたことで知る人ぞ知る床屋さんでした。何から何まで超一流でしたよ。

Copyright par KYoraque-sensei

 ということで、日本工業倶楽部の話ばかりで、もう一つの日本倶楽部のことについては、油小路先生からあまり話を聞けませんでしたが、こちらも凄い倶楽部で、昨年創立120周年を迎えました。 明治30年11月、公爵近衛篤麿(1863~1904)、子爵岡部長職(おかべ・ながもと=1855~1925)、鳩山和夫(1856~1911)の3氏が主唱し、翌31年6月に設立された名士の会で、財界だけでなく、政界、官界、法曹界と錚々たるお歴々が集った親睦団体です。

 主唱者の近衛篤麿は貴族院議長などを歴任、戦時中に首相を務めた近衛文麿と作曲家近衛秀麿の父。岡部長職は、岸和田藩の最後の藩主で、明治・大正の外交官、政治家。その三男長挙は朝日新聞創業者の村山龍平の婿養子となって朝日新聞社長になった人。 鳩山和夫は弁護士、政治家で、東京専門学校(早稲田大学)の校長なども歴任。長男一郎、孫の由紀夫氏も首相を務めるなど鳩山一族の基礎をつくったような人でしたね。